エピローグ 温かな食卓
エピローグ 温かな食卓
深谷へ雪が降っていた。
白い雪片が、静かな夜空からふわりふわりと落ちてくる。
かつて“死の谷”と恐れられた奈落の深谷は、今では無数の灯りで輝いていた。
石畳の通り。
立ち並ぶ食堂。
湯気。
笑い声。
窓から漏れる温かな橙色の光。
吐く息は白いのに、街全体はどこか春みたいに暖かかった。
「寒っ!」
店の扉を開け、ミーナが飛び込んでくる。
頭の上には雪が積もっていた。
リーネは思わず笑う。
「もう、ちゃんと帽子かぶらないと」
「だって急いでたんだもん!」
「転びませんでした?」
「三回転んだ!」
「多い!」
厨房に笑い声が広がる。
大鍋ではスープがことこと煮えていた。
鶏ガラと香草の匂い。
焼きたてパンの甘い香り。
炙った肉の香ばしさ。
食堂の中は、外とは別世界みたいに温かい。
ミーナは鼻をひくひくさせた。
「わぁ……今日すごい匂い」
「冬限定メニューですよ」
「なに!?」
「特製シチューです」
「やったー!!」
ミーナが飛び跳ねる。
その時、奥の席から低い声が響いた。
「リーネ」
「はい?」
「腹が減った」
「アッシュさんはいつもです」
暖炉の近くで、アッシュが腕を組んで座っていた。
既にテーブルの上には大量の空皿が積み上がっている。
「もう五皿食べましたよね?」
「前菜だ」
「前菜の量じゃないです」
「竜だからな」
「便利ですねその理屈」
アッシュは真顔だった。
相変わらずである。
けれど、その姿を見ているとリーネは少し安心する。
変わらない。
この温かな日常が、ちゃんとここにある。
店の中は満席だった。
旅人。
冒険者。
元奴隷。
追放された職人。
居場所を失った人たち。
様々な人が、この街へ流れ着いてくる。
最初はみんな、不安そうな顔をしている。
でも。
温かな料理を食べると、少しずつ顔が変わるのだ。
ほっとしたように。
泣きそうな顔で。
嬉しそうに。
それを見るたび、リーネの胸はじんわり温かくなった。
「リーネお姉ちゃん!」
ミーナが袖を引っ張る。
「次どうするの!?」
「んー、シチュー完成したらパン焼きます!」
「わかった!」
「焦がしちゃだめですよ?」
「まかせて!」
元気いっぱいに返事をし、ミーナが厨房を走り回る。
少し前まで病で倒れていたとは思えない。
ガルド村長も、今では立派な食材係だ。
「リーネちゃん、肉届いたぞー!」
「ありがとうございます!」
「今日は特上だ!」
「やった!」
厨房がまた賑やかになる。
鍋が鳴る。
包丁が響く。
笑い声が混ざる。
それは、リーネがずっと欲しかった音だった。
昔。
勇者パーティーにいた頃は、いつも静かに料理していた。
失敗しないように。
怒られないように。
目立たないように。
怖かった。
嫌われるのが。
必要ないと言われるのが。
だから、小さく息を潜めて生きていた。
けれど今は違う。
「リーネー! スープおかわり!」
「はーい!」
「肉追加!」
「今焼きます!」
「パンまだ!?」
「焼けます!」
みんなが遠慮なく声をかけてくる。
笑いながら。
嬉しそうに。
その空気が、たまらなく好きだった。
アッシュが頬杖をつきながら言う。
「お前、よく笑うようになったな」
リーネはきょとんとする。
「そうですか?」
「ああ」
アッシュは静かに頷いた。
「最初は、今にも消えそうな顔をしていた」
リーネは少し黙る。
思い出す。
深谷へ落とされた夜。
冷たかった。
怖かった。
寂しかった。
でも。
あの日、小さなスープを作った。
温かな湯気を見て、少しだけ前を向けた。
そして、アッシュが言ったのだ。
『うまい』と。
たったその一言が。
リーネを救ってくれた。
リーネはふっと笑う。
「……アッシュさんのおかげです」
「俺?」
「はい」
「なぜだ」
「いっぱい食べてくれるから」
アッシュは少し考え込み、真面目な顔で頷いた。
「それは大事だな」
「はい。すごく」
二人は顔を見合わせ、くすっと笑った。
その時だった。
店の扉が開く。
冷たい風と一緒に、一人の少年が入ってきた。
ぼろぼろの服。
不安そうな顔。
痩せた身体。
リーネはすぐに気づく。
――昔の自分と同じ顔だ。
少年は怯えたように言った。
「あ、あの……ここ、本当に誰でも入っていいんですか」
リーネは優しく笑った。
「もちろんです」
「でも、お金……」
「温かいご飯ならありますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
少年の目に涙が浮かんだ。
リーネは席へ案内する。
熱々のシチューをよそう。
白い湯気が立ち昇る。
香草と肉の匂いが広がった。
少年は震える手で匙を持つ。
一口。
その瞬間。
張り詰めていた顔が、ゆっくり緩んだ。
「……おいしい」
ぽろり、と涙が落ちる。
その姿を見て、リーネは静かに笑った。
外では雪が降り続いている。
けれど、この場所は温かい。
誰かとご飯を食べる温かさ。
誰かに「おいしい」と言ってもらえる幸せ。
それを、リーネはもう知っていた。
鍋から立ち昇る湯気が、柔らかく揺れる。
リーネはエプロンを結び直し、大鍋を握った。
「さて!」
水色の瞳が楽しそうに細められる。
「今日はまだまだ作りますよ!」




