002 村とその不確かな記憶 2/4:雲降ロシと呼び唄
うずくまったエリーに、イーリャが手を貸してくれた。
しかし、膝に力が入らない。自力で真っ直ぐ立つのもままならなかった。
進んでイーリャが肩を差し出して、エリーを支えてくれた。
「具合が悪いのですか?」
「……わからない。何だか、さっきから変」
エリーは頭を押さえ、ふらつく身体をイーリャに預ける。
「うわあ! すまねえ、エリー! 鼻詰まってねえか!? 熱はねえか!?」
ヘーゼルが取り乱す。風邪を移したかもしれないと、ミキから注意を受けたばかりだった。
右往左往されると、担がれた捕虜にはたまったものではない。「危ねえ」とぶらぶら揺れて文句を垂れている。
ヘーゼルの鼻詰まり。エリーの体調不良。イーリャはミキのたわ言を連想する。
――この子ヘーゼルとチュー以上のことしたよ。
エリーの目と鼻の先で、嫉妬に満ちた歯ぎしりが鳴る。
(き、気まずいよ、ミキさん……!)
今のエリーには良い気つけ薬だった。
イーリャの不機嫌は、目の錯覚かと思えるほど一瞬で鳴りを潜めた。
心を鎮めたイーリャがエリーの額に手を当て、体温を比べてくれた。
「……熱はないようですが、少し休みますか?」
「……い、いえ、もう平気です。ごめんなさい」
「こういうときは、ありがとうと言いなさい」
イーリャの剣幕が迫る。
弱視のせいで目つきがきつい。そうだとわかっていても、距離が近いと目力に気圧されてしまう。
こんな鬼教官の顔つきなのに、すこぶるお淑やかな声がする落差が物凄い。
「返事は?」
「は、はい。ありがとう、ございます」
「よろしい。しかし、高山病でしょうか……そこまで標高は高くないはずですが。ひとまず話は後で。村へ急ぎましょう。倒れるくらいなら村の近くでお願いします」
そんなドライな理由で、一行は谷越えを急いだ。
エリーの立ち眩みはすぐに治まって、自力で歩けるようになった。
先頭のヘーゼルが足場の様子を声に出しながら、エリーたちは崖の抜け道へと向かう。
なだらかな坂を上りきると靄を抜け、切り立った崖下に雲海を一望する。
谷底を区切る城壁の内側は白い闇に満ち、古びた鐘楼など高い塔のみが雲の海に点々と浮かんでいる。
その光景は、さながら雲に浮かぶ島嶼部のようだった。
そこへ、空から渦雲が垂れて、雲の柱になっている。
「何あれ……」
エリーは目を奪われた。雲の柱は谷底に注がれて、雲海は刻一刻と潮が満ちていく。
雲海だけでも幻想的で美しい。しかし、あの雲の柱は異様だ。
「“雲降ロシ”です」
エリーと比べて無関心なイーリャによると、露術の一種だそうだ。
「“雲降ロシ”と“雲送リ”。この国の存続には、この二つの大露術が欠かせません」
日中は地表を温めるため“雲降ロシ”で晴れさせる。
夜間は放射冷却を防ぐために“雲送リ”で曇り空にする。あるいは、必要に応じて雨や雪を降らせる。
喩えるなら、大地を暖炉で温めてから毛布をかけ、温もりを長持ちさせるようなもの。
それを国家規模で行っているらしい。
「へえ……すっごおい……」
途方もない話だ。露術でそんなこともできるなんて。
周りの景色が急に神秘を増して見えてくる。
谷風の静か。岩肌を伝う露と清水。イーリャたちを避けて水が流れて、露術で常に行く手は乾いたガレ場となる。
そこに立つ三人のみが、寒風越しの朝日の下を行く。
「ここ、本当に禁域なの……」
廃墟と、自然と、奇跡が織りなす絶景。ここが殺戮の舞台となった事実さえ霞むほど、心が洗われる風景だ。
「よそ見をしていたら、足を滑らせ――」
きゃっ、とイーリャがつまずいた。全員短く絶叫し、脊髄反射でイーリャの身体を引き戻す。
蹴つまずいた瓦礫が嫌にゆっくりと落ちていき、谷底の霧に紛れて見えなくなった。
そもそも、ここは足場が悪い。なのでエリーとイーリャはヘーゼルの腰に掴まっていた。そのおかげで大事には至らず、全員ホッとしたものの生きた心地がしない。心臓がバクバク鳴っている。
青褪めたイーリャが呼吸を整えている。
「気をつけろよ。落ちたら死ぬぞ」ヘーゼルも青褪めていた。
「そ、そうですよ。私が良い例です」その点、エリーには一日の長がある。
「ちょっと黙っててもらえませんか」イーリャが吠える。
しかし、イーリャのその慌てぶりが、どうにもエリーの腑に落ちない。
「あれ……? イーリャさんって、ここを通って詰所に来られたんですよね。ヘーゼルが一緒でも足元が覚束ないのに、お一人で眼鏡もなしにどうやって――」
「エリー様!」
谷にイーリャの声がこだました。イーリャは顔を真っ赤にして、口の前に一本指を立てる。
それも束の間、今度はヘーゼルに身体を密着させる。
「あ、あの……そう! け、今朝のことでまだ武者震いが治まらないのです! もう膝が笑って笑って仕方がないのですよ!」
エリーの意見に傾きかけていたヘーゼルも「ああ、そりゃそうだよな」と納得した。
「落ちてからじゃ遅えし、もっとしっかり掴まってなよ」
イーリャが人質騒動で憔悴するのは当然なのだが、エリーに言わせれば怪しい部分もあった。
「ああ、ヘーゼル。何て優しい子なのかしら」
役得とばかりに、毛皮の埋まったスリットを狙って、イーリャが鼻先をふるふる埋める。
(絶対に何か隠しているわよね)
「大体」イーリャがヘーゼルへの頬擦りをやめず、毒づいた。
「毎日のように通っている道なんですから、目をつむっていても通れるに決まっているじゃないですか。ねえ、ヘーゼル」
「ん? ああ、そうだな」
(何か説明臭いなあ)
エリーは様子のおかしいイーリャのことを忘れて、谷越えに集中することにした。
谷間の向こうから、にわかに唄声が響く。
萎縮するエリーに構わず、ヘーゼルが先へ先へと行く。腰に掴まっているエリーも連れて。
「村で宿営してる遊牧民がトナカイを呼んでんだ。この声はラライだな」
馴鹿呼び唄という発声法らしい。
遊牧民の澄んだ声が、霧の立ちこめる廃墟を悼むかのように響く。
放牧したトナカイたちを呼び戻す唄は、悲鳴に似ながらしんと鋭利に、だが響きをたわませて、無音よりなお静謐を深めていった。
ヘーゼルが足を止めた。崖道の一部が凍っていた。
「そうそう、ここ。このおっさん見つけたの」
エリーの命を狙う殺し屋一味。逃げ遅れた一人が、今ヘーゼルが担いでいる捕虜だった。
崖道沿いには電話線が通っている。
この崖は踏んだそばからガレ場になるほど脆いのだが、電話線固定用の又釘を打つ場所は選りすぐられているようで、比較的固い岩肌が選ばれていた。
そうした固定場所の近くに、新しいペグが二つ打たれていた。
ペグにはそれぞれロープが結ばれており、禁域のある谷底に下ろされている。
(ここから降りたんだ)
ということは、エリーたちもここから落ちたのだ。
鳥人に連れ去られる寸前、エリーが露術を行使し、空中で放され、そしてアルデンスが我が身を顧みずに飛びこんだ場所。
沈鬱さで頭が重くなりそうだった。感情に飲まれる前に、エリーはギュッと目をつむり、崖道の続く方を見据える。
(ここから先が、私の過去に続いている)
「大丈夫か?」
ヘーゼルたちを待たせていた。エリーは笑顔を繕って「何でもない」と首を横に振り、先に進んだ。
けれども、少し恨めしい。
アルデンスが死んで、それなのにどうして敵の一人が生き残って、この崖を越えようとしているのだろう。
「ねえ、おじさん」
ぼそりと、エリーは呟いた。話しかけられると思ってもいなかった捕虜が「んおっ、は、え?」と間の抜けた返事をする。
「あなたたちは、どうして私たちを狙ったの」
「ううむ……」捕虜は口をつぐむ。
「言えないわよね。けれども、私、頭を打って記憶を失くしちゃったのよ。またおじさんの仲間に襲われるかもしれないのに、私が何をしたかわからないままだなんて、私、嫌」
アルデンスを失った怒りや悲しみは、不思議と鳴りを潜めていた。
ただ、理不尽な仕打ちを受けるなりに、筋の通った事情があって欲しいという願望があった。
それでも捕虜は黙っている。
「あなたたちだって、悪人が自分の罪を忘れただなんて、許せないんじゃないの? 教えてよ。私たちがどんな悪事を働いたのか」
捕虜は苦しそうに首を横に振る。
「無理だ。何も言えない」
「どうして」
「俺から情報を流せば、あんたはその情報を基に動き方を変えちまう。俺の仲間は、そこから俺が吐いたことを必ず突き止める。だから無理だ」
「何も話せないの?」
「すまんが……」
「ヘーゼル、こいつもう利用価値ないわ。捨てよう」
谷風が吹き上がる。捕虜が臆病風に吹かれる。ヘーゼルは無関心に「んぉー」と返事する。
「ま、まま、待ってくれよう、お姉さん。そう短気だと、可愛いのが勿体ないよ。ねえ?」
捕虜がへつらう。イーリャやヘーゼルに同意を求めて何をしたいのだか。
「だ、第一、俺は臨時雇いというか復職した身で、あんたが何をやったかなんて知らされていないんだ」
「口の利き方を考えた方が良いわよ。私もう、あなたのお仲間を二人、殺したんだから。もう一人くらい増えたところで……」
「ほっ、本当なんだ! これに関しちゃ本当に何も知らない!」
エリー自身逃げ出したくなるような大根演技だったけれども、捕虜が堪らず吠える。
エリーは、捕虜の訴えかける瞳を、黙って見つめた。先に捕虜が耐えきれなくなり、視線を逸らした。
「エリー様」イーリャが苦言を挟む。「捕虜の扱いは教官がお決めになります。勝手な真似は慎んでください」
「……ええ。すみません」
つい声に険が出てしまった。決してイーリャに向けた訳ではない。イーリャもわかってくれたようだった。
(あのナイフ使いも……)
エリーが具体的に何をしたのか、知らない素振りだった。
エリーを切り刻み、苛立ちを露わにして、エリーの口から悪事を語らせようとしていた。
本当はエリーの素性を何もかも知っていて、ただいたぶるためだけに知らんぷりしていただけ。という線もあるけれども。
(殺し屋は、本当に何も知らないの……? だとしたら何でこんな周到に……)
禁域に“雲降ロシ”が満ち、廃墟の尖塔が白く隠されていく。
(……黒幕がいる?)
待ち伏せされていた。
なんてことはなく、ラムシング村から派遣された交代の修律士二人と崖で鉢合わせただけだ。
「聞きました? 今の唄」「思わず聞き入ってしまって」
普通に世間話を交えつつ、普通に挨拶を交わした。
「ソーマ護律官からお話は伺っています。遭難者の保護と手荷物の捜索、ご苦労様です」
「巡る恵み、もたらす業に感謝を」
護律協会流に祈りを切る四人に遅れて、エリーも彼女たちに倣った。
とてもエリーの事情の全てを知っているとは思えない、牧歌的な二人と別れて先を行く。
村側の関所をあっさり通り抜けて、川沿いに森の道を下っていく。
凍った川の下でちょろちょろと流れているのは雪解け水だろうか。それとも禁域の湧き水か。流れる水の音を耳にし、両岸に朽ちた石垣の跡を見つける内に森を抜けた。
青空の下、ほとんど平坦な丘陵地に、石垣で区切られた銀世界。
一面の畑が広がっている。
寄り合う幕舎に煙が昇る。
ケナガウマを駆る狗人の若者たちがトナカイの群れに目を光らせている。
トナカイは各々餌を探して、雪下を掘って苔や地衣類を食み、切り株の樹皮を噛み千切ったりしていた。
点々と見える人影は木灰を撒いており、今年の農作に備えている。
木槌の高鳴りは、風車か水車か、雪解けに向けて歯車の傷みを直しているものだろう。
どことなく寂寥とした風景だけれども、人や家畜の営みがあると、見知らぬ眺めに血が通って見えた。
イーリャとヘーゼルが振り返り、エリーに道を空けた。
「改めまして、ようこそラムシング村へ」
村の境界で、イーリャがエリーを迎え入れる。
吸血鬼は招かれなければ境界を越えられない。
その風説にイーリャが従ったものだとは、エリーは知らない。
【勝手に宣伝】
クルニングは実在する発声法です。
Jonna Jintonさんという方のYouTubeチャンネルで視聴できます。とても美しく幻想的な歌声で、ファンタジックな洋画なんかで耳にしたことがある方が多いんじゃないでしょうか。
チャンネルはこちら。
https://www.youtube.com/@jonnajinton




