008 手当て
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「あの、良いですか?」エリーはおずおずと挙手した。「陣痛が来た、って。スペイさん、そのお腹……」
ベッドにいるスペイの腹は、まだ丸い。どう見ても生む前の腹にしか見えない。
バーンズ夫妻はお互いを見て、スペイが困ったように答えてみせた。
「陣痛って、よーいドンの合図とは限らないのよ」
スペイの陣痛は前駆陣痛という。いくら痛かろうが出産の合図かどうかは、まだ誰にもわからない段階だった。
最初に痛みを覚えてから、本陣痛――本番の陣痛が来るまでは、個人差がある。最初の陣痛が本陣痛の場合もあれば、二回目の前駆陣痛が来るまでに一週間もの間を置く場合もある。
陣痛とは、痛みの程度や破水の有無など、様々な形で表れる前触れを総合して判断しなければならないのだ。
中でも最も一般的な指標とされているのが、痛みを感じる間隔である。
本陣痛の痛みは、一時間の内に十分から五分間隔で繰り返すものとされている。
「日の出前に二回目がやっと来たとこ。周りと比べてものんびりした子だよ、全く」腹を愛おしそうにさするスペイ。「こんな気の長いことだなんて思わなかったわ」
心底くたびれた風に、スペイが愚痴る。エリーにとっても他人事ではない。「大変なんだ」口にすれば当たり前のことが、重く感じた。
「これだって、エレクトラさんが教えてくれたんだよ」
「私が……?」
「そう。教わった相手にご高説垂れるのも、何だかおこがましいけどさ。ロバート、話してやって」
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そうだな。その点にも触れるから聞いてくれ。
情けない話だが、産気づいたスペイの苦しみようを目の当たりにした途端、俺は頭が真っ白になってしまった。前駆陣痛とか本陣痛とかの違いを知る前のことだったから余計にな。
スペイを助けたいのに、何をすれば良いか……講習で習ったこと全部飛んじまって。出産経験豊富な人らはどっかに行っちまったし、食堂に残ってたのは新米妊婦さんだけ。助産に詳しい連中は、他のお産に立ち合う真っ最中だ。
どうすりゃ良い。テーブルに突っ伏して呻くスペイの周りでおろおろするだけで、ひょっとしたらこのまま死んじまうんじゃないかと――。
(スペイがロバートに肘鉄を食らわせた)
悪かったよ! 演義でもないこと言って!
それで、もうダメだと途方に暮れたときだった。
「何回目の陣痛ですか」
それまでほとんど置物のようだったエレクトラさんが、一番早くスペイに寄り添ってくれたんだ。
質問の意味が呑みこめなかったが「答えて!」と怒鳴られて。やっと、初めてだと伝えられた。
アルデンスさんに背中を叩かれて、踵が浮いちまった。
「ひとまずお湯は後で結構です。とにかく奥様を楽な姿勢に。暖炉の近くにクッションや毛布を集めて。床に敷いて、横になってもらいましょう」
言われるがまま、食堂で一緒だった人たちにも頼んで、毛布だろうがクマの敷物だろうが掻き集めに走った。
思い出しても惚れ惚れする手際だったな……。「吸い口」なんて物、初めて聞いたよ。横になったままでもスペイに水を飲ませられる道具なんだってな。熱心に特徴を話してくれたが、屋敷にある似た物はティーポットだけでな、二人とも渋い顔してた。
二人にスペイを任せて、見守るばかりの立場で言えることじゃないんだが……正直、やきもきした。
スペイを床に寝かせて、楽な姿勢を作る手伝いをするだけ。姿勢を固めるのにクッションを使ってはいるが、そんなことでスペイが助かるなんて信じられなくてな。
「ここに来て良かった」
いきなりエレクトラさんが呟いたときには、何だかむかっ腹が立ちそうだった。例の神憑りみたいな口調してて。
「これなら、少しは役に立てる。苦痛はスペイさんの問題。私たちとは無関係。けれど、私たちの旅路に意味をくれる。その果てがどうなってしまっても、ここでスペイさんを助けることは、絶対に意味がある」
意味がわからん。ただ、何だか途轍もない覚悟をこめて言うんだからな。もう何て思えば良いか、わかんなくなっちまった。
スペイは大丈夫なのか。やっと声が出たんだ。遅すぎるくらいだがな。
「スペイさんのお腹に、手を当ててみてください。スペイさん、構いませんか」
スペイは頷いた。最初の痛がり方を思えば、意識がはっきりしてきていた。
「押しちゃダメです。手の温もりだけを、お腹に移すように」
教えてもらった通りにしたが、こんなことで何になるのか、内心疑っていた。口調だけじゃない。本当に霊媒師かペテン師じゃないかって。
服の上からでも、お腹の張りがわかった。スペイの呼吸のリズム、苦しむ声、身をよじる度に動く筋肉、その全てが伝わった。
そしたら、動いたんだ。赤ちゃんが。
不思議なんだよ。臨月だと動ける隙間がほとんどなくなって、大人しくなるって話なのに。ああ、これもエレクトラさんに教えてもらったっけな。
呆けていると、エレクトラさんが言った。
「不思議な話だけれど、“手当て”って言うじゃないですか。手には何の薬効もないけれど、本当に手を当ててもらうだけでも、結構違う気がしてくるんです。ね、スペイさん」
“手当て”をする俺の手に、スペイの冷たい手が重なった。「スペイお前」手の甲に伝わるのは、激痛に強張る硬さではない。緩く汗ばんで、手当てを返す手の平だった。
疲れ果てた微笑みだったが、スペイの息遣いは落ち着きを取り戻していった。
「ありがとう。だいぶ、落ち着いてきた……エレクトラさんも、あなたも」
笑えるだろ。俺は、最後かよって。
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