17『始まり』
全てが、私にとっては初めての経験だった。
歩くこと、喋ること、食べること、生きること。
全てが初めてだったんだけど、どうやら身体が覚えているようで、私はあらゆることをそれなりにこなして来た。
私は『過去』というものがない。だから。生まれてから十八年の年月を私は持っていない。ただ、十八年過ごした身体を持っているだけ。それは、私が前の存在から譲り受けたものの一つ。
私には過去がないからもちろん記憶もなくて、前の私がどんな人だったのかは知らない。気づいたときに私の手元にあったのは、人間卒業証書と白いチェスの駒だけだった。
ひとまず言えるのは、私が人間じゃないってこと。そして、前の私が用意した大学生って身分を持ってる。
私は人間じゃない大学生。『水城綾芽』
桜が咲いてる四月ごろ。入学したばかりの大学の中。私は授業終わりの机の上で、じっとチェスの駒を見つめていた。
この駒は、前の私から受け継いだもの。私が、どうしてこの駒一つだけを残したのかなんてわからない。ただ、ものすごく大事なもののような気がして。この駒は私の大切な宝物になって、私はいつも肌身離さず持ち歩いてた。
そしたら、今度はチェスに興味を持ち始めて。ここ数日はチェスの本を読んでルールを覚えたりしてる。
とにかく、私は何も経験してなくて、何か行動を起こさなくちゃいけなかった。それで何もない私に一番身近だったのがチェスで、ひとまずチェスに興味を持ち始めた。
まずは趣味から。チェスを趣味にしてやろうって。
そうやってチェスと関わる日々を送っていたら、私はこの大学でチェスのサークルがあるのを知った。
とりあえず形から。そんな方針の私は、迷うことなくチェスのサークルへ入部することを決めた。
コンコンと部室のドアを叩く。恐る恐る入ってみると、突然の訪問客にサークルの人はみんなきょとんとした顔をしていた。
「あの・・・すいません、入部希望の者なんですけど」
オドオドしながら、私は室内をぐるっと見渡した。男ばっかりで、女の人は一人しかいない。きっと、なかなか女の人と関わりを持たないサークルなんだろう。だから、みんな物珍しそうな目で私を見ている。
唯一いる女の人が立ち上がって、「いらっしゃい」って優しく声をかけてくれた。
「はっ、初めまして! よろしくお願いします」
「初めまして。よろしくね」
大人の風格がただよった、とても穏やかで優しい女性だった。どうやら、唯一の女性部員でありながら、部長をしてるらしい。
「名前は?」
「水城綾芽っていいます」
「チェスの経験はどれくらい?」
「・・・初めてです。多分、全然強くないと思います・・・」
私は申し訳ないのと恥ずかしいのと合わさって、とてもじゃないけど部長を顔を見られなかった。
バカにしてるよね。大学のサークルに『やったことないけど入部します!』なんて。中学や高校の部活じゃあるまいし・・・
けど、部長はそんな私に「大丈夫」と優しく声をかけてくれて。
「そんな堅苦しいサークルじゃないから。楽しくチェスできるのが一番いいの。ねぇ、みんな?」
他の男性部員は楽しそうに頷いていた。明るくて雰囲気のいいサークルみたいで、ちょっと安心。
それから私は、一人一人の部員にあいさつしていった。みんな、快く私を受け入れてくれて、とても楽しそうな日々を私は描いてた。
その中で一人、私は無愛想な人を見つけた。誰かとチェスを打つためにこのサークルに来てるはずなのに、その人は一人でチェスを打っていた。
ここにきて一匹狼ぃ・・・
相手もいないのに何真剣になってるんだろう・・・
私はちょっと不快に思ったけど、不思議と嫌いになれなかった。
私のタイプだ。じっとチェス盤を見つめる瞳。その瞳が、私の好み。濁って何色にも映る瞳に、吸い込まれそうになる。
「部長さん、あの人は?」
「あなたと同じ、新しく入ってきた子。まだちょっと、緊張してみんなと馴染めないかな・・・」
私はその新入生に近づいていった。
「初めまして、水城綾芽です。よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく」
彼はテキトーにあいさつして、私の顔も見ないままチェスの駒を並べるのに集中していた。名前すら言わない彼に、私はすごくイラッとした。
彼は駒を並び終えると突然立ち上がって、私の顔をジロジロと見つめる。
「な、何ですかっ」
戸惑う私に、彼は無表情のまま誰にも聴こえないように私にささやいた。
「強くなったの?」
・・・・・・はぁ?
わけのわからないまま、彼は部室を出て行った。
首をかしげながら、私は彼が並べていたチェス盤に目がつく。一つだけ、白に空白があるのを見つけた。ただ一つ足りない、白のクイーン。
ふと他の駒を見ると、どこかで見覚えがある。私は無心のままポケットから宝物の駒を取り出して、その空白に置く。
全てが溶けるように、チェス盤は不完全さを取り払っていた。私が持ってるクイーンも、他の駒も同じものだ・・・
「あれ、曇木くんが一つなくしてって言ってた駒。どうして水城さんが持ってるの?」
私の後ろから、部長さんが不思議そうに顔を出した。
私はパッと後ろを振り返った。ドアを見るけど、もう誰もいない。
いてもたってもいられなかった。今すぐ彼を追いかけたくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになる。
「すいません」
部長さんに一声かけて、私は部室を飛び出してた。
――――あの人は、私を変える
――――あの人は、私の大切な人になる
それは、予感じゃなくて確信だった。