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第8話 元神童の帰還

第8話 元神童の帰還


 翌朝。


 王立セレスティア詠紋学院の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。


 理由は、誰もが分かっていた。


 昨日、学院に戻ってきた少年。


 二年前、何も告げずに姿を消した神童。


 そして今、条件付きの編入生としてこの教室に来る者。


 レイ・アルヴェイン。


 その名前だけが、本人よりも先に教室へ入り込んでいた。


 セリア・フロストベル・セレスティアは、窓際の席で静かに前を向いていた。


 昨日の光景が、まだ頭から離れない。


 黒い甲殻を持つ特殊個体。


 崩れた隊列。


 迫る死の気配。


 そのすべてを断ち切るように、紫電をまとった少年が現れた。


 魔力を失ったはずの者が、あの特殊個体を一瞬で斬り伏せた。


 その事実が、セリアの中で何度も引っかかっていた。


 強い。


 それは間違いない。


 けれど、ただ強いだけでは説明がつかない。


 あの雷は、普通ではなかった。


 セリアは無意識に指先を握り込んだ。


 その時、教室の扉が開いた。


 ざわついていた声が、少しずつ小さくなっていく。


 入ってきたのは担任教師だった。


 その後ろに、一人の少年が立っていた。


 黒に近い髪。


 細身の体。


 腰には、学院ではあまり見かけない刀。


 派手な装飾はない。


 けれど、その姿を見た瞬間、教室中の空気が変わった。


「今日から、このクラスに一人加わることになった」


 担任教師の声が、静まり返った教室に落ちる。


「レイ・アルヴェインだ。事情により、正式な復学ではなく、条件付きの編入という扱いになる」


 条件付き。


 その言葉に、何人かが顔を見合わせた。


「彼は現在、基礎魔法の多くを扱うことができない。そのため、本来であれば通常の課程に戻すのは難しい」


 教室が、わずかにざわついた。


 基礎魔法が使えない。


 それは、詠紋学院の生徒にとって決して軽い言葉ではない。


「だが、学院長の判断により、特例として在籍を認めることになった。授業への参加は許可する。ただし、実技訓練と校外活動については、教師の判断を必要とする」


 担任教師はそこで一度、教室を見渡した。


「お前たちも、余計な詮索は控えるように」


 余計な詮索。


 そう言われて、すぐに納得する者ばかりではなかった。


 期待。


 疑い。


 好奇心。


 それから、ほんの少しの警戒。


 いくつもの視線が、レイへ集まっている。


 レイは一歩前に出た。


 そして、教室を見渡す。


 その途中で、セリアと目が合った。


 セリアは思わず背筋を伸ばした。


 昨日の戦場ではなく、学院の教室。


 同じ相手なのに、見え方が少しだけ違う。


 レイは困ったように笑った。


「レイ・アルヴェインです。二年ぶりなので、迷惑をかけることもあると思います」


 そこで一度、言葉を切る。


 教室の視線が、さらに集まった。


 レイは短く息を吸い、静かに頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 それだけだった。


 過去を飾る言葉も、昨日の戦いを誇る言葉もない。


 ただ、戻ってきた者として、そこに立っているだけだった。


「席は窓際の一番後ろだ」


 担任教師が示したのは、セリアの少し後ろにある席だった。


 レイが歩き出すと、視線がいっせいに追いかけてくる。


 けれど、レイは何も言わなかった。


 聞こえていないわけではない。


 聞こえた上で、反応しないことを選んでいる。


 セリアは、その横顔を少しだけ見た。


 悔しくないのだろうか。


 腹が立たないのだろうか。


 自分なら、きっと黙っていられない。


 そんなことを考えてしまう自分に気づき、セリアは小さく息を吐いた。


 レイがセリアの横を通り過ぎようとした時だった。


 ふと、彼の足が止まった。


「セリア」


 名前を呼ばれ、セリアは反射的に顔を上げた。


「な、何よ」


「昨日の怪我、大丈夫か?」


 思っていたよりも穏やかな声だった。


 責めるでもなく、からかうでもない。


 ただ、本当に気にしているだけの声。


 セリアは一瞬、返事に詰まった。


 教室の視線が、自分たちへ集まるのを感じる。


「大丈夫よ。あの程度、怪我のうちに入らないわ」


「そっか」


 レイは少しだけ安心したように笑った。


「ならよかった」


 それだけ言って、レイは席へ向かおうとした。


 その瞬間、教室のどこかから声が飛んだ。


「おい、王女様が照れてるぞ」


 小さな笑いが広がった。


 セリアの肩が、ぴくりと跳ねる。


「照れてない!」


 勢いよく振り返ったセリアの声に、周囲の笑いがさらに大きくなる。


「顔、赤いですけど」


「赤くない!」


「いや、ちょっと赤い」


「赤くないと言っているでしょう!」


 セリアは机を軽く叩いた。


 その音に、数人の生徒が慌てて背筋を伸ばす。


 レイは少し困ったように笑っていた。


「悪い。騒がせるつもりはなかったんだけど」


「あなたが急に話しかけるからでしょう!」


「怪我が気になっただけだ」


「だから、それを人前で言わなくていいの!」


 セリアは言ってから、また余計に視線が集まっていることに気づいた。


 しまった。


 そう思った時には、もう遅い。


 教室の空気は、すっかり面白がる色に変わっていた。


 担任教師が教壇を軽く叩く。


「静かにしろ。朝から元気なのは結構だが、授業は始まっている」


 ようやく教室のざわめきが落ち着いていく。


 セリアは前を向き直した。


 何でもない会話だった。


 ただ昨日の怪我を確認されただけ。


 それなのに、胸の奥が少し落ち着かない。


「……本当に、調子が狂うわ」


 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。


 レイが窓際の一番後ろの席に着く。


 隣には、水色の髪を肩のあたりで切りそろえた小柄な少女が座っていた。


 ノア・リュミエル。


 理論と解析を得意とし、魔力の流れを読むことに関しては同学年でも抜きん出ている生徒だった。


 教室がまだ少しだけがやがやしている中、ノアはレイをじーっと見ていた。


 まばたきも少ない。


 遠慮もない。


 ただ、見ている。


 レイは鞄を机に置き、少しだけ視線を横へ向けた。


「えっと……何か?」


「レイ・アルヴェイン」


 ノアは、確認するようにその名を呼んだ。


「そうだけど」


「昨日の特殊個体、あなたが倒したの?」


 教室のざわめきが、ほんの少しだけ弱まった。


 セリアも前を向いたまま、耳だけをそちらへ向けてしまう。


 レイは少し考えてから答えた。


「倒した、というより、間に合っただけだ」


「間に合っただけで、あれは斬れない」


 ノアの声は静かだった。


 責める響きも、驚く響きもない。


 ただ、事実を並べるような言い方だった。


 レイは困ったように眉を下げる。


「見てたのか?」


「見てない」


「じゃあ、どうして」


「痕跡」


 ノアは短く答えた。


「訓練場に残っていた魔力の乱れ。特殊個体の核の割れ方。あと、セリアの証言」


「私の証言を勝手に使わないで」


 前を向いたまま、セリアがすかさず口を挟む。


 ノアは表情を変えずに頷いた。


「使った」


「堂々と言わないで」


「事実だから」


「そういう問題じゃないのよ」


 また教室の一部が小さく笑った。


 レイはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 ノアはもう一度、レイをじーっと見た。


「基礎魔法の多くが使えない。でも、特殊個体は斬れる」


「……まあ、そうなるな」


「変」


 はっきりと言い切られ、レイは苦笑した。


「そこまで真っ直ぐ言われると、逆に返しづらいな」


「褒めてる」


「今の、褒めてたのか?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 ノアは小さく首を傾げた。


 その仕草は無表情に近いのに、どこかずれている。


 セリアは前の席で、なぜか少しだけ落ち着かなくなった。


 ノアは誰に対しても淡々としている。


 それは分かっている。


 分かっているのに、レイをじーっと見るあの視線が妙に気になる。


 別に、面白くないわけではない。


 ただ、気になるだけだ。


 担任教師が再び教壇を叩いた。


「ノア。質問は後にしろ」


「はい」


 ノアは素直に前を向いた。


 けれど、一瞬だけまたレイを見た。


 じーっと。


 レイはその視線に気づき、少し困ったように目を逸らした。


 ようやく授業が始まる。


 教室はいつもの形を取り戻していく。


 けれど、完全に元通りになったわけではなかった。


 窓際の一番後ろ。


 そこに一つ席が増えただけで、この教室の空気は確かに変わった。


 元神童が帰ってきた。


 条件付きの編入生として。


 基礎魔法の多くを失ったまま、それでも特殊個体を斬った少年として。


 そして、その変化を誰よりも強く意識しているのは、たぶんセリア自身だった。


 授業が進んでも、レイの手は止まらなかった。


 教師の説明を聞きながら、必要な部分だけを静かに書き込んでいく。


 二年の空白があるはずなのに、知識の穴を感じさせない。


 むしろ、授業の要点を拾うのが早い。


 セリアはそれに気づいて、また少しだけ眉を寄せた。


 基礎魔法は使えない。


 けれど、理解していないわけではない。


 魔法理論も、詠紋の構造も、彼は追えている。


 二年間、ただ消えていたわけではないのだ。


 そのことが、セリアには分かった。


 分かったからこそ、余計に気になる。


 失ったのか。


 変わったのか。


 それとも、まだ何かを隠しているのか。


 セリアには分からなかった。


 分からないことが、少しだけ悔しかった。


 授業の終わりを告げる鐘が鳴る。


 教室に再びざわめきが戻った。


 何人かの生徒がレイの方を見たが、すぐに近づく者はいない。


 遠巻きに見る。


 気にする。


 声をかけるきっかけを探す。


 それが、今の距離だった。


 レイは椅子から立ち上がり、机の上を整えた。


 その隣で、ノアも記録帳を閉じる。


 彼女は立ち上がる前に、もう一度だけレイをじーっと見た。


「……?」


 レイが首を傾げる。


 ノアは何も言わない。


 そのまま記録帳を胸に抱え、静かに教室を出ていった。


 セリアもその背中を見送る。


「……何なのよ、もう」


 レイの帰還。


 条件付きの編入。


 ノアの視線。


 昨日までとは違う何かが、学院の中で動き始めている。


 セリアはそう感じていた。


 そしてそれは、きっと間違いではなかった。

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