013 富む者は空腹のまま帰った
殺人は難しい。その理屈はエリーにもわかる。しかし、理路整然と説明されれば説明されるほど、現に命を狙われる身の上の理不尽さが浮き彫りとなる。
やるせない。
「……そんなに制約があるのに、何でまだ殺し屋なんかが生き残っているんですか」
殺人根絶が謳われているのだ。いっそ世情に埋もれて消えてしまえば良い。呪わずにはいられなかった。ベア院長が鼻息を漏らす。
「知りたかないね、人の業の深さなんざ」
ベア院長の忌々しそうな口振りが、全てを物語っていた。
一人殺せば簡単に決着がつく事柄などありふれている。たとえ殺人がどれほどの難業になろうとも、心の陰には常に血塗られた欲望が潜んでおり、潰えることはない。
ありとあらゆる状況で、殺人は暗黙の選択肢として存在する。
「目下の懸念は、屋敷にいる内通者……ですか」
行き詰った雰囲気を読み、イーリャが歯噛みする。突如、重い浮かんだ可能性に瞠目する。
「いけません! 捕虜をここに置いては……!」
扉がノックされる。「キャスパーでございます。お嬢様、火急の事態です」
嫌な予感が拭えないまま、イーリャが素早く部屋へ入れる。「手短に」
「曲者が牢を破りました」
さしもの重鎮、ベア院長さえも顔中のしわを伸ばして驚いた。
「抜かりましたか……!」イーリャが口惜しく地団駄を踏む。
捕虜の収容はキャスパーに任されていた。疑惑渦巻くエリーの目が、キャスパーにも向けられる。彼なら簡単に捕虜を逃がせたはずだ。迅速な報告も、主従というポーズを取るためにしか見えなかった。
【富む者は空腹のまま帰った】
だが、とアルフレッドはエリーの疑念を愉しむ。混乱と猜疑心を蔓延させるつもりの戯言が、いよいよ真実に迫る力を得た。嬉しい誤算に、血の流れが喜色さざめく。
【富む者が面目を潰されて、黙ったままな訳ねえだろうが】
「現在、臨時雇いの方々には、水面下で屋敷内の見回りを命じております」キャスパーだけが冷静だ。「また、僭越ながらライトール様に曲者の追跡を依頼しました。此度の越権、如何様にでもご処分ください」
遊牧民は一時的にラムシング村に滞在している異分子だ。異なる集団の者との交渉は、村の代表を担うコシノフ家の者の領分だ。
一瞬、イーリャが安堵の情を浮かべた。
「いえ、よくやってくれました。キャスパー」
威厳を取り繕うイーリャ。報告が事実なら、面子よりも初動の如何が肝心だ。キャスパーの判断は、限りなく彼女の意に沿うものだった。
「しかし、これで内通者の手引きに、疑いようがなくなりましたね……」
仮の主人は気苦労を顔から拭って、椅子に背を預けた。一息だけつき、席を立つ。
「バーンズご夫妻、調査にご協力ありがとうございます。そして、お詫びを言わせてください。奥様のお産を目前にして、本来みなさんの拠り所である屋敷に不穏を招いてしまったのは、私の不徳の致すところです。申し訳ございません」
エリーも慌てて席を立ち、勢いこんで頭を下げた。
「私がみなさんを巻きこんでしまったせいです。ごめんなさい」
みんな、内通者と疑わしいだけ。エリーは胸の中で言い聞かせた。まだ誰が悪人か、決まったわけじゃない。
「や、やめてくれ!」ロバートが立って椅子を倒しかけた。「エレクトラさんがやった訳じゃないだろう! それにお嬢様に頭を下げさせちゃとあっちゃ、お館様に大目玉を食らってしまう!」
「下がらぬ頭は無価値です」
「いや、時と場合と相手を選んでくれって話で……」
「であれば時を改めて。緊急事態につき、これにて失礼いたします。エリー様、それと院長先生は、今しばらくお付き合いくださいませ」
今は心労が心配です。イーリャがさりげなくエリーに耳打ちする。ヘーゼルの体調は伏せます。エリーは目礼した。
イーリャたちと部屋を出る。去り際、エリーはバーンズ夫妻に向き直る。
「心配事を増やして、こんなこと言って良いのかわからないけれど……無事に生まれるように祈っています」
「大丈夫さ」スペイはロバートの太い首に両腕を巻きつかせる。「あたしにゃ、この人がついてる」
大の男が嬉し恥ずかしで赤面する。
羨ましいくらい好い夫婦。お見舞いの言葉をかけたエリーが逆に元気をもらえるなんて。
できれば、この人たちを信じたいな。
「……またお見舞いに来ます。そのときは、ヘーゼルのお話を聞かせてくれませんか?」
夫婦は約束に気安く応じてくれた。
部屋を辞して、イーリャ、キャスパー、ベア院長を含めた四人が場所を移す。
「ヘーゼルの部屋へ」
イーリャに従い、キャスパーがベア院長の手を取って、急がず案内する。
「脱走した曲者が、内通者にどこまで話したかわかりません。ヘーゼルは彼らの恨みを買うだけのことをしている上に今は無防備です。見張りも兼ねて看病に参りましょう」
ヘーゼルを一番に考えるイーリャも、エリーは信じたい。何より、厳しくもエリーを対等に扱ってくれた人は、イーリャが初めてなのだ。
(うーん……私、いくらなんでも芯がなさすぎ。自分が情けない)
周りの一挙手一投足、一言一句全部にいちいち怯えて、人を疑ったり信用したり……もううんざり。記憶と一緒に人を見る目も忘れたんじゃないかしら。殺される心配以前に、このままじゃ心が持たない。
動かぬ証拠があるはずだ。それまで、深く考えるのはやめておこう。軽弾みな言動を慎めば、内通者への牽制にもなると、ここは一旦割り切ってしまえ。
エリーは二階から吹き抜けの下に目を光らせた。
忙しなく行き交う人々の前で、したたかに立ち回れと、己に命じる。
「見舞いに行く前にだね」
ベア院長が足を止めて、懐から一握りにも満たない袋をエリーに渡す。
「中身を見んじゃないよ」
「何ですか、これ」揉んでみると、種が詰まった手応えだ。
「それにションベンぶっかけな」
エリーは凍った。「しょん……?」
「ソーマの小娘の言付けだよ。さっさと済ましちまいな」
あ、ああー。そう言えばミキさん、何でか、おしっこにすごく拘ってたっけ。今朝の騒動で台無しになっちゃったけど。
いや、何で協会ぐるみで私のおしっこ欲しがってんのよ!
「とっとと出しに行きなバカたれ!」
まごついていると年季の入った雷を落とされた。老練な迫力にエリーは背筋をビンと伸ばし、しゃっきり返事をして、イーリャを連れて手洗いに急いだ。
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【嬉しみの舞い】
リメイク前のブクマ数超えた。サンキューです。




