第13話 運命の再会
帝都ホテルのメインバンケット「孔雀の間」。
天井から吊り下げられた数万個のクリスタルシャンデリアが、欲望と虚栄に満ちた絢爛な会場を冷ややかに照らし出している。
井上が掲げたグラス。
声に出さない、音のない乾杯。
その冷酷なメッセージを正面から受け取った麗華の時間が、一瞬完全に止まったように見えた。
彼女は手に持っていた最高級のシャンパングラスを近くのテーブルに乱雑に置くと、周囲を取り囲んでいた政財界の若手エリートたちを払いのけるようにして、井上の方へと歩き出した。
獲物の方から、罠の真ん中へとかかりに来た。
「……釣れたわね、ボス」
井上の腕に親しげに絡みついていた舞永が、甘い吐息と共に耳元で囁いた。
周囲の目には、美男美女の恋人同士による睦まじい囁き合いにしか見えないだろう。だが、彼女のドレスの下にある筋肉は、いつでも獲物の喉笛を食い破れるよう、しなやかな緊張状態を保っていた。
「あっちから吸い寄せられてくるなんて、よっぽどアンタの顔が効いたのね」
「ここからが本番だ。……油断するなよ」
井上は表情を一切崩さなかった。
水を打ったように静まり返り、左右に割れた人波の中を、真紅のドレスを纏った麗華が、カツ、カツとピンヒールを鳴らして近づいてくる。
その瞳は、井上の姿だけを捉えて離さない。
誰も見たことがない極上の宝石を見つけたカラスのような、強欲で、傲慢で、そして抗いがたい魅了に囚われた光。
距離が縮まる。
5メートル、3メートル、1メートル。
彼女が纏う、強烈で甘美な香水の匂いが漂ってくる。
かつて灰谷守だった頃、吐き気を催すほどの屈辱と共に嗅がされ続けた、あの毒のような匂いだ。
「……お初にお目にかかります」
静寂を破り、先に声をかけてきたのは麗華の方だった。
その声は、猫撫で声のように甘ったるく、しかし決して自分からはへりくだらないという強烈な自意識を感じさせるものだった。
「会場に入られた時から、ずっと目を奪われておりましたの。……まるで映画のスクリーンから抜け出してきたようで。K.I.ホールディングスの、井上様でいらっしゃいますか?」
「ええ。お会いできて光栄です、西園寺様」
井上は静かに、胸の奥底に響くような深いバリトンボイスで答えた。
そして、洗練された滑らかな動作で彼女の右手を取り、その白い手の甲に口づけを落とす寸前の、あと数ミリという距離でピタリと止めた。
直接触れそうで、決して触れない。相手の熱だけを感じさせる、残酷な焦らしのテクニック。
「私の名前をご存知ですの?」
麗華の呼吸が微かに乱れた。
「知らぬ者などいないでしょう。帝都グループを象徴する華、そして……噂に聞く以上の、残酷なほどの美貌の持ち主だ」
井上は顔を上げ、彼女の傲慢な瞳を真っ直ぐに見据えた。
そして、この世で最も美しく、最も冷酷な嘘を吐いた。
「美しい人だ」
その瞬間、麗華の頬が微かに紅潮した。
財閥の令嬢として、今まで何千回と男たちから浴びせられてきたであろう、ありふれた賛辞。だが、井上の底知れぬ声、完璧な造形の貌、そして全てを見透かすような眼差しは、その陳腐な言葉に強烈な「魔法」をかけた。
魂を奪われた絶対者の、切実な告白のように響いたのだ。
「ま、まあ……。お上手ですこと」
「言葉では到底足りないくらいです。……申し遅れました。井上健太郎と申します」
井上は内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚のカードを差し出した。
黒地に金の箔押し文字。
『K.I.ホールディングス 代表取締役 井上健太郎』
「イノウエ……? 恥ずかしながら、存じ上げないお名前ね」
「海外のファンドで長年活動していたもので。最近、日本に戻ったばかりなのです」
「まあ、そうでしたの。だからそのように洗練されて……」
麗華は名刺を宝物のように受け取り、熱っぽい視線を井上に絡みつかせた。
完全に落ちている。
かつて、無力な灰谷守という存在を塵芥のように見下し、一瞥すらくれなかった傲慢な口が、今は目の前の井上に対して「知りたい」「欲しい」と熱を帯びて囁いている。
(滑稽だな)
井上の絶対零度の理性の中で、冷たい嘲笑が響いた。
中身は同じ男だぞ?
1周目の人生で、お前が「汚れた雑巾」と罵り、顔に唾を吐きかけて殺した男の怨念が、この完璧な皮一枚の下に詰まっているんだ。それに気づきもしないで、よくもまあ、そんな発情した雌犬のような顔ができるものだ。
「実は、貴女にお近づきになりたくて、些か強引な手を使ってこのパーティーに潜り込んだのです」
「……私のために?」
「ええ。帝都グループとのビジネスの話も少しありますが、そんなものはただの口実です。本当は、ただ貴女の傍に行きたかった」
ストレートなアプローチ。
彼女の肥大した自尊心を、これ以上ないほど極限までくすぐり上げる。
「うふふ、悪い方。……でも、嫌いじゃないわ」
麗華は一歩、距離を詰めてきた。
その手が、井上の腕に触れようと伸びる。
「残念ながら、彼には少し困った性癖がありましてね」
麗華の手が触れる直前、舞永が滑り込むように井上の腕を強く抱きしめ、麗華に向かって蠱惑的に微笑んだ。
それは、「私の所有物に手を出さないで」という、女同士のわかりやすい牽制の笑みだ。
「あら……美しい方ね。モデルさんかしら? でも、少し血の気が多いというか、品がないような……」
麗華の目がスッと冷たく据わった。瞬時に激しい敵対心が火花を散らす。
「私のビジネスパートナーです。少々、独占欲が強すぎるもので」
井上は困ったように肩をすくめた。
「美しい女を侍らせている男」という強力な付加価値。
そして「手の届きそうで届かない距離感」。
これが、麗華のような何でも手に入ると思い込んでいるプライドの高い女を、一番狂わせる燃料だ。
「……そう。パートナー、ね」
麗華は手にした扇子を強く握りしめた。
他人の獲物を横取りしてでも自分のものにしようとする、強欲な捕食者の目だ。
「でも、日本のビジネスのお話なら、私とした方が有益だと思いますわよ? なんて言ったって、ここは私の庭なのですから」
「光栄です。……では、名刺の裏にある直通の番号に、いつでもご連絡ください。貴女からの電話なら、たとえ世界が滅びる前夜でも必ず取ります」
「約束よ? ……健太郎さん」
下の名前で呼ばれた。
第一段階の罠は、完璧に作動した。
その時、会場の正面ステージがざわめき立った。
ピンスポットライトが当たり、車椅子に乗った白髪の老婆――帝都グループ会長の貴子が現れたのだ。
「あら、お母様のご挨拶が始まるわ。親族として傍に行かなくちゃ」
麗華は名残惜しそうに井上から一歩引いた。
舞永を冷たく一瞥し、勝ち誇ったように鼻で笑うと、井上に向かって艶然とウインクを投げた。
「後で、必ず連絡するわ。……待っていてね」
麗華は真紅のドレスの裾を翻し、ステージの方へと優雅に向かっていった。
その後ろ姿が見えなくなった瞬間、井上と舞永が纏っていた「甘い恋人同士」の空気が、氷が張るように一瞬で消え去った。
「……お熱いこと」
舞永が、井上の腕からスッと離れた。
「見てたわよ、ボス。『世界が滅びる前夜でも』なんて、よくあんな歯の浮くような台詞がスラスラ言えるわね。私なら反吐が出てるわ」
「……俺もだ」
井上は近くのウェイターから新しいシャンパンを受け取り、一気に喉の奥へ流し込んだ。
強い炭酸とアルコールで、口の中に残る猛毒のような甘い言葉の残滓を物理的に洗い流す。
「今すぐ胃の中身をぶちまけたい気分だ」
「ふーん。でも、あっちは完全にメロメロだったじゃない。……アンタ、恐ろしい詐欺師の才能があるわよ。で? 表の挨拶はこれで終わり? 次はどうするの」
舞永の瞳が、獲物を探す肉食獣のそれに変わった。
「ああ。これ以上、あの女の近くにいると理性の糸が切れて、その場で首をへし折ってしまいそうだ」
井上は空になったグラスを静かに置いた。
そして、冷徹な視線を会場の片隅――華やかなステージから遠く離れた、薄暗いVIP専用の喫煙ラウンジへと向けた。
「次は裏の仕事だ。……見ろ」
井上の視線の先。
そこには、仕立ての良いスーツを着崩した猛が、数名の柄の悪い男たちと何やら密談をしている姿があった。
九条の情報にあった、猛が個人的に雇い入れた裏社会の「掃除屋」たちだ。
「あれが、猛の飼っている狂犬どもか。随分と安っぽい顔つきね」
「このパーティーの裏で、また邪魔者の『処理』でも企んでいるのだろう。……あれを放置しておけば、いずれ俺たちの背中を刺しに来る」
井上は冷たい目で猛たちを見据えたまま、隣の舞永に低く命じた。
「舞永。仕事の時間だ」
その言葉を聞いた瞬間、舞永の赤い唇が獰猛な三日月の形に吊り上がった。
「了解、ボス。……ちょっと、ドレスの裾を血で汚してくるわ」
表の華やかな誘惑の裏で、いよいよ暴力と血に塗れた破壊工作が幕を開ける。
井上は微動だにせず、死地に赴く美しい狂犬の後ろ姿を、絶対零度の瞳で見送った。




