001 村とその不確かな記憶 1/4:崖道道中
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」
――ルカによる福音書 1章51~53節
イーリャ・コシノヴァ。
ラムシング村の代表者の娘で、模範を心がける立派な女性。
ヘーゼルに向ける私情はなかなか強烈だけれども、それでも公平さを忘れない。
ぶっつけ本番に弱い一面があるけれども、じっくり考えて、一度決めたことには最善を尽くす生真面目さを備えた人。
イーリャとは今朝会ったばかりなので、これはエリーの抱いた第一印象だ。
あの短時間でこれだけ強烈な印象が残っている。多分、実際のイーリャからそう大きくズレてはいない。
そして、これからエリーに露術を教えてくれる人でもある。
好きになれそうなところが四つ。幸運のクローバーを彷彿とさせる。
そう思うと、シニョンの髪型も薄っすらと肉厚の四つ葉に見え……。
(ないか。うん、ないわ。それはさすがに浮かれすぎ)
エリーは頭を冷やした。
それでも、この出会いが幸先の良い兆しであって欲しい。その願いは本物だ。
エリーは今、ヘーゼルとイーリャの三人で、ラムシング村へ向かう途中だった。
捕虜は荷物なので人数に数えない。
三人は、雪を残した森の小道を行く。足元が次第に岩場へ変わり、登道にさしかかって灌木がまばらな植生へと変わりゆく。
いつしか雪は失せ、朝靄の中。
イーリャが手にペンダントヘッドを挟み、前に掲げた。
「めでたし、聖マトゥリ」
その一言で立ちこめる靄は一斉に傅き、雨露となってさざめく音を一つにした。
(これがイーリャさんの露術……)
凝縮された雨露は水の薄膜となり、三人と一巻きは皆揃って頭から被り、濡れネズミとなった。
雨後の清浄な空気に満ちて、道程が朝日の下に光っている。
(器用じゃないって、こういうことかあ)
エリーは上着の水を落としつつ思っていると、濡れた上着の表面を水滴が独りでに滑っていく。ずぶ濡れだったはずの上着はすっかり乾いていた。
これも露術の力だ。おお、と拍手して感嘆するエリー。イーリャは得意げに、しかし溜め息のように息をついた。
「霧は水です。露術で操れます」
そこはかとなく投げやりで、エリーが聞きそびれてしまいそうな声量だった。
一瞬、エリーは眩暈を感じた。
(――あれ、本当にイーリャさん、何て言ってたっけ)
露術の大事なことっぽかったけれども。
イーリャから露術を学ぶ。詰所を経つ直前に、ミキからエリーに言い渡された課題だ。
余りに唐突で、エリーとイーリャは揃って困惑した。
「待ってください……吸血鬼を自力で抑える具体的な方法ってまさか」
イーリャがそう口にしたきり絶句する。ミキが親指を立てる。
「露術の特性上、エリーさんの身体が乗っ取られても使えると思うんだよね。露術って真心だから」
(何か良い風に言っているけれども)
確かに、身体を乗っ取られても自分の意思で水を操れるのなら心強い。
身体を乗っ取り返して抵抗するのに限界を感じていたエリーには、持ってこいの解決策だ。
何より露術を使うミキの迫力といったら。
あの力がエリーのものになる。そう聞かされては、わくわくせずにはいられない。
「お言葉ですが、安全性を度外視すれば、という前提が抜けていますが……」
イーリャさん今、聞き捨てならないこと言いませんでした?
「大丈夫大丈夫! エリーさん、作業記憶は結構覚えてそうだし、教えると言ってもエクササイズくらいで済みそうだから!」
「希望的観測ではありませんか……」
「そうですよ、ミキさん」
エリーもイーリャの肩を持つ。何だか浮かれたまま飛びついて良い雰囲気ではなくなっている。
「料理と露術を同じに考えられても、私、困ります。やり方が想像できるのとできないのとじゃ、大違いでしょう?」
「え、何か二人とも乗り気じゃないね。じゃあアタシが教えるしかないか……。仕方がないなあ。ここ来て久々だけれども、腕が鳴るよ」
「ミキさんが?」
エリーは疑いの眼差しを向けた。教え方が壊滅的な、あのミキさんが?
「教官と呼ばれているのは伊達ではないのだよ」とか言ってるけれども。
ミキの自称教官は疑わしかったものの、思えばイーリャは彼女を教官と呼んでいる。実は自分の言葉で教えるのが苦手なだけで、案外、教科書を持てば変わるのかもしれない。
「……だったら、まあ」
やる気満々のミキに絆されかけたエリーに驚き、何故かグ……と強いて口を噤むイーリャ。
イーリャが教官と仰ぐこの女、立派な護律官である。
護律官とは正規の教育課程を修了した協会員であり、独学か無免許者の指導を受けただけの修律士とは訳が違う。
正真正銘のエリートなのだ。
だがこの肩書エリートは何と、過去に露術のノウハウを「ビュンと伸ばしてシャッとすくってザパーッ」としか説明したことがない。
エリーだけが特別雑に扱われた訳ではない。あれがミキの教育能力の全てだった。
他にも教え方のバリエーションがあるにはあるが、擬音部分が意味不明な単語に変化するだけだ。
教員免許がないにしても、これはない。
その余りに感覚的で観念的で適当な指導に、当初ラムシング村の修律士たちはこう疑った。
こいつ、片田舎に左遷されて自棄になったのか。田舎者だって舐めてやがんのか。おお?
業を煮やした受講者たちで結託し、抗議の名の下に尻を蹴り続けたこともある。
どうせ後で酒を与えれば万事許す女である。ここぞとばかりにあることないことこじつけて、日頃の鬱憤を蹴りに託す者が続出した。
のだが、ミキが泣きべそをかくまで蹴り倒したところで、本人は至って真面目であると判明しただけだった。
残ったのはストレスを発散した受講者と、尻を壊されてめそめそと袖を濡らす護律官のみ。
ミキは大真面目にビュン、シャッ、ザパーッで伝わると信じて疑っていなかったのだ。
イーリャたち若きラムシング村修律士たちは言い知れぬ戦慄を覚えたという。
問い詰めてやっと搾り出した数少ない教えこそ「霧は水」。イーリャがエリーに教えた第一訓だ。
ミキ・ソーマ護律官は本物なのだ。教官と言うより、手本と呼んだ方が正しい。
礼儀がそう呼ぶのを許さないだけで。
「よーし、エリーさん。ハハッ。ド短期詰め込み型ミッキー・ブート・キャンプに入隊する覚悟は――」
「……承知、しました」
「え、何だいイーリャ?」
「私が教えますから引っこんでてください!」
一言に百の思いを託した返事だった。
これの教えを授かったが最期、エリーは露術アレルギーに罹って習得を諦めてしまうに違いない。
いや、むしろその程度で済めば幸運な方だろう。
運悪くビュン、シャッ、ザパーッと気が合ってしまったのなら、目も当てられない。
習得に行き詰った際に復習しようも、そのときには基礎が独自理論で固められてしまっているのだ。
概論すら理解できず迷走し、スランプから抜け出せないまま生涯を終えかねない。
この飲んだくれに任せてしまうと、考えられる限りあらゆるチャンスが潰れてしまう。
唇を噛んで今にも血を流さんばかりのイーリャは、エリーの目にも口惜しさに満ちて見えた。
裏事情まで雲吹き出しで見えてしまいそうなくらいだ。
渋々指導役を受け持った感のイーリャだったけれども、授業はもう始まっている。
道中も気を抜いていられない。
(聞き返すのは……まあ落ち着いてからで良いか。イーリャさんも歩きながらは負担だろうし。声も疲れてそうだし)
それにしても、さっきから調子が悪い。ヘーゼルの風邪が移っていなければ良いけれども。
エリーは背筋を正すとも楽にするともなく、晴れた道へ踏み出した。
「村に着くまでに、整理して欲しい事柄があります」
イーリャがエリーへ、目を合わせずに言う。
吸血鬼に身体を乗っ取られたタイミングと、乗っ取り返したきっかけを整理して欲しいとのことだった。
アルフレッドが神出鬼没では、おちおち休んでもいられない。
ならば、これまでの傾向からアルフレッドが表に出る条件、そして撃退する方法を導き出した方が何かと有意義だ。
「そうですね……」
エリーは坂に足を取られないよう気をつけつつ、思い返す。
最初にアルフレッドが出たとき、エリーは殺される寸前で、藁をも掴む心地だった。
そこから腕の支配を取り戻したときは、ヘーゼルを傷つけられた怒りで無我夢中だった。
元に戻ったのは、ミキに倒されたとき。
ミキの気迫に圧されて、その隙に乗じて乗っ取られる。
吐瀉物を食わされて元に戻る。
睡眠中に乗っ取られる。
ヘーゼルの血を飲んだと聞いたショックで目覚めると共に元に戻る。
お茶を飲んで乗っ取られる。
激高したエリーが一時的に腕の支配を取り戻す。
ミキの差配で元に戻る。
エリーの許可で身体を貸す。
アルフレッドが不貞腐れて元に戻る。
人質事件でもエリーが許可を出した。
血を飲み終えると元に戻っていた。
情報が出揃ったところでイーリャが吟味する。
「聞いた限りでは、感情の昂った方が優位になりやすく、また双方の合意でも身体の主導権を譲渡できる……といったところですね。何とも頼りないことです」
イーリャは嘆息をつくばかりだった。
「それで思い出したんですけれども……」
遠慮がちにエリーが会話を繋ぐ。
「何か」
禁域で初めてアルフレッドに身体を明け渡したときのことだ。
エリーはアルフレッドの誘惑に応えて「お願いします」と口にした。
これが呪いとなって、アルフレッドが表に出る隙になったのではないか。
取り返しのつかない一言を口走ってしまったという危惧が、エリーの中でわだかまっていた。
しかし、イーリャはその態度は軟弱だとシニカルに笑い飛ばした。
「良いですか、エリー様。この世に魔法や呪いは存在しません。存在したとしても遭遇する確率は、考慮に値しないほど低いものです。一見超常的な出来事でも、科学的・認知的なカラクリが潜んでいます」
吸血鬼がいる世界で、露術という不思議な力を使える人に言われるとは思いもしなかった。
「少なくとも、私は本物の超常と呼ぶに相応しいものは目にしたことがありません。エリー様は吸血鬼の戯言に魔術めいた契約の力を見出しているようですが、所詮は口約束と同類です。有効ではありますが、書面が無ければ反故にしたって、証明しようがありません。自分に不利なだけの口約束なんて無視が二番、頼れる人物に相談するのが一番です。狡猾な方々というのは、そういう負い目を狙うのが得意でしょう。ときには無理筋で負い目をでっち上げることさえあります。言葉の暴力、束縛は、卑怯者の常套手段なのです」
「そう言ってもらえるのは心強いんですけれども……だったら露術はどうなんですか? まるっきり魔法じゃないですか」
「あれは特殊な水生微生物への精神感応――」
眩暈を感じて、エリーが膝をついた。




