其の五
朝のホームルームで担任の表情を見た瞬間、あたしは心の中でガッツポーズをきめた。
重苦しい声の話を聞くまでもなかった。あいつ、一晩経ってもまだ意識不明のままで、かなり危険な状態らしい。
「何があったのか、まだはっきりしたことは分かっていません。みんなにできるのは相模さんの回復を祈ることだけです。憶測で物を言ったり噂を流したりするのは止めましょう。今は期末テストに向けて……」
陳腐な説教なんてもう耳に入って来なかった。
ホームルームが終わるとすぐに、あたしは友達と連れ立って学校を抜け出した。みんなホッとした表情で、緊張の反動なのかやけにテンションが高かった。
「たぶんあいつもう終わったよね」
「猛暑日でよかったー!」
あたしたちはゲラゲラ笑った。
アンケートが行われるかもしれないし、もしかしたら個別に事情を聞かれるかもしれないが、しらばっくれるつもりだった。疑われたって、あいつが死んでしまえば何の証拠もないのだ。
何と言っても、あたしたち未成年だもん。罪にはならないでしょ?
「涼しい所に行こうよ! 久々にカラオケとか」
あたしが提案すると、みんな賛成した。
それから。
熱い泥のような空気が全身に纏わりついていた。
あたしはなぜ自分がここにいるのか分からない。狭い、丸い箱のようなものの中に、私は座っている。上半分ほどがガラス張りになった箱だ。
観覧車のゴンドラだとすぐに気づいたけれど、訳が分からなかった。確かあたし、学校をサボってカラオケボックスに行って……一曲目を入力したところだったはずなのに。
「会えて嬉しいよ」
正面のシートには知らない男が座っている。二十代半ばくらいの若い男だ。貼りつけたような無表情が不気味だった。
「何これ……ちょっと……降ろしてよ!」
「それはできない、呼び出してしまったからね、君と、君のお友達を。それにこの観覧車は逆回転だ」
男は顎をしゃくった。
窓から見えるひとつ下のゴンドラには、一緒に遊んでいたはずの友達が見えた。その下のゴンドラにも、その下にも……学校を抜け出した仲間がみんな乗せられていて、焦った様子でキョロキョロしていた。
「君はご両親に理解してほしかっただけなんだね。寂しさが暴力に変わったんだ。君は邪悪じゃない、愚かだっただけ」
「は? 意味分かんない。あんた何なの?」
落ち着いた男の口調が、あたしの神経をひどく逆撫でした。不安と異様な暑さで汗が噴き出す。
誘拐なのか? いつの間に? あたし何か変なものを飲まされた?
「でも、愚かさは免罪符にはならないよ」
男の目つきが、ふっと険しくなった。密閉された空気の温度が上がる。もう息苦しいくらいだった。
「愚かだから未熟だから、君はまた楽しんであの子を傷つけるだろう。君が自分のやったことを理解できるようになるまで、まだだいぶ時間がかりそうだ。それは、待てない」
何これ、熱い……熱い!
あたしは足元を見た。金属製の床からは白い煙が上がり、プラスチックのシートは熱で歪み始めていた。反射的に立ち上がると、ゴンドラが大きく揺れた。
窓から見える風景に、あたしは悲鳴を上げる。
外界は煮え滾っていた。地面は真っ赤に溶け、その中に奇妙な形をした建造物が突き刺さっているのだった。メリーゴーランドやらジェットコースターやらゴーカートやら――ごく平凡な遊具が、マグマに落ちた枯れ木みたいに燃え上がっている。
そのドロドロの真ん中で、ピンク色のウサギの着ぐるみが飛び跳ねている。黄色い蝶タイを着けて縞のズボンを穿いて、下手糞なタップを踏んでいる。
――ヨウコソ、ようこそ、お客さん。久し振りノ団体サンだ。心を籠めておモテなシしなくっちゃ!
地獄のような眺めだった。
「地獄だよ。逆回転の観覧車は地獄行きなんだ」
観覧車も熱に炙られていた。下の方のゴンドラが燃え上がり、中に乗った友達が炎に包まれるのが見える。髪と服が発火して、恐怖に泣き叫ぶ顔が窓に張りついたまま焼かれていく。
「やだあっ……助けて! 下ろして! 出して……ここから出してえ!」
「雪乃もそう言ったよ」
パニックを起こして窓を叩くあたしの前で、男は薄く笑った。すでにズボンの裾には火がついている。オレンジ色の炎は衣服を舐め上げ、容赦なく皮膚を炙る。脂の焼ける臭いの中で、男は笑みを崩さなかった。
――いいぞ、焼けてきた焼けテきた。でももっとサービスするヨ。じっくり中マデ火を通さないとね!
何だよ、何であたしがこんな目に!? そこまで酷いこと、あたしやった? ムカつく奴をちょっとイジっただけじゃん。ただの遊びじゃん。みんなやってるよ!
あたしが悪いんじゃない、親が悪いんだ! くっそつまんねー学校が悪いんだ! そうだよ、ストレス? ストレスが溜まってたからこうなっちゃったんだ!
あたしは思いつく限りの言い訳を喚き散らしたが、男は何も聞いていないようだった。あたしの側の事情や理由になんて、一ミリも興味がないみたいだった。
「さよなら、雪乃。お父さんと同じ所へなんか来るんじゃないぞ」
焼け爛れた顔で満足そうに目を閉じる。
あたしの服も燃え始めた。スカートも、ブラウスも、きれいに巻いた髪の毛も。
「痛いよう! パパ! ママ! 助けて! 熱い熱い熱いいい!」
狭いゴンドラの中に、あたしの体が焼ける煙と臭いが充満する。
「出して! 出してえぇぇ!」
絶叫した喉も、高温の空気で焼け焦げた。
二学期の教室には、沈んだ空気が漂っていた。
入院したまま夏休みに突入し、始業式の日に久し振りに登校したあたしの周囲には、心配するクラスメイトたちが集まって来た。以前から仲の良かった友達もいるが、あまり親しくなかった子も同じように気を遣ってくれる。みんな自分たちの行為に――見て見ぬふりをしていたことに罪悪感を覚えてるんだ。
あいつらがあんなことになったから。
教室には空席が五つもできていた。そこに座っていた子たちは、学校を抜け出して遊んでいたカラオケ店で火事に巻き込まれ、命を落としたのだった。あたしが重い熱中症で病院に運ばれた翌日の出来事である。
配管の劣化によるガス漏れ事故らしいが、詳しい原因は未だ不明だ。熱で変形したドアが開かなくなり、彼女らは狭い個室に閉じ込められたまま焼け死んだ。
熱い、助けて、出して――そう泣き叫ぶ声を聞いた店員も、近づくことができなかったという。結局店舗が全焼するほどの火災だったのだが、他に客がおらず、犠牲者は彼女ら五人だけだった。
もしあたしがあのまま死んでいたら、あたしの呪いってことになったんだろうな――あたしは複雑な気持ちになる。
事故死したのは、あたしを苛めていた女子グループだった。その事実をクラスメイトの大半が知っていて、だからあたしに向けられる視線も複雑である。正直あまりいい気持ちはしなかったが、あいつらがまだ教室にいたら登校できなかったかもしれない。
あたしには分かっていた。あの人がやってくれたんだ。生死の境を彷徨っていた夜、夢の中で出会ったあの人が。
優しく愛おしげな眼差しであたしを見る人だった。初めて会うのになぜか懐かしく、その顔は確かに見覚えがあった。
既視感の正体に気づいたのは目を覚ましてから何日も経ってからだ。彼によく似た顔を、あたしは毎日鏡の中で見ていた。
あたしの快復を泣いて喜び、あたしに起きたことを真剣に受け止めてくれた両親に、あの人の話はできなかった。特に父はあたしが見たこともないくらいに怒って、母が止めなければあいつらの家に殴り込みそうな勢いだった。土下座して謝らせなければ気が済まないと。
あたしは幸せな娘だ。父と母があたしに黙っていることがあるのなら、それにはちゃんとした理由があるのだろう。
そしてあの人も――あたしが作り出した幻とは思えないあの人も、自分が誰だか教えてくれなかった。
担任の先生が教室に入って来て、朝のホームルームが始まる。一学期は悲しい出来事がありましたが、動揺せずに受験に向けて……そんな話を聞き流しながら、あたしは窓の外へ目を向ける。
加害者がみんないなくなったことで、あたしの事件はうやむやになってしまった。むしろあたしにとっては理想的な決着だった。
望んでいたのは謝罪ではなく処罰でもなく、ただあいつらが目の前から消えてくれることだったから。あの人はそれを叶えてくれた。君の苦しみはすぐに消えると言ったのは、そういう意味だったんだ。
あいつらにも両親がいて家族がいて、きっとたくさんの人が悲しんだと思う。そんな第三者の悲しみも憤りも、あの人は承知した上でやってくれたのかもしれない。あたしのために、その何倍も何十倍もの数の人間に地獄の苦しみを与えてくれたのかもしれない。
もちろん、全部あたしの想像だ。あたしは夢を見ただけ。だから。罪悪感を抱く道理はない。
いい気味だ、ざまあ見ろ、清々した――しかしあたしは、黒い本音を窓から見える空に逃がした。そんなことを思っていては、あの人が悲しむ気がした。
大切にされたあたしだから、あたし自身も自分を大切にしなくちゃいけない。
そうしたら、いつかまたあの人に会えるだろうか。死人だらけの夜の遊園地で。
――待っテるよ……。
古惚けた黄色いゴンドラの窓から、ピンク色のウサギが手を振っていた。
―了―