後編
「ほ、本当にそんなのでいいの?遠慮しなくていいんだよ、誕生日なんだし」
「うん。さっきの虫さんがね、そうするといいよって教えてくれたから」
何・・・!?
「虫さん・・・って言うのは、あのゴキブリのことよね?」
「そうだよー」
私の混乱は一気に最高潮へと達した。
曰く。あのゴキブリが頭に乗っていた時、囁き声が聞こえてきたという。その声が言うことには、明日の夜九時から始まる金曜ロー○ショーを家族全員で観るべきだというのだ。
なるほどなるほど。状況は分かった。
私の怒りのボルテージが高まる。害虫風情が我が愛娘をたぶらかすとは。どうやら自分らの身の程を知らないようである。
だがその一方で、声がしたというのはいささか不気味でもあった。しかもその内容がまあ意味不明なのである。 もしかしたら虫の知らせというやつかもしれない。そう思った私は、プレゼントは他に買うことにしつつ、娘と共に金曜○ードショーを観ることにしたのだった。
※
ちなみにどういう映画だったかというと、某国の独立記念日に宇宙人が攻めてくるという設定のSFモノだった。皆さんも一度は観たことがあるのではないだろうか。登場する大統領はまさしく空の男である。
それは丁度、画面の中にて大統領の演説がクライマックスを迎えていた時だった。
ゴゴゴゴゴ・・・と、地の底から這い上がるような地響き。すわ何事かと娘を抱きしめた直後、私たち親子を揺れが襲った。
地震が起きたのである。
※
揺れは十秒もしない内に収まったが、私には何十分にも感じられた。家全体が巨人の手で揺さぶられているかのような感覚。戸棚の食器がことごとく雪崩れ落ちて、割れた破片がそこら中に散らばっていた。それなりに強い揺れだったのだ。
ガスの元栓などがちゃんと閉まっていることを確認してから、私は家の中を調べ始めた。幸いなことに、どこも物が倒れている以上のことは無かった。
だがなによりも。最も幸いだったのは、娘が寝ていなかったことである。
娘の寝室では本を満載にした本棚が倒れていて、娘のベッドにのしかかっていたのだから。
もし一緒にテレビを見ていなかったらと思うと、私は血の気が引いた。そして同時に、娘に話しかけたというゴキブリのことを思い出した。
あれは虫の知らせだったのかもしれない。
※
・・・と。ここで終わっていれば結構いい話で終わるのだろうが、生憎これには後日談がある。
地震から数日後。その日私は、少しばかり浮かれ気分であった。
御贔屓にしている近所のパン屋。そこが今日、新商品を発売したのである。
“ムシパン”というそれは、ふっくらとした柔らかい質感がまことに美味しそうで。ほのかに漂ってくる甘い香りが、さらなる食欲をそそる。もちろん買った。一目見て購入即決であった。
それを買った私は、家に帰って早速食べようとした。喜色満面としてその透明な袋を開け。手を差し入れた直後に、紅茶を淹れることを思い立つ。
袋の口は開けたまま。今思うとそれは今世紀最大の愚行であったと思う。
油断していたのか、あるいは浮かれていたからなのか。とにもかくにも、私の気持ちの緩みが悲劇を、tragedyを生むこととなった。
カサカサカサ・・・と。
嫌な気配を感じて見てみれば案の定。光沢きらめく茶色の悪魔、ゴキブリが、我が物顔で愛しのムシパンを貪り食っていたのである。よく見ればそいつは、娘に話しかけたのと同じヤツのようだ。
私に気づいたそいつは、袋から出ると一目散に逃げ出した。戦術的撤退というやつか。しかし私も同じ過ちは犯さない。スリッパを素早く手に取ると、容赦なく叩きつける。
だがカが弱かったのだろうか。スリッパを持ち上げるとまだ生きていたので、私は再度スリッパを振り上げた。
その時、奇妙なことが起きた。
あろうことかそのゴキブリは、私の方へ向き直ると、触覚を這わせ、前足をこすり始めたのである。それはまるで、命乞いをするかのようであった。
虫も同情をするのだろうか。
酔狂なその姿に免じて、逃してやろうかという思いも一瞬芽生えた。“も”と言ったのは、直後にその思いは消えていったからである。
私のムシパンを食べられたことに対してどうにも腹の虫がおさまらず、そしてまた虫の居所も悪かったのだ。命乞い?はん、虫酸が走るわ。
というわけで、許せゴキブリよ。
私はスリッパを振り下ろす。アーメン。
『ギャッ!』
小さな悲鳴を聞いたような気がしたが、ムシすることにした。