002 真夜中の女子会②:リトル・トナカイ・スタンピード
†
その夜、イーリャ・コシノヴァは疲労困憊なのに、ギンギンに目が冴えていた。
徹夜明けに尿を被ったり、人質にされたり、内通者騒動に吸血鬼騒ぎ……。
四方八方から災難がやって来る、怒涛の一日だった。
そんな一日の締め括りにあった宴会は祝賀会のようであって、その水面下ではラムシング村とスプリグリ族との抜き差しならない外交の様相を示していた。
村の代表としてイーリャは容赦のない歓待をつつがなく切り抜け、へとへとで寝床に直行する。
はずだった。
ぐっすり眠って、一日の疲れを癒そうと、倒れるように床に就き、目を閉じる。
だが、閉じたものの、ギンと開いてしまう。
ぎゅっと目をつむっても、弾けるように開眼してしまう。
心も身体も疲れ果てて安らぎを求めているというのに、目だけが駄々をこねて夜更かしを強行したがっている。
イーリャに思い当たる節があった。
宴会に出された料理のせいだ。
トナカイの脳みそが、目玉が、精巣が、おちん……が。
否応なしに勧められた珍味の数々が、今になってイーリャの精力を、そりゃもうはちゃめちゃに増強させていた。
厳冬を生き延びるトナカイの生命力の源が、イーリャの体内でリトルトナカイの大群と化して、所狭しと駆け巡る。
リトルトナカイたちの蹄に揺れる雪原が見えてきそうだし、雄々しい鳴き声まで聞こえてきそうだ。
たまらずベッドから飛び起きた。
「だ、だめです……眠れる気がしません……どうしましょう」
目を血走らせ、鼻息まで白くして、イーリャは独り言つ。
元気がみなぎっているのは良いが、どうにかひと眠りしないと明日に疲労を持ち越してしまう。
生活リズムの乱れなど、ラムシング村の規範を自負するイーリャにとって許し難いことだった。
昨夜の見張り当番からこの方、徹夜している。二徹目は避けたい。
何か、何としてでも眠気を誘うようなことをしなければ。
「……ああ、そうです。あれがありました」
イーリャがポンと手を打つ。
「丁度良いです。伯爵領の資料を下読みしてしまいましょう」
イーリャ・コシノヴァは、旧ラムシンケ伯爵領の再開拓事業を担う役人、コシノフ家の娘である。
彼女の屋敷の書庫には、開拓地周辺の郷土史や、今や貴重となった旧伯爵領にまつわる資料が収蔵されている。
その中には吸血鬼・露術研究の異端児として悪名高い領主、ヘルシング教授の手記も含まれていたはずだ。
エリーに寄生するアルフレッドは、ヘルシング家の統治以前から禁域内に封じられていた可能性が高い。
だとすれば、アルフレッドの記述が残されているかもしれない。
エリーの現状を打破するための情報が隠されているかもしれない。
イーリャの上官であるミキがエリーの保護を決めてから、イーリャはその資料を紐解くつもりだったのだ。
そうと決まれば話は早い。
イーリャは当主代行権限をもって書庫を開き、資料を見繕って自室で読み漁ることにした。
何らかの手掛かりが見つかればそれが最善。下読み中に寝落ちしても明日再開すれば充分。
たとえ成果が得られずとも、格式ばった書類は眠気を誘うのに丁度良い。
どう転ぼうとも利点がある名案だと、イーリャは人知れず自画自賛する。
ところが、読めども成果がないのは想定通りな一方、眠気すら催さないまま夜ばかりが更けていく――。
†
「――という次第で、こちら自室と書庫を往復すること五回半、六冊目でして。ハハハ」
イーリャは隈の陰る目をギラつかせ、投げやりに口の片端を上げた。
「そ、そんなに精力つくんですか、あの料理……」
「つくなんてものじゃありません。持て余して困っているんです……」
イーリャはエリーの血化粧顔を、まじまじと見た。
視力が低くても、エリーの顔が斑に赤くなっているのがはっきりとわかる。
「……ここで立ち話も何ですね。厨房までご一緒しませんか? これから温かい物を淹れに行こうかと思っていたところなんです。顔を洗うなら、お湯がご入用でしょう?」
コシノフ邸本館は現在、産院として開放されている。
エリーやイーリャがいるここは、屋敷の中に区切られたファミリールームに当たる。
赤子が上げている泣き声や産声も、壁の向こうにくぐもって聞こえていた。
熱湯、湯冷ましはいくらあっても困らない。
それはつまり、厨房や暖炉は夜通しフル稼働で湯沸かし中ということに他ならなかった。
お茶の一杯や二杯、すぐに用意できる。
エリーは喜んでお呼ばれに与かることにした。
「あの、まさか、そのお顔のまま、お一人で厨房に行こうとなさっていましたか?」
イーリャに恐る恐る指摘されたエリーは「あっ」と濁声を上げた。
血塗れの女が夜間に屋敷を徘徊する。幽霊騒ぎ待ったなしだ。
「て、手拭いが見当たらなくて……」
苦し紛れの言い訳だとお見通しなようで、イーリャに溜め息をつかれてしまった。
「まあ、助産で血はみなさん見慣れているので心配要らないでしょうが……頼みますよ。ようやく諸々の事業が上向き始めて、今は大切な時期なんですから。幽霊騒ぎなん、て……」
イーリャが急に黙った。
「イーリャさん?」
「しっ」
エリーは無理やり口を塞がれる。イーリャの視線は、廊下の曲がり角に注がれていた。
曲がった先で、床板が軋む音がする。
チャごッ、ぎぃ、チャごッ、ぎぃ……。
何者かが階段を登っている。足音のリズムはそうでも、音が奇妙だ。
靴の音ではない。素足だろうか。なのに、固い何かが床材を叩いている。爪か。
こっちに来る。
イーリャはエリーへ、その場でじっとしているよう身振りで伝えた。
エリーは黙って首をぶんぶん縦に振る。
イーリャは廊下の曲がり角に身体を密着させ、次第に近寄る足音を待ち伏せる。
足音の主の獣のような息遣いまでもが、段々と鮮明になっていく。
獣毛の茂った手と鋭い爪を備えた指。
それが角にかかり、イーリャの目と鼻の先をかすめる。
剥き出しの牙の並ぶ口が、角から突き出された。
悲鳴を殺すエリー。
獣が姿を現した瞬間、イーリャは躊躇なく組みついた。
「あら~! どちたの~? ねんねできなかったの~? よちよちよち~!」
「おあああー!」
獣がイーリャに慄いた。
イーリャは両手両足を使って獣に抱きつき、全身を使って撫でるように可愛がる。
頬や鼻まで毛皮に埋めて愛でる相手は一人しかいない。
「あれ、ヘーゼルだったの?」
ヘーゼル・バーンズ――人狼の女にして、ラムシング村の修律士である。
エリーの恩人であり、最も心を許せる人だ。
幽霊話が出た直後だったせいで、エリーはてっきり何か悪いものかと思いかけていた。
けれども、よくよく考えてみれば、臆病なイーリャが進んで前に出た時点で察しがつくことだった。
「お、おお、エリー……うおっ!? 何だどうしたその顔!?」
戸惑うヘーゼルに抱きつくイーリャが、エリーに嫉妬の視線を寄越した。
名前を呼ばれなかったことが気に食わなかったらしい。
「平気だから気にしないで。それより、そっちこそどうしたの? そんな格好で……」
ヘーゼルの皮膚にはオオカミの毛皮が埋まっている。それが裏返ると彼女は半人半狼の姿になる。
獣の姿は、臨戦態勢の証拠だった。
抱きつくイーリャに構わず、ヘーゼルは頭を掻いて首を捻る。
「何か殴るような音とエリーの痛がる声が聞こえたから、すっ飛んで来た」
顔面が血まみれのせいで、一騒動起こしたのがいけなかったようだ。
「んま~! 何て良い子なのでしょう! さすが私のヘーゼルです!」
騒動の一端であるイーリャが、後ろめたさをおくびにも出さずヘーゼルの頭を撫でる。
「んおお……ぅふ」
容赦のない撫で方で、ヘーゼルの首がぐるんぐるんと回るほどだったが、当人は満更でもないらしく、片足をダンダンと踏み鳴らし、尻尾を振っていた。
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