01.コップの水
落ちこぼれの私――リタ・ブロックスには、姉がいる。
アリアナ・ブロックス。長く艶やかな黒髪と、深い森を思わせる緑の瞳を持つ、誰もが振り返るほどの美しい人だ。
朝食の席。向かいに座るアリアナがフォークとナイフを優雅に動かすたびに、私の目はその指先を追いかけていた。
節の目立たない、白くて長い指。爪はどれもピカピカに磨かれていて、まるで芸術品のようである。ガサガサに乾いた私の手とは、まるで違う。
「アリアナ、リタ」
見惚れていた私の横手から、声がかかった。カルロス・ブロックス伯爵――私とアリアナの父だ。
テーブルに広げた書類から顔を上げぬまま、彼は事務的な声で尋ねる。
「学校はどうだ」
「とても有意義な時間を過ごせていますわ、お父様」
弾んだ声で答えるアリアナに、父はやはり顔を上げぬまま「そうか」とだけ返す。そして私の答えを待つこともなく、席を立った。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
アリアナが、にこやかにその背中を見送る。
このやり取りは、昨日も見た。一昨日も、その前も、ずっと前から変わらない。
私の記憶の中にある父はいつも多忙で、その目に映るのは常に仕事の書類ばかり。例えアリアナが「学校なんてつまらない」と言ったところで、返ってくる言葉はきっと「そうか」なのだろう――コップの水を飲みながら、私はぼんやりとそんなことを思う。
いつもと違ったのは、部屋を出る間際に父が振り返ったことだった。そして面倒臭そうに私を見た。
「お前のその髪はなんだ。みっともない」
吐き捨てるように言うと、今度こそ父は出て行った。
私は襟足が見える短い金髪を、そっと片手で撫でる。
確かに、貴族の令嬢が殿方のように短い髪をしているのは、珍しいかもしれない。少なくとも私は、自分以外に見たことがなかった。
それにしても、この髪型になってもう一ヶ月は経つというのに、父は今頃気づいたのだろうか。
「アリアナ。そろそろ学校に行く支度をなさい」
「はぁい」
父の言葉など気にも留めない様子で、母親に促されてアリアナも席を立つ。
私もコップの水を飲み干して立ち上がった。ふと、アリアナのお皿に食べかけのパンが残されているのが目に入り、思わず手が伸びる。けれど指先が触れるより早く、侍女がお皿を下げてしまった。
あぁ……残念……
情けない音を立てるお腹に、仕方なくコップに水を注いで流し込む。
「アリアナ様が馬車でお待ちです。お急ぎください」
私の手からコップをひったくるように奪って、侍女が急かした。
「あっ、ごめんなさい! すぐに行きます!」
床に置いた鞄を引っ掴み、玄関へ急いだ。
アリアナは既に馬車の中で、私が飛び乗るとほとんど同時に馬が動き出す。よろけて転びそうになったけれど、寸前で踏み止まった。
「今日はいいお天気だねぇ。昨日の雨が嘘みたい」
窓から見上げた空は、雲ひとつない晴天だった。陽射しも暖かい。
けれど私の声に、アリアナは応えない。ただじっと、自分の髪の毛先を見つめている。
「アリアナの髪は綺麗だから、枝毛なんかないよ?」
「……ちっ。話しかけないでよ、汚らわしい」
大きな舌打ちと、蔑むような一瞥。私は口を手で覆い、息を潜めた。
どうやら今日は『話しかけてはいけない日』らしい。ちなみに昨日は、黙っていたら『陰気臭い』と怒られた。アリアナのご機嫌を伺うのは、なかなか難しい。
息が詰まるような沈黙の馬車に揺られること数十分。馬は貴族学校の白い校舎の前で止まった。
ブロックス伯爵領内に建てられたこの学校には、ここペルテリア王国南部に住む貴族の令息、令嬢が通う。生徒のほとんどは学生寮暮らしだが、私とアリアナは毎日、屋敷から馬車で通っていた。
先に馬車を降り、アリアナをエスコートするように手を差し出す。彼女はその手を汚物を見るような目で見たけれど、すぐに愛らしい微笑みへとすり替えた。
「ありがとう、リタ」
その綺麗な手を、私の手に触れるか触れないかのギリギリの位置に添えて、アリアナはゆっくりと馬車を降りてくる。
「ごきげんよう、アリアナ様」
「アリアナ様、今日もお美しいですわ」
「ふふっ。皆様、ごきげんよう」
天使のような笑みを浮かべたまま、アリアナが教室に向かって歩き出す。私はその三歩後ろに付いた。
「……見てよ、アレ。今日もリタはアリアナ様にベッタリくっついているわ」
「リタはアリアナ様がいないと、何もできない愚図だからな」
生徒たちの冷ややかな視線も言葉も、もう慣れたもの。特に何の感想もない。
アリアナと同じ高等部二年の教室に入り、隣の席に腰を下ろす。
この学校のクラスは、年齢で分けられている。つまり私と姉のアリアナは、同い年だった。




