焚火と静寂
部屋のなか、ひとり窓の外を眺めながら息をつく。
少女は、少年に触れられた髪を意識していた。
気を許したつもりはなかった。いうなれば油断。そう、油断だ。
助けてもらった礼を言おうと思って、結局言えなくて。
ずっと少年を疑っていた。でも、彼が少女についた嘘は優しい嘘だけだった。隠し事が多くてよくわからない相手だったけど、少女に語りかけてきた言葉は、最後には信じられたのだ。
だから、雰囲気に流されてしまっただけだ。
自分には心を捧げた相手がいる。かつて心を奪われたあの日から、彼を想わなかったことなどひと時もない。どんなに辛い時でも彼のことを想えば、乗り越えられてきた。
しかも少年は人間だった。触れ合うことなど想像もしていなかった相手だ。
だけどほんの少しだけ、ほんのわずかだけ、少年に触れてみたいと思ったのだった。それがどういう感情なのかも理解できずに。
なぜ、こうも憂鬱なのだろう。
少女は髪先を指に絡めながら、またため息をつくのだった。
「ちょいと天気は悪いけど、雨は降らなさそうだな」
目を覚ましてから三日後の朝。
やや曇りがちな空を見上げてから、セイシンは振り返った。
「暑くもなく寒くもないってのは旅にはちょうどいいか。なあディル」
「晴れの門出とは言えないが、どっちつかずの君には似合ってるさ」
「そんな褒めんなって。それじゃ、進展があったら連絡するぜ」
「良い報告を待っているよ。それと君たちが揃っていて万が一などないとは思うが、くれぐれも気を付けたまえ」
見送りに来たディルと握手を交わして、馬車に乗り込んだ。
この三日間で計画は念入りに立てておいた。別れにそれ以上の言葉はいらなかった。
四人乗れば満員の狭い車内には、すでにリッカとネムが座っていた。リッカの隣に腰かけて扉を閉めると、御者が鞭を打って馬車は進み始めた。
「おさらいしますね。最初の街は、ここからまっすぐ北に進んだところにある小さな街フッサです。そこで領長さんに話を聞く予定です」
リッカが地図を広げながら言う。
「フッサか。聞いたことなかったな、どんな街なんだ?」
「こことは別の領圏の小さな街なので詳しく知ってる人はいなかったみたいですけど、確かなのは近くに火山があるようですね。……火山って危険じゃないんでしょうか?」
「頻繁に活動してなけりゃあ問題はないはずだけど」
街が成り立っているってことは、それほど危険性は高くないだろう。
セイシンたちは【暗殺教団】の情報を探るべく、ディルの依頼を受けてウルスの街を出発した。目的は三名の人物に話を聞くことだ。どうやらそれぞれ、手がかりを持っていそうな人物らしい。
一つ目の目的地は火山の街フッサ。訪ねる相手は街の領長だ。
「火山ってことは、温泉でもあるんじゃないか」
「温泉ですか! わたし、温泉大好きなんですよ!」
目を輝かせるリッカだった。
かくいうセイシンも温泉は好きだ。せっかくの旅路、楽しませてもらおう。気を張ってばかりいても仕方がないし、見たことのない街を見るのは好きだった。
気が高ぶるセイシンとは裏腹に、リッカは自分の体を抱えて身震いしていた。
「久々に昔のことを思い出しましたよ。【神子】の試練は極寒の霊峰でしたから、寒さで何度死にかけたことか……。そのたびに温泉に命を助けられました。いまのところ、命の恩人第一位です」
「霊峰か。話を聞く限りは、試練ってものすごく大変なんだってな」
「そりゃあもう! 神様もよくあんな場所に試練を用意しましたよね。ふつうの人なら二日で死にますよ」
「まあ散歩気分で試練受けられても困るだろうしな。生きててよかったじゃねえか」
「ええ、温泉サマサマです」
その温泉が楽しみで仕方ないのか、そわそわと膝と動かすリッカだった。
「それにしても、セイシンさんもついてくるのは意外でしたよ。てっきり依頼を受けずに無視して帰るのだとばかり」
「ん、まあな。俺もそのつもりだったんだけど」
さすがに【暗殺教団】の名前が出れば、ついていかないわけにはいかない。
セイシンの確かな記憶では生まれ育った故郷――【暗殺教団】は、すでに滅んでいる。
生き残っているのは、セイシンを含めて二人だけのはずだった。
その二人が関わっていないところで【暗殺教団】が残存しているとすれば、それは名を騙る偽物か、あるいはセイシンが知らない生存者が残っていたのか。
どちらにしても、放っておける問題ではない。
「やっぱり、わたしのことが心配ですか?」
「まあ、心配っちゃあ心配だな」
もし故郷の人間が残っていたとしても、不意打ちだろうと夜襲だろうと実力でリッカに勝てるような暗殺者はもういないはずなので、リッカ自身の心配はしていなかった。むしろリッカが無茶をして情報を手に入れる前に剣を振るわないかが心配だった。
あえてそれを言う必要もないので曖昧にうなずくと、リッカは頬を緩めて肩を叩いてくる。
「もう! 嬉しいですってば!」
「痛えよ」
勇者には自分の膂力を考えて叩いてほしいものだった。
その様子を正面で眺めていたのはネム。
つまらなさそうな表情で、小さくつぶやいた。
「なんであたしまで」
「そう言うなって。ネムを守るためならリッカと一緒にいるのが一番安全だ、って王子が判断したんだからしょうがないだろ。おまえだって条約破って無断で国境越えてるんだし、捕虜にならないだけマシだぞ?」
ディルからの依頼遂行にあたって、ネムの帯同はほとんど強制だった。
二人にはわざわざ言わなかったが、セイシンがついてきた理由のひとつに、リッカとネムを二人きりにさせないというのもあった。いまはリッカも理性で抑えているが、ネムへの視線に憎悪が混じっていることくらい見ていてわかる。逆もまた然りだ。
何かのはずみでタガが外れるかもしれないので、その監視も兼ねてセイシンも旅路に同行することを決めたのだった。
「それにネムと一緒の旅で、俺は嬉しいぞ。じっくり話ができる良い機会だしな」
「……ふん」
顔を逸らされた。
横からリッカに脇腹をつつかれる。
「まーたそうやって軟派なことを言うんですから」
「怒るなって。おまえとも旅できて嬉しいぞ。賑やかで楽しいしな」
「ほんとですか!? わたしもです!」
「お、おう」
お世辞だったのだが思ったより劇的な効果を発揮して、満面の笑みで肩を揺さぶられた。
ネムがフードの陰で小さく嘲笑する。
「……チョロすぎ」
「何か、言いましたか、ネムセフィアさん?」
笑顔に青筋を立てて、正面のフードを睨むリッカだった。
決して円満な旅にはならなさそうだったが、退屈はしなさそうだった。ふたりの剣呑な雰囲気の間に立つのも忘れず、セイシンは馬車に揺られ続けるのだった。
慌てるような旅路でもなく、ゆっくりと馬車は進んだ。
日が暮れた最初の夜は、途中の野営地で過ごすことになっていた。野盗や獣に出くわすこともなく予定通りの野営地に到着した。
公共の小屋がふたつほど建っている野営地には誰もおらず、しばらく利用する人もいなかったのか扉は錆びついていた。
馬車馬に餌をやる御者に視線を向けつつ、リッカが言う。
「御者を入れて四人……小屋は二つ。ふたりずつで分かれましょう」
「男と女でいいんじゃないか」
御者は男だ。
組み合わせはセイシンと御者、ネムとリッカで決まりのようなもんだろうけど。
「わたしがネムセフィアと一緒ですか」
「それは遠慮したいわね」
珍しく意見が合った二人だった。
たしかに考えてみると、この二人が狭い小屋で無事に一晩過ごせるなんて思わない。夜が明けたらどちらかが死んでいる、なんて事態も想定しないといけないのは言うまでもないことだった。
「俺か御者と、おまえらのどっちかが組むしかないか」
「わたしはセイシンさんがいいです」
素直な勇者。
ネムも今回ばかりは自己主張する。
「あたしもどちらかといえばまだあなたのほうがいいわ。万が一のとき盾にできるもの」
セイシンも盾にされたくはないが、たしかに御者の武力は無に等しい。
旅に出る前は夜の過ごし方なんて考えてなかったから、こうした小さな問題に直面すると、少々面倒になってくる。
「盾なら持ってるじゃないですか」
「防げるものが違うわ。あなたこそ御者と過ごせばいいじゃない」
「嫌です。知らない男性と二人きりなんて」
「貞操の心配? 猛獣みたいなあなたが?」
「侮辱です! 斬りますよ!」
「……はあ。三人で過ごすか」
すでに喧嘩を始めたのを見て、セイシンは諦めるしかないと悟った。
荷物を小屋に放り込み、小川で水を汲んで夕食の準備にとりかかる。野営地は基本的に焚火で過ごすので、木材も集めるのを忘れないように分担する。
御者は馬の世話があるので、野営地での設営には参加しない決まりがある。それは馬車を依頼するときの暗黙の了解だった。
セイシンが水汲み、リッカが木材集め、ネムが火起こしを担当した。とくに滞りもなく準備は進み、野営の準備が完了する。
空はあいにくの曇りで月や星は見えなかった。灯りは焚火と小屋に設置されていた松明だけになる。薄暗いなかで食材を切り、鍋を火にくべる。
パチパチと木の爆ぜる様子を眺めながら、セイシンたちは焚火を囲んだ。
街とは違い、風と虫の音が満ちる静かな夜だった。
「こうして誰かとゆっくり火を囲むのって、初めてです」
リッカが微笑んでいた。
「戦争のときは敵襲を恐れて火はすぐに消してましたし、戦争が終わってからはずっと一人で過ごしていましたから。ですから、こうやって暖を取るのは新鮮です」
苛烈な人生を送ってきた勇者。
その想い出を語る横顔は、ただの少女のものだった。
「むかし父に言われたことがあるんですよ。火は素直だ、って。扱う者によって人生の助けにもなるし、あるいは恐るべき凶器にもなる。そのとき火を眺めて思うことが、いまの心を現わしているんだぞって」
「良い言葉だな」
セイシンは感心した。
リッカは少し、寂しそうに視線を落とす。
「わたし、いままで火が嫌いでした。危ないし、目立つし、料理と暖を取るくらいにしか役に立たないと思ってました。一歩間違えれば森が焼けたりしますし、扱いも面倒だって思ってました。ほんと荒んでましたよね、わたし」
「……リッカ……」
「でも、いまは全然違うことを思ってるんです。こうしてセイシンさんと火を眺めて料理ができる時間を待ってると、火はとても優しいなって思うんです。……変ですよね。ついこの前まではそんなこと思いもしなかったのに、たった数日でこんなに火を眺めるのが暖かいだなんて……ほんと、人間って不思議ですよね」
リッカは自分の手を眺めた。
剣を握り、剣に生きてきたその手。
お世辞にも綺麗とは言えない傷と血に塗れた手を。
「昔のわたしが聞いたら、何を世迷い言をって言うんでしょうね。殺伐としたことしか知らなかったですから。しかも、隣にいるのが魔王の娘ですよ? ほんと、人生ってどうなるかわかりませんね」
「……あなたは、過去をやり直したいのかしら」
ネムが語りかけた。
それは勇者と魔王の娘としてではなく、火を囲む旅の仲間としての言葉のようだった。
「過去って、どのことです?」
「戦争のことも人生のことも。あなたはずっと戦ってきたと聞いているわ。戦いがなければ、きっとあなたは火を嫌うことなんてなかったはずよ。だから――」
「だからやり直して、普通の人生を歩みたい」
リッカのうなずきは、寂寥に満ちていた。
「もちろん思いますよ。普通に生きて、友達をつくって、恋をして、そうやって過ごせたらどれほどよかったか。殺し合いとか憎しみとか、そんなものと無縁な人生を送りたかった。誰だってそうじゃないですか? あなたもそうでしょう、ネムセフィア」
「……ええ。そうね」
ネムもリッカと同じように火を見つめる。
深くフードを被り直し、膝を抱えながら珍しく言葉数を多くする。
「あたしはあなたほど戦いを見てきたわけでも、戦ってきたわけでもないわ。人間にたくさんの友人や仲間を殺されても、それを直接見てきたわけじゃない。確かに、みんなを殺したあなたたちを憎いとは思う。でも、あたしは戦いたくなかった。その憎しみに振り回されたくなかったから」
「わたしを恨んでるんじゃないんですか?」
「もちろん恨んでいるわ。殺したいとも思う。でも、そうやって考えれば考えるほど、あたしの理想から遠ざかるのよ」
「理想、ですか」
好奇心が芽生えたのか、リッカはフードを覗き込む。
ネムもフードから片目を出して、リッカの視線と合わせた。
「あたしは普通の人生が欲しかった。魔王の娘でもなく、ただ平凡な親に生まれて友達や仲間と過ごしたかった。親の名前にひれ伏す友達も、媚びへつらう大人たちも、どこに原因があるかもわからないような憎しみで続けている戦争も、あたしは嫌いだった。だからあたしは自分の好きなことを貫こうとしたの」
「それが、戦争を止めることですか?」
「ええ。結局、誰も話を聞いてくれなかったけど」
魔王が死ぬその時まで、ネムはずっと孤立していた。
いや、魔王が死んで三年が経ったいまでもそれは変わらない。そのネムの考えを知っていたパルテナにも利用され、ひとりで戦いの人生に抗い続けているのだ。
リッカもかつて魔王城で出会ったときのことを思い出して言った。
「そうだったんですね。そう言えばわたしも、あなたの話を聞かない一人でしたね」
「その筆頭で仇敵よ。だから、心底嫌いなの」
「奇遇ですね。あの戦場でそんな甘えた考えを捨てなかったあなたが、わたしも大嫌いです」
言葉を交わすほどに、二人の溝は深まっていく。
しかしセイシンは止めようとは思わなかった。
誰かを疎ましく、あるいは憎く思うことは、別段悪いことじゃない。大事なのは嫌いになった後、その相手とどう向き合うかだ。
これから二人の関係がどうなるのか、セイシンは少し気になるのだった。
鍋が煮立ってきたのを見計らって口を挟む。
「お、そろそろ食べ時だぞ」
「やっとですか! お腹すきました!」
リッカは皿とスプーンを抱えて目を輝かせる。
大喰らいの勇者に足りるかどうか。
「ネムも食べろよ。背伸びないぞ」
小柄なネムは語りすぎたのを恥じてフードを深く被り、セイシンたちから少し離れてしまった。
セイシンが料理を皿にとって渡しにいくと、遠慮がちに受け取ってから更にみんなから離れて一人で食事をし始めた。
まだまだ距離はある。
でもそれくらいが丁度いいのかもしれなかった。
セイシンは御者と明日の道行きの計画を相談しながら、ゆっくりと食事を摂った。
焚火の爆ぜる音とともに、夜は更けていく。




