020 雪原の檻
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森が怯えているようだ。
風がないのに枝葉がざわめき、ましてや嵐でもなく幹がきしむ。ケナガウマの祖霊が茂みの向こうで駆けているのだろう。雪原に出ずに、ライトールたちに重圧を与えようというのか。
実際、人間の兄弟たちは正気を失いかけている。
今は雪下に萌えた新芽を摘んでは石で擦り、汁を身体に塗っている。単純作業に没頭することで、ぎりぎりのところで踏みとどまっている風だった。
ライトールも祖霊を軽快しつつ、石で銀の古銭を打ち、伸ばしていた。
細長く変形させて曲剣に巻けば、即席の武器になると考えた。だが、道具も素材も粗悪すぎた。老朽化した古銭は二つに割れてしまう。カッと苛立ったライトールは、石を投げ捨てようと強く握る。
仔トナカイの鼻先が手の甲に当たる。
呑気に祖霊除けの搾りかすの臭いを嗅いでいた仔トナカイだった。銀の臭いにも興味があるのだろう。
こんなときに、生まれたばかりの命が、心の拠り所として働いてくれてもいる。作業に疲れた兄弟に撫でられて嬉しそうにしていた。ライトールのやるせない怒りが鎮まっていった。
「ラライ、すまない」割れた片方を、妹に返す。「思ったようにはいかなかった。これはお前が持っていろ。守りにはなるだろう」
「だったら、残りは兄上が」
「恩に着る」
ライトールとラライの耳が動く。二人で同じ方角を向く。
一族の者に宛てた遠吠えが返ってきた。
「小僧ども、もう少しの辛抱だ。祖霊除けを作りながら聞け。もうじき救援が来る」
「本当?」弟の方が辛抱できずに立つ。
「助かった気になるな! まだあれが目を光らせている。油断せず、ここでじっと助けを待つんだ」
ライトールたちが助かるには、日没までに祖霊を討伐しなければならない。遠吠えをしてからまだ間もない。日はまだ高い。村は救助を急いでくれたのだ。
油断せず、か。ライトール自身、気の緩みを自覚する。
祖霊の挑発に翻弄されて、警戒を重ねすぎてしまった。祖霊が枝葉を揺らしているのか、ただの風の気紛れなのかも、もやは判然としない。
気疲れが酷い。
俺がこんな調子でどうする。妹や小僧どもを守れるのは、俺とヴューガしかいない。もう少しの間で良い。気をしっかり持て。
「兄上」ラライの呼びかけに「何だ」とライトールは苛立ちの捌け口扱いで応じた。
「何だか、静かじゃないかしら……?」
口をつぐむ間の一呼吸が、嫌に耳に迫るようだった。
いつの間にか、ざわめきが凪いでいた。
ヴューガが首を高くもたげ、耳を絞って一点を見ていた。高く、長く鳴いて、ライトールに警戒を促している。
視線の先、森の暗がりの奥に、例の祖霊がたたずんでいた。
雪原の周囲で枝葉を鳴らし回っていたのとは打って変わって、祖霊はじっと、ライトールたちを見据えている。
兄弟は根負けして、ラライに抱き着いた。
どういうことだ。何を企んで――。
訝るライトールの目が丸く開いた。
森の四方から祖霊の元へ、血の塊が集まっている。
今まで肉体の一部を分離し、ざわめきを起こしていたのか。雪原をライトールたちの安全地帯とせず、檻として閉じこめるために。
ライトールは曲剣で祖霊の追撃を斬り捨てた。分離した肉体の使い方を、あの一瞬で学習したというのか。
だが、何のために今やめたのか。まだ太陽は出ている。いくら足止めしたところで、襲うにはまだ時期尚早のはずだ。
教えてやろう。と言わんばかりに祖霊は動いた。
呼び集めた血の塊と融合して巨大な腕を作る。模造した筋骨を軋ませながら、両腕で何か途方もない重量の物を引くようだった。樹木の破断音。爆竹を一斉に着火するかのような騒々しさが、ライトールたちを包囲する。
青い霞を通って和らぐ木漏れ日が、祖霊を仄明るく照らす。
巨大な腕から伸びる無数のきらめきは、血の糸。
布を織ろうかというほどの膨大な本数の糸。それが森の深くに渡されている。糸を引くにつれ雪原を囲う四方がざわめきを大にしてゆく。
一本の樹が、雪原に向かって倒れ地面が揺れた。雪煙が舞う。
それを皮切りに、一本、また一本と、倒木は数を増やし、雪原を狭めていく。
「影を作って、こっちに来る気じゃ……!?」
焦ったラライがライトールに囁く。ライトールは首を横に振る。
「俺たちに届く頃には日が暮れている。悪足掻きだ」
雪原との境にある樹木が全てなぎ倒されたが、ここから更に影を伸ばすには、樹の伐採に加えて運ぶ作業、あるいは投げる作業が必要になる。今のとは比べ物にならない手間がかかるのは必至だった。
今ので詰めた距離は四半分にも満たない。余裕ならある。夜を待つまでもない。救援が今に駆けつけてくれる。
「怖がることはない。時間はある。根負けして迂闊に動くのが一番危険だ」
毅然としてライトールは全員に言い聞かせた。興奮するヴューガをライトールが、兄弟たちと仔トナカイをラライがなだめる。
祖霊はたたずんだまま。当然だ。成す術などない。馬群の蹄の音が聞こえる。
間に合った。
止めていた息を吐いた瞬間だった。
死体。祖霊は足元の茂みから死体を出した。
首を斬られた者の死体だ。あの場で、吸血鬼の犠牲になった亡骸だった。
「俺たちを釘づけにしている間に、それを拾いに戻っていたのか!」
悪趣味な。ライトールは心の中で唾棄した。
祖霊は死体を投げた。一同は身構える。だが、宙に放り出された死体は四肢を投げ出し、手近な倒木の枝葉を巻きこんで着地した。
当てる気がない……? どういうつもりだ。
訝るライトールの思考が吹き飛ばされた。
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