第12話 救世主は銀の車に乗って
9月中旬の東京。
残暑の厳しい日差しが、都心のビル群を焦がすように照りつけている。
アマン東京の広大なコーナースイート。
その一室だけは、外界の熱気とは無縁の、冷徹な静寂と、微かな薬品の匂いに包まれていた。
井上健太郎は、ソファに深く身を沈めていた。
その顔を、白衣を着ていない山崎桃子が覗き込んでいる。
今日の彼女は、ダメージジーンズに黒のキャミソールというラフな出で立ちだ。無造作に束ねたブロンドの髪から、気怠げな色気が漂う。
「……動かないで。針がズレるわよ」
桃子は井上の頬に、極細の注射針を突き立てた。
チクリとした痛みが走るが、井上は眉一つ動かさない。
注入されているのは、表情筋の微細な痙攣を抑え、肌に陶器のような艶を与えるための特殊なカクテルだ。
「これが最後の仕上げよ。……今夜のパーティー、アンタは最高の『作品』として輝かなきゃいけないんだから」
桃子は針を抜き、指先で薬液を馴染ませるように井上の頬を撫でた。
その手つきは、診察というより愛撫に近い。
彼女にとって、井上の整形された顔は最高の芸術品であり、執着の対象なのだ。
「……痛みはないか?」
「完璧よ。腫れも引いてるし、神経の癒着もない。シュタインの爺さんが見たら嫉妬するくらいの定着率だわ」
桃子は満足げに微笑み、サイドテーブルに置かれたシャンパンを一口飲んだ。
真っ昼間からのアルコール。
これが、彼女の言う「デート」の作法らしい。
「ねえ、知ってる? 『ピグマリオン』の話」
桃子はグラスを揺らしながら言った。
「自分の彫った彫像に恋をした彫刻家の話よ。……私、今の気分はそんな感じ。アンタの顔、見てるとゾクゾクするの。壊したくなるくらいにね」
「……縁起でもないことを言うな」
「フフ、冗談よ。……壊れるなら、私の手の中じゃなくて、復讐の果てにボロボロになってほしいわ。その方が美しいもの」
歪んだ愛情表現。
だが、井上にはその狂気が心地よかった。
正気の世界に生きていては、これから行う復讐劇など演じきれない。
桃子のようなイカれた共犯者が側にいることが、逆説的に井上の精神を安定させていた。
「準備はいいわよ、モンスターさん」
桃子は立ち上がり、井上のネクタイを整えた。
ミッドナイトブルーのタキシード。
イタリアの老舗サルトリアで仕立てさせたそれは、井上の鍛え上げられた肉体を優雅に包み込んでいる。
「行ってらっしゃい。……あっちの連中が、アンタの顔を見てどんな顔をするか、楽しみにしてるわ」
「ああ。……最高のショーを見せてやる」
井上は立ち上がり、姿見の前で最終確認をした。
鏡の中にいるのは、どこからどう見ても、生まれながらの富と権力を持つ「選ばれし者」だった。
憂いを帯びた瞳。
冷徹で、知的で、そして危険な香りを放つ美貌。
桃子は「じゃあね」と手を振り、猫のように音もなく部屋を出て行った。
彼女は会場には来ない。
あくまで「裏方」として、影から井上を支えるスタンスだ。
部屋に一人残された井上は、懐から招待状を取り出した。
厚手の紙に金箔で刻まれた『帝都グループ 創立60周年記念 チャリティーガラパーティー』の文字。
それは、地獄への招待状であり、同時に復讐劇の開幕を告げるチケットだった。
「……行くぞ」
井上は短く呟き、部屋を出た。
重厚な扉が閉まる音が、退路を断つ号砲のように響いた。
ホテルのエントランスには、すでに一台の車が待機していた。
特注色の「イリジウム・シルバー」に輝く、マイバッハ S680。
全長5.5メートルを超える威容は、並み居る高級車の中でも別格の存在感を放っている。
運転席のドアが開き、一人の女性が降りてきた。
「やっと来たわね、ボス。……遅刻よ」
森 舞永だ。
今日の彼女は、地下格闘技場でのラフな格好とは打って変わり、背中が大きく開いたブラック・ベルベットのイブニングドレスに身を包んでいた。
ブロンドの髪はエレガントに巻き上げられ、赤いルージュが白い肌に映える。
一見すれば、大女優かスーパーモデルにしか見えない。
だが、そのドレスのスリットからは、鍛え抜かれた脚線美と共に、太ももに装着されたホルスターの革ベルトが微かに見え隠れしていた。
「医者との火遊びが長引いたか?」
「……ただのメンテナンスだ」
井上は後部座席に乗り込んだ。
車内は静寂と、最高級レザーの香りに満ちていた。
舞永が滑らかに車を発進させる。
V12エンジンの鼓動は遠く、まるで魔法の絨毯のように路面を滑っていく。
「で、どうする? 会場に着いたら、まずは正面突破?」
ルームミラー越しに、舞永の楽しげな視線が合う。
「ああ。招待状はあるが、俺たちは招かれざる客だ。……派手にやる」
「了解。なら、少し飛ばすわよ」
舞永がアクセルを踏み込む。
マイバッハは巨体を感じさせない加速で、首都高へと合流した。
流れる景色。
かつて灰谷守として生きていた頃、満員電車に揺られて眺めていた東京の街並みが、今は足元にひれ伏す光の帯となって後方へと飛び去っていく。
会場となる『帝都ホテル』は、皇居の堀端に位置する日本最高峰のラグジュアリーホテルだ。
そのメインエントランス前は、すでに黒塗りのハイヤーとリムジンの列で埋め尽くされていた。
政財界の大物、芸能人、各国の大使。
煌びやかなドレスとタキシードに身を包んだVIPたちが、レッドカーペットの上を歩き、無数のフラッシュを浴びている。
その喧騒の中へ、一台の銀色の車が滑り込んだ。
黒一色の車列の中で、そのシルバー・マイバッハは異様なほど目立っていた。
「……なんだ、あの車は?」
「マイバッハだ。誰が乗っているんだ?」
ざわめきが広がる。
マスコミのカメラマンたちが、一斉にレンズを向けた。
車が停止し、運転席から舞永が降り立つ。
その圧倒的な美貌とスタイルの良さに、カメラマンたちが息を呑む。
「モデルか? いや、見たことないぞ」
舞永は周囲の視線を無視し、恭しく後部座席のドアを開けた。
最初に現れたのは、磨き上げられた黒のオックスフォードシューズ。
続いて、完璧なプロポーションを持つ長身の男が、ゆっくりと降り立った。
その瞬間、会場の空気が止まった。
井上健太郎。
残暑の夜風に髪をなびかせ、彼は無表情に群衆を見渡した。
憂いを帯びた瞳。
冷徹で、知的で、そして危険な香りを放つ美貌。
その立ち姿は、まるで映画のスクリーンから抜け出してきたかのように非現実的で、圧倒的なオーラを纏っていた。
「……誰だ?」
「凄くカッコいい……俳優かしら?」
「いや、見たことがない顔だ」
囁き声が波紋のように広がる。
フラッシュの嵐が巻き起こる。
井上は眩しさに目を細めることもなく、悠然とレッドカーペットを歩き始めた。
その一歩後ろには、舞永が影のように付き従う。
美女と野獣ならぬ、美男と美女のペア。だが、その美女が猛獣使いで、美男の方が魔王であることを見抜ける者は、ここにはいない。
エントランスの巨大な扉の前。
受付のスタッフが、緊張した面持ちで立ちはだかった。
「し、招待状をお願いします」
井上は無言で、懐から招待状を取り出し、指先で挟んで差し出した。
スタッフがそれを受け取り、名前を確認する。
「……『K.I.ホールディングス代表、井上健太郎』様……ですね」
聞いたことのない社名と名前。
だが、招待状は本物だ。
スタッフは恭しく頭を下げ、扉を開けた。
「ようこそお越しくださいました。……どうぞ、中へ」
重厚な両開きの扉が、ゆっくりと開かれていく。
中から漏れ聞こえるオーケストラの生演奏と、グラスが触れ合う音、そしてむせ返るような香水の匂い。
そこは、選ばれた人間だけが入ることを許された、天上人の宴。
かつて、灰谷守が裏口からゴミを運び出すためだけに出入りしていた場所。
井上は一度だけ足を止め、舞永を見た。
舞永は小さくウインクを返した。
『準備万端よ、ボス』という合図だ。
井上は再び前を向き、光の中へと足を踏み入れた。
口元に、冷たく美しい笑みを浮かべて。
「……さあ、パーティーの始まりだ」
会場内は、シャンデリアの輝きで満ちていた。
天井まで届くような巨大な生花、氷の彫刻、そして最高級のキャビアやシャンパンが並ぶビュッフェテーブル。
日本を動かす権力者たちが談笑している。
その中心に、彼らはいた。
帝都グループの女帝、西園寺貴子。
その息子で次期社長の猛。
そして――。
井上の視線が、一点に吸い寄せられた。
シャンパングラスを片手に、取り巻きの男たちに囲まれて艶然と微笑む女。
真紅のドレスを纏った、西園寺麗華。
10年前と変わらない、いや、その傲慢さが洗練され、より毒々しい魅力を放っている。
井上の心臓がドクリと跳ねた。
愛か。憎しみか。
あるいは、その両方が混ざり合った執着か。
顔の筋肉が微かに強張るのを、井上は理性で抑え込んだ。
(見つけたぞ、麗華)
井上はウェイターからグラスを受け取り、ゆっくりと歩き出した。
彼が歩くたびに、モーゼの十戒のように人の波が割れていく。
誰もが彼を見ている。
「あの男は誰だ?」という好奇心と、「目を合わせたら魅入られる」という本能的な畏怖。
麗華もまた、会場のざわめきに気づき、顔を上げた。
そして、井上の姿を捉えた瞬間、彼女の動きが止まった。
グラスを持つ手が微かに震え、その瞳が見開かれる。
井上は立ち止まった。
距離にして10メートル。
視線が絡み合う。
井上はグラスを軽く掲げ、音のない言葉を唇に乗せた。
『はじめまして、愛しい人』
それは、灰谷守が死に、井上健太郎という怪物がこの世に産声を上げた瞬間だった。
救世主の仮面を被った死神が、今、銀の馬車から降り立ち、鎌を振り上げたのだ。




