ep.1 死んだはずの男
「――走れ!」
誰かの叫び声が、薄暗いダンジョンの通路に響いた。
俺は振り返ることもせず、ただ必死に足を動かしていた。
背後から聞こえてくる足音が、少しずつ近づいている。
重い。
一歩踏み出すたびに地面が揺れるような音がして、そのたびに身体の奥まで恐怖が響いてくる。
「なんで……なんでこんなのが浅層にいるんだよ!」
前を走っていた男が叫ぶ。
誰も答えない。
答えられる余裕なんてなかった。
俺たちが相手にしているのは、本来ならこの階層に存在するはずのないモンスターだった。
巨大な身体。異常に発達した腕。
黒ずんだ皮膚の隙間から覗く赤い眼。
その姿を見るだけで、本能が理解してしまう。
勝てない。
逃げなければ死ぬ。
「右だ! 分岐を右!」
俺は叫びながら角を曲がった。
足音が後ろから追ってくる。
一人。
二人。
三人。
……違う。
後ろから聞こえる足音は、もう俺たちのものだけではなかった。
ドンッ!
壁が破壊された。
「――ッ!」
瓦礫が飛び散る。
俺は咄嗟に腕で顔を庇った。
次の瞬間、背後から巨大な影が飛び出してくる。
「来たぞ!」
誰かが叫ぶ。
俺たちはさらに走った。
出口はまだ先だった。
ダンジョンの浅い階層。
本来なら、初心者でも慎重に進めば生きて帰れる場所。
だからこそ、俺たちは油断していた。
異常個体が出るなんて、誰も予想していなかった。
「もう少しだ!」
前方に光が見える。
出口だ。
あと少し。
あと少しで――。
「――え?」
突然、前を走っていた男の身体が吹き飛んだ。
何が起きたのか分からなかった。
ただ、一瞬で一人が消えた。
「……嘘だろ」
足が止まりかける。
振り返る。
そこに、あのモンスターがいた。
さっきまでかなり離れていたはずなのに、もう目の前にいる。
巨大な腕が振り上げられた。
「逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
俺も走ろうとした。
けれど、遅かった。
ドンッ!
身体に強烈な衝撃が走った。
視界が回り地面が近づいてくる。
俺は何度も転がり、壁に身体を叩きつけられた。
「……っ、ぐ……」
息ができない。
身体に力が入らない。
立ち上がろうとしても、腕が震えるだけだった。
視界の端に、仲間たちの姿が映る。
「レン!」
誰かが俺の名前を呼んだ。
けれど、誰も戻ってこなかった。
モンスターがこちらへ歩いてくる。
俺は必死に身体を動かそうとする。
逃げなければ…まだ死ぬわけにはいかない。
「……待て……」
声が出ない。
モンスターが目の前に立つ。
そして、その腕が振り下ろされた。
そこで、俺の意識は途切れた。
「……」
何もない。
音もない。
光もない。
身体の感覚すらない。
俺はどこにいるのか分からなかった。
死んだ。
その言葉だけが、妙に自然に浮かんだ。
「ああ……俺、死んだのか」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
当然だ。
俺は死んだのだから。
そのまま意識が消えていく。
眠るように。
何も考えなくなっていく。
――そのはずだった。
【個体情報を確認】
突然、頭の中に声が響いた。
【生命活動停止を確認】
【肉体:死亡】
【魂の離脱を確認】
「……何だ?」
【死者処理を開始します】
意味が分からない。
何の声なのかも分からない。
ただ、身体のないはずの自分の意識だけが、その言葉を聞いている。
【魂の消去を開始――】
そこで、何かが引っかかった。
【エラー】
【魂の消去に失敗しました】
【個体情報の削除に失敗】
【再処理を実行します】
「……は?」
次の瞬間、何もなかったはずの場所に強烈な感覚が戻ってきた。
冷たい。硬い。重い。
そして――。
「……っ!」
俺は目を開けた。
最初に感じたのは、胃の痛みだった。
胃が痛い。
喉が渇いている。
水が欲しい。
食べ物が欲しい。
何でもいい。何かを食べなければ。
「……ここは……」
声が掠れている。
俺はゆっくりと身体を起こした。
暗い。
周囲には何も見えない。
壁に手をつく。
冷たい岩の感触が伝わってくる。
俺はしばらく、その場で動けなかった。
死んだ。
確かに死んだ。
あのモンスターに殺された。
それなのに、今こうして身体が動いている。
「……どういうことだよ」
胸に手を当てる。
鼓動がない。
呼吸はしている。
身体も動く。
なのに、何かがおかしい。
自分の身体なのに、自分のものではないような感覚がある。
俺は立ち上がり、周囲を見回した。
暗闇の向こうから、腐ったような臭いが漂ってくる。
「……ここ、ダンジョンなのか?」
その瞬間だった。
ズル……。
暗闇の奥から何かを引きずる音が聞こえた。
俺は息を止めた。
ズル……ズル……。
音が近づいてくる。
「……またかよ」
俺は周囲を探した。
武器はないが何か使えるものはないか。
手探りで地面を探すと指先に硬いものが触れた。
短い剣だった。
刃は欠けているが今はこれしかない。
俺は剣を握った。
暗闇の中に、二つの光が浮かび上がる。
モンスターの目だ。
「……アンデッド」
目の前に現れたのは、腐った身体を引きずるように歩くアンデッドだった。
俺は一歩後ろへ下がった。
死んだばかりだというのに、また死ぬつもりはない。
アンデッドがこちらへ向かってくる。
俺は剣を構えた。
そして、襲いかかってきたモンスターを必死に避ける。
爪が頬を掠める。
痛い。
生きている。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
一歩踏み込み、剣を振る。
浅い。
まだ倒れない。
モンスターが振り返る。
俺は歯を食いしばった。
もう一度。
今度は首元へ刃を叩き込む。
モンスターが大きく身体を揺らし、そのまま地面へ倒れた。
「……はぁ……はぁ……」
俺は剣を握ったまま、しばらく動けなかった。
生き残った。
それだけで精一杯だった。
しかし、次の瞬間――。
視界に見覚えのない文字が浮かび上がった。
【対象:腐肉喰らい】
【状態:死亡】
【吸収可能】
「……何だ、これ」
さらに文字が表示される。
【スキル《死体漁り》が発動しました】
【対象から吸収可能な能力を検出しました】
【吸収を実行しますか?】
俺は倒れたアンデッドを見る。
そして、目の前に表示された二つの選択肢を見る。
【YES】
【NO】
死んだはずの俺が、なぜ生きているのか。
ここがどこなのか。
このスキルは何なのか。
何一つ分からない。
それでも――。
「……YES」
俺がそう呟いた瞬間、身体の奥へ何かが流れ込んできた。
「――っ!」
膝から力が抜ける。
頭の奥が熱くなる。
身体の内側を何かが走り抜けていく。
数秒後、その感覚は嘘のように消えた。
【能力の吸収に成功しました】
俺は荒い息を吐きながら、自分の身体を見る。
特に変化はない。
ただ、身体の奥に何かが残っているような感覚だけがあった。
「……死体から、能力を奪ったのか」
答えは返ってこない。
暗闇は何も教えてくれない。
ただ、遠くからまた別の足音が聞こえてくる。
一つではない。
二つ。
三つ。
もっといる。
俺は欠けた剣を握り直した。
死んだはずの俺が、どうしてここにいるのかは分からない。
何故蘇ったのかも、この《死体漁り》が何なのかも分からない。
それでも、今の俺には一つだけ明確な目的があった。
「……生き残る」
もう一度、死ぬわけにはいかない。
俺は暗闇の奥を睨みつける。
そして、迫りくるモンスターの気配へ向かって、一歩を踏み出した。




