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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: 伊達ジン
第4章:二度目の遺言

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第48話 祭りのあと

 祝勝会の宴から一夜明けた、アマン東京のスイートルーム。

 高く昇った秋の太陽が、広大なリビングを明るく照らし出していた。昨夜の酒の空き瓶やロブスターの殻は、すでにホテルのスタッフによって綺麗に片付けられ、いつもの洗練された空間が戻っている。


 だが、その静寂は、一触即発の危機的状況によって破られようとしていた。


「……フーーッ!! シャーッ!!」


 部屋の隅、大理石の床の上で、激しい威嚇の声が上がった。

 声の主は、先住猫のハイだ。

 彼は今、全身の毛を逆立て、尻尾をタヌキのように太く膨らませ、耳をペタンと後ろに伏せた「完全な臨戦態勢」をとっていた。

 その怒りの矛先は、目の前にある彼専用の高級陶器のフードボウルと、そこに顔を突っ込んでいる漆黒の毛玉――新入りの黒猫、ローに向いていた。


 事の発端は、井上健太郎がそれぞれの皿に朝食を分けたことだった。

 温室育ちでマイペースなハイは、「今日も美味しいご飯だニャ」と優雅に一口目を噛み砕き始めた。

 しかし、その瞬間。

 自分の皿を秒速で平らげたローが、黒い弾丸のようなスピードで突っ込んできたのだ。過酷な路地裏と地下室で「食べられる時に限界まで食べる」という生存本能を培ってきたローにとって、他人の皿の飯もまた自分の飯である。


 ローはハイを体当たりで押し退けると、ハイの皿に顔を突っ込み、ガツガツと猛烈な勢いで食べ始めた。


 奪われた。

 自分の、大切な、ご飯を。

 ハイのプライドと食欲が、限界を超えて沸騰した。


「ミャアーーーッ!!(それ僕のニャ!!)」


 ハイはブチギレた。

 普段の甘えん坊な姿からは想像もつかないような低い唸り声を上げ、ローに向かって突撃する。

 そして、二本の後ろ足で立ち上がり、前足を風車のように振り回した。


 ペチペチペチペチペチッ!!


 渾身の連続猫パンチ。

 しかし、いかんせん箱入り息子のハイのパンチは、爪も出ておらず、力も入っていない「へなちょこパンチ」だった。

 ポスッ、ポフッ、とローの黒い頭を叩くが、ローは全く動じない。むしろ「マッサージご苦労」と言わんばかりに、一心不乱にカリカリを咀嚼し続けている。


「……ニャ、ニャンで効かないの!?」


 ハイはショックを受けたように動きを止め、自分の前足とローの顔を交互に見つめた。

 そして、全てを食べ尽くして「ごちそうさま」と唇を舐めるローの姿を見て、ハイの目からポロリと涙が落ちそうになった。


「ミャ、ミャァァァ〜〜ン……!」


 ハイは振り返り、ソファでコーヒーを飲んでいた井上の足元へと全速力で駆け寄ってきた。

 そして、スラックスにしがみつき、見上げるような目で訴えかける。


『ご主人様! あいつが! あいつが僕のご飯全部食べたニャ! 怒ってよ!!』


「……ははは。お前は本当に、どんくさいな」


 井上は苦笑しながら、半泣きのハイを抱き上げた。

 そして、ローの前にしゃがみ込み、鼻先を軽く指で弾いた。


「ロー。横取りはダメだ。……お前はもう、飢える心配はないんだからな」


 ローは「チッ、見つかったか」という顔をして、短い尻尾を振りながらキャットタワーへと登っていった。

 井上は新しいカリカリをハイの皿に補充してやり、ハイが安心して食べ始めるのを見届けた。


「……平和ねぇ」


 別の部屋で寝ていた木村心が、目を擦りながらリビングに現れた。

 彼女の足元には、ローが「飯をもっとくれ」とすり寄っている。


「おはよう、心。……他の連中は?」

「舞永と冴子さんはもう仕事に行ったよ。南先生も事務所。優香ちゃんは……まだ客室で爆睡中。……おっさんは? 今日もどこかの会社を潰しに行くの?」

「いや。……今日は、少し野暮用がある」


 井上はコーヒーカップを置き、窓の外の青空を見上げた。

 

 復讐は、全て終わった。

 帝都グループの株式は過半数を握り、南の手によって「K.I.ホールディングス」への資産譲渡と経営陣の入れ替えが法的に完了しつつある。

 猛は精神病院の閉鎖病棟へ。

 麗華は全財産を差し押さえられ、婚約が罠だったと知り発狂。

 そして女帝・貴子は、特別背任の容疑で逮捕され、認知症の疑いから警察病院へと移送された。


 彼らはもう、二度と這い上がれない。

 完全なる、絶対的な勝利。


「……少し、出かけてくる。ハイとローの面倒を頼む」

「りょーかい。お土産よろしくねー」


 井上はジャケットを羽織り、部屋を出た。

 向かう先は、一つしかなかった。


 東京・松濤。

 かつて西園寺家の屋敷がそびえ立っていたその場所は、わずか数日で異様な姿へと変わり果てていた。


 黒塗りのハイヤーから降り立った井上を迎えたのは、堅く閉ざされた鉄格子の門と、そこに無数に貼り付けられた『差押』という赤や黄色の執行札だった。

 国税局、そして債権者となった金融機関による、容赦のない財産保全の証。

 門の前には、数日前に群がっていたマスコミの姿もなく、ただ秋の冷たい風が吹き抜けているだけだ。


 井上は、南に用意させておいた「債権者代理人」としての立ち入り許可証を警備員に示し、門を開けさせた。


 屋敷の敷地に足を踏み入れる。

 つい先日まで、プロの庭師によって一ミリの狂いもなく刈り込まれていた芝生は、主を失った途端に生気を失い、落ち葉が吹き溜まっていた。

 玄関ホールの重厚な扉を開ける。


「…………」


 静寂。

 耳鳴りがするほどの、深い沈黙がそこにあった。

 茉莉をはじめとする使用人たちは全員解雇され、この広大な屋敷には今、ネズミ一匹の気配すらしない。

 シャンデリアの光は落ち、窓にはブラインドが引かれたままだ。


 井上は、革靴の音を響かせながら、薄暗い廊下を歩いた。

 ここだ。

 1周目の人生で、自分は毎朝4時に起き、この廊下を冷たい水で濡らした雑巾で磨いていた。

 指先がひび割れ、血が滲んでも、休むことは許されなかった。

 貴子のヒールの音が聞こえるたびに、ビクビクと身をすくませ、壁のシミのように息を潜めていた。


 ダイニングルームを覗く。

 かつて、豪奢な食事が並び、彼らが自分を嘲笑いながらワインを傾けていた場所。

 今は、長いテーブルの上に埃が積もり、高価な絵画や調度品には全て「差し押さえ」のテープが貼られている。


 井上は、さらに屋敷の奥へと進んだ。

 北側の、日の当たらない突き当たり。

 かつて、灰谷守に与えられていた「三畳半の物置部屋」。


 ドアノブに手をかけ、押し開ける。

 カビと湿気の匂いが鼻を突いた。

 鉄格子の嵌められた小さな窓。

 夏は蒸し風呂になり、冬は外気と変わらない温度になる、地獄の独房。

 1周目の人生で、自分はここで10年間、膝を抱えて泣いていたのだ。


『……君は犬の方が似合うわ』

『お前のような薄汚い男が、西園寺家の恥だ』

『さよならだ、義弟くん』


 彼らの声が、幻聴となって脳裏に木霊する。

 井上は、ホコリの積もった冷たいフローリングの上に、ゆっくりと座り込んだ。

 そして、壁に背中を預け、天井を見上げた。


「……終わったぞ、灰谷」


 井上は、誰もいない空間に向かって呟いた。


「お前を虐げた奴らは、もうここにはいない。……お前を殺した奴らから、全てを奪い取ってやった」


 チェックメイト。

 完全なる復讐の完遂。

 あの日、雪の崖下で絶望の中で死んでいった「彼」への、これ以上ないほどの弔いだ。

 胸がすくような、圧倒的なカタルシスが訪れるはずだった。


 だが。

 井上の心に広がっていたのは、歓喜でも、達成感でもなかった。


「……なんだ、これは」


 井上は自分の胸を強く掴んだ。

 空っぽだ。

 心の中に、巨大な風穴が空いている。

 憎しみという感情は、井上にとって、この数ヶ月間を生き抜くための強力な「燃料」だった。

 自分の顔を削り、骨を砕き、過去を捨ててまで燃やし続けてきた炎。

 その炎が、標的を焼き尽くし、燃やすものを失った今。

 

 残ったのは、圧倒的な「虚無感」だった。


「俺は……これから、どうすればいい?」


 井上の声が、狭い部屋に空しく響いた。

 灰谷守の無念を晴らすために生み出された「井上健太郎」という怪物。

 その役割が終了したのなら、この怪物は、どこへ向かって生きていけばいいのか。


 復讐を果たした後に待っているのは、ハッピーエンドではない。

 目的を失った亡霊の、終わりのない漂流だ。

 誰もいない廃墟の中で、井上は目を閉じ、深い闇の中に沈んでいく自分を感じていた。

 このまま、この冷たい部屋で、灰谷守の記憶と共に消えてしまえたら、どれほど楽だろうか。


 ブブッ。

 

 その時。

 ジャケットの内ポケットで、スマートフォンが短く震えた。

 静寂を破る、無機質なバイブレーション。


 井上はゆっくりと目を開け、スマホを取り出した。

 画面に表示されていたのは、メッセージアプリの通知だった。

 送信者は、木村心。


『おっさん、ハイとローがまた喧嘩してる! 今度はローが猫じゃらし独占して、ハイがガチ泣きしてるんだけどwww 早く帰ってきて仲裁してよ!』


 メッセージと共に、一枚の写真が添付されていた。

 ローの黒い背中にしがみついて「返せニャ!」と必死に猫キックを繰り出しているハイと、それを無視して羽根を噛みちぎろうとしているローの、ブレブレの写真。


「…………」


 井上は、その写真を見つめた。

 クスリ、と。

 冷え切っていた唇から、自然と笑みがこぼれた。


 次いで、立て続けに通知が鳴る。


『ボス、帰りにシャンパン買ってきて。安物は嫌よ』――舞永。

『井上さん、お肉屋さんで頼んでいたシャトーブリアンが届きました。今夜はステーキにしましょう!』――優香。

『新しい会社の登記簿、完成しました。……一度、印鑑を押しに事務所へいらしてください』――南。


 次々と届く、仲間たちからの他愛のない、あるいは事務的なメッセージ。

 それは、彼らが「井上健太郎」を待っているという、何よりの証拠だった。


 井上は立ち上がった。

 ズボンについたホコリを払い、狭い物置部屋を見渡す。


「……もう、ここには何もないな」


 過去は死んだ。

 復讐の炎は燃え尽き、この屋敷と共に灰になった。

 だが、その灰の中から、新しい絆が、新しい居場所が生まれていたのだ。

 

 俺を待っている者たちがいる。

 俺が守るべき、小さな命がある。


「帰ろう」


 井上はドアを開け、迷うことなく歩き出した。

 廃墟となった屋敷の廊下を抜けるその足取りは、もう重くはなかった。


 外に出ると、秋の涼しい風が、井上の頬を優しく撫でた。

 見上げれば、雲一つない青空が広がっている。

 井上健太郎の、復讐者ではない「ただの男」としての本当の人生が、今、ここから始まろうとしていた。

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