目の下の瘤(一)
これは僕が大学生だったときに体験した話です。
僕は昔から体が丈夫で滅多に風邪を引かないので、ほとんど病院に行くことはありませんでした。加えて視力も良く、虫歯もなかったので眼科や歯科にも行く機会はなく、医療機関とは無縁の生活を続けていました。
しかしそんなある日、コンビニのバイト中に左目の辺りに違和感があることに気付きました。気になって何度か瞬きをすると、どうも左目の下辺りに何かが出来ているようで、目線を下にすると小さな影も見えました。
(もしかしてでき物か何か出来たかな……)
僕はそう思いましたが、仕事中だったし、いちいち鏡を見に行くのも面倒くさいのでその日はそのまま仕事を終えて、特に確認することもなく家に帰りました。
そして翌朝、欠伸をしながら起きてきた僕の顔を母が不思議そうに見つめてきました。
「なに?」
僕が尋ねると母は「あんた……」と呟いて自分の右目を指差しました。
「目の下に何か出来てない?」
「え?」
慌てて鏡を確認すると、左目の下になにやら小さな瘤が出来ていました。
「あー、やっぱり出来てたか……」
もともと目に違和感があったのでそんなに驚きはしませんでした。むしろ眼科に行かないといけないのかという落胆の方が大きかったです。
病院は待ち時間が長いし、何回か通わないといけなかったりするので正直行きたくなかったのですが、母も「あんたそれ病院行った方がいいわよ」と言うので仕方なくバイトもない土曜日に行くことにしました。
そして土曜日の午後。空は分厚い雲が覆っていて、七月も半ばに差し掛かり辺りにはじめじめと纏わり付くような空気が立ちこめていました。
「行くか……」
僕はため息をつきつつ原付のアクセルを回しました。僕の家の周辺には眼科がなく、一番近いところでも原付で三十分程かかります。しかもその日は土曜日で、おそらく病院も混雑しているであろうことが容易に想像できました。
しかし目の下の瘤は心なしか最初に気付いたときよりも大きくなっていて、このままでは日常生活に支障を来してしまいかねないので、早めに眼科に行って治すしかありませんでした。
十分ほど原付を走らせて、僕は途中にあるコンビニに入りました。実はその眼科に行くのも数年ぶりで、道が分からないのでスマホのマップで確認しようと思ったのです。
「えーと、どの辺だったかな……」
そう呟きつつスマホを取り出したその時、僕の目に影井眼科と書かれた看板が飛び込んで来ました。
「あれ、こんな所に眼科なんてあったかな……?」
そのコンビニはたまに利用していたのですが、その隣は魔の物件で今までいくつもの店が出来ては潰れていました。確か少し前に来たときは潰れたラーメン屋の跡地で、暖簾や幟がそのままになっていたはずです。
「今度は……眼科になったのか……?」
少し気になりましたが、少し前に来たと言っても半年ほど前のことなので、新しく改装されて眼科になっていてもおかしくはありませんでした。それよりも大事なのはそこが眼科であるということです。目的の眼科はコンビニからまだ二十分ほどかかるので、その場所なら通院することになっても三分の一の時間で済みました。
「……行ってみるか」
とりあえず僕は裏にある駐車場に原付を押していきました。実はその場所が魔の物件になってしまう理由というのが、駐車場が少し入りにくい場所にあるからなのですが、原付なら問題ありません。
しかし近場にある眼科はこの一軒だけ。もしかするとかなり混んでいるかも知れないという不安が頭をよぎりましたが、そんな予想に反して駐車場には車が一台も駐まっていませんでした。隅の方に自転車が一台置いてあるだけです。
僕はその自転車の隣に原付を置いて、もう一度表に出て眼科の入り口に向かいました。曇っているせいか建物全体がどんよりと薄暗く感じました。僕は一瞬ためらいましたが、ここまで来たら行くしかないと思い、入り口の自動ドアをくぐりました。
入ってみると室内もかなり薄暗くて、クーラーが効いているのか空気がひんやりとしていました。僕は少し入ったことを後悔しました。しかし暗さ以外は普通の眼科とほとんど同じでした。もちろんラーメン屋の面影は一切ありません。
入って正面に受付があり、色白の若い女性が俯いて何か作業をしていました。書き物をしているようでこちらに気付く様子はありません。少し迷った後、僕は恐る恐るその女性に声をかけました。
「あの……」
すると女性はゆっくりと顔を上げて僕の方をじっと見つめてきました。僕も無愛想な方なのであまり人のことは言えませんが、その女性はおおよそ受付をしているとは思えないほど冷たい目をしていました。もはや魂が宿っていないのではと思われるほどでした。
「……今日は、どうされましたか」
女性は機械のように口を動かして僕に尋ねます。僕はかすれる声を必死に絞り出して答えました。
「あの……目の下に……でき物が出来て……」
再びその女性は僕の目をじっと見つめてきました。そして今度は「保険証はお持ちですか」と機械的に尋ねました。僕は財布から保険証を出して女性に渡しました。すると今度は「診察券はお持ちですか」と尋ねられたので僕がないと答えると、「しばらくお待ち下さい」と言って女性は引き出しから何かを取り出してボールペンを動かし始めました。しばらくしてその女性は小さな白い紙を僕に手渡しました。その紙には診察券と印刷されていて、僕の名前と整理番号と思われる数字、それから受付時間などが書かれていました。
「次回から来院の際は保険証と一緒にお出し下さい」
「はい」
「ではしばらくそちらでお待ち下さい」
そう言って女性は再び俯いて何かを書き始めました。一体何を書いているんだろうと僕は思いましたが、覗き込むわけにもいかず言われたとおり待合室の椅子に腰掛けました。
しばらく僕はボーッと椅子に座っていました。時間にすれば五分くらいだったと思いますが、その間新たに人が入ってくることもなく、受付の女性がペンを動かすカリカリという音だけが院内に響いていました。
(ここ……大丈夫かな……)
僕がそう思い始めたその時、受付横の診察室と書かれた扉が開いて中から僕と同い年ぐらいの男性が出てきました。
(あの自転車の持ち主かな)
僕は何となく思いました。
男性は受付の女性と一言二言話すと僕の方に向かって歩いてきました。そして僕が座っていることに気付くとペコリと頭を下げました。
「こんにちは、隣いいですか?」
「どうぞ」
特に座る場所がないわけでもなかったのですが、男性は僕の隣に腰を下ろしました。
「あなたは大学生ですか?僕と同じくらいに見えますけど」
「ええ、まあ……。あなたも?」
「僕はフリーターなんですけど、年齢は同じぐらいでしょうね」
どうもその男性はかなり社交的な人のようで、初対面の僕に対してもグイグイ話しかけてきました。僕も最初は戸惑いましたが、その男性が気さくに話しかけてくるのでいつの間にか話し込んでしまっていました。
「なるほど、目の下にでき物が。僕もそうなんですよ」
見るとその男性も、左目の下辺りに小さな瘤が出来ていました。
「でも、この辺眼科がなくて……。それで困ってたらここを見つけて入ってみたんですけど……」
僕は受付の女性に聞かれないように少し声を落として言いました。すると男性も僕が言いたいことを分かってくれたようで、僕の方に顔を寄せて呟きました。
「ああ、僕も最初にここを見つけたときはちょっと寂しい所だなって思ったんですけど……。でも通うなら近い方がいいと思って、ここにしたんです」
「そうなんですか」
自分と全く同じ境遇の人がいたことで僕の不安はかなり解消されました。
「〇〇さん」
そこで受付の女性が、おそらく男性のものだろう名前を呼びました。男性は受付の方に行き、そこで女性の話を聞きつつ財布を取り出します。それからお金を払い、薬の袋を受け取るとペコペコと頭を下げながら受付から離れました。そして僕の方にやって来て、「ではお先に失礼します」と言うと病院の外に出て行きました。
(随分と人当たりのいい人だったな……)
僕がそう思っていると、今度は受付の女性が僕の名前を呼びました。
「診察室へどうぞ」
「はい……」
僕は言われたとおり診察室の扉を横に引いて中に入りました。待合室もだいぶ暗かったのですが、診察室はもっと暗く、僕は思わず入り口で立ち止まってしまいました。医者とおぼしき人物が部屋の真ん中に座っていたのですがその風貌もはっきりしませんでした。唯一はっきりしたのはその医者が男性であることだけでした。
「こちらにおかけ下さい」
「あ……はい」
僕が椅子に座ると、医者はじっと僕の目を見ながら無機質な声で言いました。
「今日は……目の下に瘤が出来たということですね……?」
「は、はい……」
僕が若干おどおどしながら返事をすると、医者は「分かりました。では少し見てみましょう」と言い小さなライトを点灯させると、それを逆手に持って僕の目に当てました。そして反対の手を僕の顔に添え、親指で目の下を引っ張ります。
少しの間、医者はまるで瘤の内部まで見透かすかのように僕のそれを凝視していましたが、やがて顔に置いていた手を離すと「なるほど……」と呟きました。
その様子を見て、僕は少し不安になりました。もしかすると何か悪い物が出来ているのではないかとそう思ったのです。ですが医者はライトを消すとこう言いました。
「少し気になりますが、大丈夫でしょう。目薬を出しておくので、一日三回、毎日欠かさず点眼してください」
「そうですか……」
僕はホッと胸をなで下ろしました。診察が妙にあっさりしていたのが若干気になりましたが、まあでき物の診察なんてこんなものだろうと納得しました。
「では一週間後にまたお越し下さい」
「はい、ありがとうございます」
そう言って僕は立ち上がり、ドアに手をかけました。と、その時。
「ΔΔさん」
名前を呼ばれて僕は振り返りました。部屋が暗いため表情までは分かりませんでしたが、医者がこちらをじっと見つめていることは分かりました。
その姿が何とも言えず不気味だったので、僕は少し震えながら答えました。
「な、何ですか……?」
「点眼は一日三回、毎日必ず行って下さい」
そのあまりの威圧感に、僕は頷くしかありませんでした。
「……はい」
「では……お大事に」
その後は特に何もなく、僕は受付で薬を受け取り会計を済ませて病院を出ました。
帰り際、受付の方を振り返ってみるとやはり受付の女性は俯いてひたすら何かを書いていました。僕は何だか怖くなって急いでその場を後にしました。
駐輪場に向かうと来たときには隣にあった自転車がなくなっていました。
(やっぱり自転車はあの人のだったんだな)
今にも雨が降り出しそうな空の下、僕は原付に跨がり家に帰りました。
そして家に帰り着いて、僕は早速病院で貰った目薬を差してみることにしました。白い紙の袋を開けると、中には黒いキャップの目薬が入っていました。当たり前ですが普通の目薬でした。ですがあの眼科がちょっと不気味な雰囲気だったので少し疑っていたのです。
「確か一日三回だよな……。ってことは朝昼晩に一回ずつか。多いな……」
そうぼやきつつ時計を確認すると、時間は午後四時になろうかという所でした。僕は少し考えて、夜の分を今差したことにすればいいかと思い目薬のキャップを開けました。
上を向いて、人差し指と親指で瞼を大きく開き、それから容器を摘まむ指に力を込めました。近すぎて像はぼやけていますが、滴がゆらゆらと揺らめいているのが分かりました。間もなくポトリと滴が落ちて、眼球全体に薬液が染みてゆきます。反射的に目を閉じて、何度が瞬きをするとちょうど目のすぐ下に出来ていた瘤にもその液体が触れました。
その時です。
一瞬、瘤がブルンと震えたような気がしました。僕はびっくりして鏡を確認しましたが、特に変わったところはありません。薬の影響か、ほんのちょっと瘤自体が赤くなっているだけで、腫れているとか、ましてや動いているなんてことはありませんでした。
(なん……だったんだ?)
薬に反応したのか、それとも刺激に反応したのかは分かりませんでしたが、一瞬瘤が震えたのは確かでした。
結局僕はその事で薬を使うのが怖くなり、元々の面倒くさがりな性格も手伝ってすぐに目薬を差さなくなりました。
そして一週間後。僕は再び影井眼科を訪れていました。
裏の駐車場に向かうと、やっぱり車の一台も駐まっていませんでした。
(自転車もない……ってことはもう帰ったのか。それともまだ来ていないか)
出来ればまだ来ていない方であって欲しいと僕は願いつつ、原付のエンジンを切って表に回ります。前に来たときは曇っていたせいで暗く見えたのかと思いましたが、晴れていてもまるでそこだけ曇っているかのようにその建物はどんよりとしていました。
僕はやはり入るのをためらいましたが、それでも行くしかないので僕は入り口の自動ドアをくぐりました。
受付の女性は相変わらず俯いてひたすら何かを書いていました。僕は女性に声をかけ、受付を済ませると待合室の椅子に座りました。前回と違い診察券も持っていたので割とスムーズに受け付けを終えることが出来ました。
三分ほどだって、受付の女性が僕の名前を呼びました。結局あの男性は来ませんでした。
(そもそも今日来るとも限らないしな……)
僕はそう思いつつ診察室の中に入りました。前回と同じく、暗い部屋の中央付近に医者が座っていました。
「こちらにおかけ下さい」
医者は無機質な声で言いました。
「…………はい」
僕が恐る恐る椅子に座ると、先生はごそごそと何かを探しながら僕に尋ねました。
「その後、瘤の様子はどうですか?」
「はい……あまり良くならないというか、変化がないというか……」
その瞬間、医者の動きがピタリと止まりました。
「…………そうですか」
診察室の異様な空気に耐えかねて、僕は今すぐここから立ち去りたい衝動に駆られましたが、そういうわけにもいかずただじっと耐えていました。
「では……少し見てみましょう……」
医者はライトを逆手に持って僕の目に当てました。それから反対の手の親指で僕の目の下を引っ張ります。そしてしばらく瘤の具合を観察したかと思うと、おもむろにこう言いました。
「目薬は……ちゃんと毎日差していますか?」
僕は心臓が止まる思いでした。確かに目薬を差していたのは最初の二三日だけで、それも一日一回や多くて二回くらいでした。ですが忘れていましたなんて言える雰囲気ではなく、僕は「あの……はい、一応……」と濁しつつ嘘をつきました。
先生は見透かすように僕の目を見ていましたが、「……そうですか」と特に怒るでもなく僕の顔から指を離し、ライトを消しました。
僕の心臓はバクバクとものすごい音を立てていましたが、僕は何とか動揺がバレないように平静を装いました。
「あまり薬が効いていないようなので、今度は少し強いものを出しておきます。一日三回、必ず毎日点眼してください」
僕には『必ず』の部分をやたらと強調しているように聞こえました。バレてる、僕はそう思いました。
「次はそうですね……また一週間後に来て下さい」
相変わらずの無機質な声で医者は言いました。それから「お大事に」という言葉を背に、僕は逃げるように病室を出ました。
診察室から出たとき、僕の視界の端にちょうど受付の内側が映り込みました。一瞬でしたが受付の女性がノートに何かを書いているのが見えました。何を書いているのかまでは見えませんでしたが、どうも同じページに何度も何度も上書きしているようで、見開きの一ページが真っ黒になっていました。ですが一瞬視界に映っただけのことなので、正確には分かりません。
(見間違い……かな……)
僕はそう思いました。見間違いであって欲しい。むしろそう思っていました。
この時点で、僕はかなりこの眼科に対して不信感を抱いていました。医者や受付の女性、病院自体の雰囲気もそうですが、何よりもおかしいのは今まで二回訪れて、あの男性以外誰とも会っていないことでした。いくら魔の物件といっても、コンビニが隣にあってこれほど人に会わないというのはさすがに不自然だと僕は思いました。
(なんか急に怖くなってきた……。早いとこ会計を済ませて出よう……)
僕がそう思っていると入り口の自動ドアが開いて誰かが入って来ました。見ると前回もここであったあの男性でした。
「あ、どうも。今日は遅かったん────」
僕は言いかけて言葉を失いました。男性の目の下にあった小さな瘤が、薄暗い待合室でもよく分かるほど大きくなっていたのです。
「どうしたんですか、それ!?」
僕がそう尋ねると、男性は虚ろな目で答えました。
「ああ……これは…………なんか前よりひどくなって来ちゃって…………。目薬も言われたとおり……毎日三回差してたんですけど…………」
男性はそう言いましたが、僕にはその目薬が瘤を成長させているように思えてなりませんでした。それなら僕の瘤がちょっとだけ大きくなっていたのも説明が付きます。ちょっとしか差さなかったから、ちょっとしか大きくならなかったのだと、僕はそう思いました。
「それに……変なんです……」
男性は半分眠っているように頭をゆらゆらと揺らしながら言いました。
「変……?」
「なんか……動いているような気がするんです……」
「う……動いてる……?」
「瘤が……動いているような気がするんです……」
僕は言えませんでした。それは気のせいじゃない、実際にあなたの瘤はブルブルと震えている、なんて。
それに……いえ、気のせいだと思います。あんな薄暗い場所で、さすがにそこまではっきりと見えるはずがありません。ですが僕の目には確かに見えたんです。男性の目の下の瘤、その中に何かがいるのを。それはちょうど孵化直前の魚や両生類のように、瘤の中でクルクルと動いていました。そしてそれは、真っ直ぐに僕の目を見ていました。




