第3夜
「本当に面白い……。これは……感心しました」
そう言ってくれたよねのドローンはグルグルと手水舎の周りを回って古びたそれを観察していた。
ひとしきり感心した素振りを見せると、ドローンは満足したようにぼくの方に目を向けた。
「ただ……」
彼女の視線はぼくを見ているようで見ている感じがしない。
ドローンの向こう、台湾にいる彼女はどのように首を傾げているのだろうか。
「金之助さんが漱石の号を最初に使ったのは明治22年……西暦で言えば1889年に、のぼさんの文集に掲載された批評のときですので、この円覚寺を訪れる前になります」
彼女の口から出た「のぼさん」という人には心当たりがあった。『日露戦争物語』という漫画の中で出てきた俳人正岡子規のあだ名ではないか。その漫画の主人公の親友だったので印象に残っている名前だ。
その正岡子規と夏目漱石は友人関係で、「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の有名な俳句は、「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という夏目漱石の俳句への返句だという話も読んだことがある。
「もちろん、処女作の『吾輩は猫である』を執筆した際、最終的にペンネームを漱石とした決定打として影響を与えたというのであればそうかもしれませんね」
やんわりとぼくの考え違いを指摘しつつ、フォローしてくれるところが、よねが人に配慮するタイプの優しい女性であることを物語っていた。
「さすがは夏目漱石フリークですね。そこまでご存知だとは」
そう答えるぼくの顔は傍から見ると真っ赤になっていただろう。
ぼくはこういう失敗をたまに良くする悪い癖があるのだ、こどものころから浅い調べで思い込んでいることがあるのは大人になっても治っていない。
恥ずかしったらありゃしない。
もっとも、このとき、ぼくは逆に彼女の言葉尻にちょっとした引っ掛かり感も覚えていた。
夏目漱石のことを金之助さんという表現を普通はするだろうか?
それは翻訳アプリのアヤなのだろうか、と考える。
「お医者様にそう行っていただけるのは光栄です」
続けてよねがそう言うが、ぼく個人としては医師にそこまで崇高な幻想は抱いていなかったから恐縮するばかりである。
「華南共和国のお医者様も、みんながろばさんみたいに話しやすい方でしたら良かったのに」
OECDでも人口当たりの医師数が少なく医師不足が叫ばれる日本であったが、少し前に見たデータで、人口10万人あたり260人の日本に比べ、華南共和国の前身である中国はさらに少なく190人だったと記憶している。
「そう言っていただけるのは嬉しいですね。よねさんも相談や希望があったら、気にせずどんどん言ってください」
ぼくがそう言うと、よねのドローンがちょっと止まった。
考え事をしているようにも見える。こういう時、表情が見えないというのも困るものだな、と感じた。
「後で……相談に乗っていただきたいことはあります。この旅の目的ではないので、帰る時でいいですか?」
相談事についてそれ以上は話すつもりがないようで、彼女は視線を曇天に、そして仏殿から駐車場の方へと向けた。駐車場の向こうは国宝洪鐘や帰源院がある方だ。
「それでは仏殿を拝観しましょうか」
ぼくが次の建物である仏殿に彼女を案内しようとすると、ドローンの頭部が首を振った。
「いえ、仏殿は後日のために取って置かせてください」
「え? 円覚寺のご本尊や天井の白龍図は見なくて良いのです?」
仏殿は、円覚寺のご本尊が祀られている建物で、天井に描かれている白龍図は誰もが見る円覚寺の顔なのだが。
「私のためにお父様が作ったこのドローンは、初号機よりも軽量に作られた新型ですが、それでも古い日本の木造家屋の板張りの床では踏み抜いてしまう可能性のある重量があります」
実際、中は石タイル張りで、階段を上がれるのであれば、中は問題ないだろう。
ただ、そう言いかけて、はた、と気がついた。
この仏殿は大正12年の関東大震災で倒壊し、昭和39年に再建されたものだ。
天井の白龍図にしても、有名な画家の平山郁夫画伯の師匠である前田青邨画伯が監修して、守屋多々志画伯が描いたものだという。
つまり、夏目漱石が止宿した時には白龍図はなかった。
だから、興味がないのだろうか?
そう考えて言い淀んだのを察知して、よねが言葉を継いだ。
「それに…」
女の子らしく両手を合わせてモジモジしていた。
「土足ですし」
それを聞いて、ぼくは思わず笑いを吹き出してしまった。
ボーカロイドのような翻訳アプリ越しでは、意図しての発言かどうかニュアンスはわからなかったが、考えてもいなかった言い訳が出てきたからだ。
「すみません。ドローンがボーカロイドの声で女の子らしいことを言うのが可笑しなツボにハマってしまった」
すぐに笑いを止めて頭を下げた。それでも簡単には収まらないようで、口角が上がりかけてしまう。
「そう言えば、漱石が止宿した帰源院が見たいと会ったばかりの時に言っていましたよね」
「ええ、それに実はドローンの稼働時間にも不安があるのです。特に坂や階段が多いと電池切れが早まります」
よねの言葉を聞いて、彼女を国宝の洪鐘の方へと導いて歩き始めた。帰源院は洪鐘より線路側、つまり入り口側の山の斜面にあるからだ。
参道側とは違って、洪鐘の袂から帰源院の入り口に向かう裏道のような細めの道は両側に緑が深く、木々も高く、鬱蒼とした雰囲気がある。
ちょっと降りると、コンクリで舗装された登り坂に入る、急坂なので、コンクリの表面に等間隔に丸い溝がもようにように掘られた道だ。左側には往年の険しい道の名残であろう鎌倉石の階段のような石が苔むしている。頭上には高く伸びた木が枝と葉を伸ばして覆い被さるように道を形成していた。
参道とは違って緑が多く、帰源院の敷地内や途中の脇には檀家の方々のお墓もある。これより墓地「漫歩」お断りと書かれた看板が立っていた。
そのためか、登り坂にも野草の花や植えられた花が見てとれた。台風にも負けず、紫色の桔梗がひっそりと咲いているのも見てとれる。誰かが植えたのだろうか。
コンクリの坂を登り終わったところで道はまだ続いているが、向かって左に上へと伸びる階段が続いている。20段以上はあるのではないだろうか。
「この上にあるのが帰源院ですが、入り口は閉ざされていて、門のところまでしか行けません。それでもいいですか?」
「はい。私に取ってはここに来ることがメインイベントですから」
帰源院は一般公開されていない。
下からだと茅葺の門が見える。
階段を上がって入り口に行き、門の左側に掲げられている「鎌倉漱石の會」と描かれた木の看板にガラスケースに収められた昭和40年発行の冊子を見せると良いだろう。
門からだと中の建物は見えないが、庭の花くらいは見えるだろうし、などと考えた。
クロウラー構造を起動させ、帰源院の門を目指し、よねのドローンが長い階段を上がり始める。
ずり落ちないように心配りながらぼくはよねの傍ら少し後ろに位置どり、一緒にゆっくりと登り始めた。
そんな時だ。
「突然ですが、ろばさんは輪廻転生を信じますか?」
よねがそんなことを言い始めた。
「あるといいなとは思います」
「信じてない口ぶりですね」
「ははは。魂の存在自体を疑っていますからね、科学者的立場からは」
「普通はそうですよね」
よねの口調が変わった気がする。
コードレスイヤホンから聞こえるよねの声はこんなに流暢だったか?
「そこで敢えて、私に前世の記憶があると言ったら、おかしな女だと思われます?」
まるで日本人の女性のような話ぶり。明らかに翻訳アプリ越しではない。
ぼくは急に寒気を覚えた。




