038 この執事:労働時間外
†
違う日、どこかの暗がり。
どこからか飛来した赤いコウモリが、女の腕に吊り下がった。
コウモリと女は一つに交わり、コウモリが見聞きした全てを、女は知る。
コウモリの血が浸透するにつれ、女は喘いだ。
信じられないことが起きている。
コウモリのもたらした報せを否定するように首を横に振る。
熱くなる両目を手で押さえ、慟哭し、膝から崩れ落ちて、咽び泣いた。
そんな、どうして――。
嗚咽の中で形になった声は、それだけ。
咽び泣く息遣いの合間に、子守唄が紡がれた。
正気を保つため、縋るように口にするメロディは悲し気で、エリーとアルフレッドの口ずさむものと、同じだった。
†
夜道でエリーは子守唄を口ずさむ。
夜も更けた。
ある狗人たちはエリーの武勇に中てられて熱っぽく語り合ったり、ある狗人と村人は酒と肴に溺れたり。
三々五々、思い思いに過ごしている。
宴の余韻に浸る者たちの潮騒を名残り惜しみつつ、エリーたちは宴を退席することにした。
ありがたいことに、バルケティルは帰宅まで首飾りを貸してくれた。
屋敷に到着後、送迎役の狗人に返す運びとなった。
エリーは馬上から、松明の照らす外に目を向けて、火照りを夜風に洗わせていた。
自分のこれまでを語るのは、中々昂るものを感じた。
語り部業はしばらく暖簾を下ろしておきたい。
(考えたいこともできたし……)
エリーはある違和感に行き当たっていた。
(私たちって、どうして逃げていたのかしら)
逃亡の動機や原因はエリーの記憶の手がかりだ。
当然、その疑問はずっと頭の片隅にあった。
しかし、今まで漠然としていた疑問と、初めて焦点が合った。
これまでの経緯をエリーなりに整頓している内に、逃亡の謎が具体的な疑問として像を結んでいく。
今のエリーは、条件付きとはいえ、護律協会や修律院の後ろ盾を得ている。
支援の輪はラムシング村やスプリグリ族の人々へと広がり、心強い味方が大勢できた。
アルフレッドを宿していても、これだけのことができたのだ。
それならば、記憶を失う前の吸血鬼を飼っていないエリーだったならどうだろう。
追われる理由を知るエリーであったなら、もっと簡単に助けを得られたのは疑いようもない。
それなのにアルデンスは、どうして誰も頼ろうとしなかったのだろう。
これではまるで――。
「悲し気なメロディですね」
ウマを引くキャスパーから、何の気なしに声をかけられた。
「記憶に残ってて……つい口ずさんでしまうんです。あの、キャスパーさん」
「何か」
「ずっと言いそびれていましたけれど、昼間はありがとうございました。初対面の振りをしてくれて。私を気遣ってくださったんだって、イーリャさんが教えてくれました」
「私めにお気を許されてよろしいのですか?」
「何でですか」
「私めの内通者疑惑はまだ晴れていないと思いまして」
「親切のお礼を言わない理由にはなりませんよ」
顔半分だけ振り向くキャスパーは、慇懃な笑顔だった。
「いやはや、敵いませんね。お礼だなんて、とんでもないことでございます。……やれやれ、全く、イーリャお嬢様は誠に実直でいらっしゃる」
遠回しに無粋だと非難している口ぶりだ。
「キャスパーさんにお尋ねしたいことがあるんですけれど」
「これはこれは、貸し借りをご精算なさった途端に尋問ですか」
この人結構ぐいぐい核心に触れてくるわね。
「ご気分を害してしまったなら謝ります」
「とんでもございません。私めの言葉が悪うございました。誓って、そのご熱心さに感心申し上げただけですよ。どうぞ、何なりとお答えしましょう」
「どうして私たちをお屋敷に招き入れたんですか? 特に昨日の夜はご多忙で、屋敷の隅々に目を光らせるなんてできなかったはずです。キャスパーさんのことは少ししか知りませんけれど、それでも一流の執事だってことが伝わるくらい仕草が完成されています。だからこそ、素性の知れない私たちに気を許した迂闊さは、あなたらしくない。そこが不思議でならないんです」
顔半分だけ振り向くキャスパーは、無表情で薄目を開けていた。
「まずは、お褒めに与かり恐悦至極。エリー様は素晴らしい観察眼をお持ちのようで」
列の前後をキャスパーが確認する。
狗人の引くケナガウマに揺られて、ミキは眠り、イーリャは呆然自失している。
手綱とトレイをエリーに預け、懐中時計を開く。
「労働時間外ですね……。失礼ですが、楽にしてもよろしいですか? 普段は時間など気にかけないのですが、今日はどうにも早く上がりたい気分で」
時計を懐に仕舞う。蝶ネクタイを緩めて胸襟を開く。
手綱をエリーから受け取り、再びウマを引く。
(この人しれっと私にトレイを押しつけたんだけれど)
「マイケル・スコットという名を聞いて、何か思い出さないか?」
やや砕けた口調だった。
エリーは戸惑いながら「どなたですか?」と思ったままを答える。
懐かしさを滲ませて、キャスパーは背中で答えた。
「マイケル・スコットは霊髄壁穿孔大隊の元隊員で、僕の元同僚……。そして、パティソン男爵公子を救った働きを認められ、男爵から特別に領地を分け与えられた準男爵でもある」
語るにつれて、キャスパーの懐かしさは、忌々しさに汚されていくようだった。
エリーは機嫌を伺うようにキャスパーに尋ねた。
「その人と今の話に、一体何の関係があるんですか?」
「見る目はあっても察しが悪いんだな」
憎まれ口を叩いてから、間を置くキャスパー。
人が変わったキャスパーを前にしてエリーが答えに窮していると、期待外れとばかりにキャスパーは口を割った。
「マイケル・スコットは、アルデンスの本名だ」
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