002 雲降ロシと呼び唄
地形に足を取られたのかと思い、イーリャは手を差し出した。立ち上がるエリーは、頭を押さえてふらついていた。
「具合が悪いのですか?」
「……わからない。何だか、さっきから変」
「うわあ! すまねえ、エリー! 鼻詰まってねえか!? 熱はねえか!?」
ヘーゼルが取り乱す。ミキから風邪を移したかもしれないと注意を受けたばかりだ。「危ねえ」と担がれた捕虜がぶらぶら揺れて文句を垂れた。
風邪を移したかのような素振りに、イーリャは思い出す。ミキの「この子ヘーゼルとチュー以上のことしたよ」というたわ言を。
嫉妬の歯ぎしりが、エリーの目と鼻の先で騒ぐ。
(き、気まずいよ、ミキさん……!)今のエリーには良い気つけ薬だった。
「……熱はないようですが」心を鎮めたイーリャがエリーの額に手を当て、体温を比べてくれた。「立てますか?」
「ええ、もう平気です」
「高山病でしょうか……そこまで標高は高くないはずですが。ひとまず話は後で。村へ急ぎましょう。倒れるくらいなら村の近くでお願いしますよ」
そんなドライな理由で、一行は谷越えを急いだ。
先頭のヘーゼルが足場の様子を声に出しながら、エリーたち三人は崖の抜け道へと向かう。
なだらかな坂を上りきると靄を抜け、切り立った崖下に雲海を望んだ。
天より垂れた渦雲の柱が谷底に注がれていた。谷底を区切る城壁の中は白い闇に満ち、古びた鐘楼など高い建物のみが、雲の海に点々と浮かんでいる。
谷風の静か、岩肌を伝う露と清水。イーリャたちを避けて水流るる、露術の行く手は常に乾いたガレ場。
乾きに立つ命のみが、寒風越しの朝日の下を行く。
「何あれ……」エリーは雲の柱に目を奪われた。
「“雲降ロシ”です」
イーリャによると、日中は地表を温めるため“雲降ロシ”で晴れさせて、夜間は放射冷却を防ぐために“雲送リ”で曇りか降水にしているのだという。
喩えるなら、暖炉で温まってから毛布に包まり、温もりを長持ちさせるようなもの。それを国家規模で行っているらしい。
途方もない話だ。露術はそんなこともできるのか。
「ここ、本当に禁域なの……」
廃墟と自然と奇跡が織りなす絶景。ここが殺戮の舞台となった事実さえ洗い流されそうなほど、心が洗われる風景だ。
「見惚れていたら、足を滑らせ」きゃっ、とイーリャがつまずいた。瓦礫が谷底に、嫌にゆっくりと落ちていくように見えた。
ヘーゼルの肩に掴まっていたおかげで、大事には至らなかった。
足場が悪いため、二人はヘーゼルに肩を貸してもらっている。捕虜と合わせて三人分。力自慢とはいえ悪い気がする数だった。
青褪めたイーリャが呼吸を整えている。
「気をつけろよ。落ちたら死ぬぞ」ヘーゼルも青褪めていた。
「そうですよ。私が良い例です」その点、エリーには一日の長がある。
「ちょっと黙っててもらえますか」イーリャが荒ぶる鼓動を鎮めつつ吠える。
しかし、その慌てぶりにエリーは眉根を寄せた。
「イーリャさん、ここを通って詰所に来られたんですよね。ヘーゼルが一緒でも覚束ないのに、お一人で眼鏡もなしに」
「エリー様!」
谷に名前が木魂した。イーリャは顔を真っ赤にして、口の前に一本指を立てる。それも束の間、今度はヘーゼルに身体を密着させた。
「あ、あの……そう! け、今朝のことでまだ武者震いが治まらないのです! もう膝が笑って笑って仕方がありません!」
エリーの意見に同調しかけていたヘーゼルも「ああ、そりゃそうだよな」と同情し、もっとしっかり掴まるように二人に勧めた。
イーリャが人質騒動で憔悴していることは、誰もが察してはいるのだが、えりーに言わせれば怪しい部分もあった。
「ああ、ヘーゼル。何て優しい子なのかしら」
役得とばかりに、毛皮の埋まったスリットを狙って、イーリャが鼻先をふるふる埋める。
そうまでしてくっつきたいの……。
「大体」イーリャがヘーゼルに頬擦りしながら、毒づいた。「毎日のように通っている道なんですから、目をつむっていても通れるに決まっているじゃないですか。ねえ、ヘーゼル」
「ん? ああ、そうだな」
何か説明臭いなあ。エリーは釈然としないまま、様子のおかしいイーリャのことは諦めて、谷越えに集中することにした。
谷間の向こうから、にわかに唄声が響く。萎縮するエリーの手を、ヘーゼルが引っ張る。
「村に来てる遊牧民がトナカイ呼んでんだ。この声はラライだな」
馴鹿呼び唄という発声法らしい。
遊牧民の澄んだ声が、霧の立ちこめる廃墟を悼むかのように響く。放牧したトナカイたちを呼び戻す唄は、悲鳴に似ながらしんと鋭利に、だが響きをたわませて、無音よりなお静謐を深めていった。
待ち伏せされていた。
なんてことはなく、ラムシング村から派遣された交代の修律士二人と崖で鉢合わせ、「聞きました? 今の唄」「思わず聞き入ってしまって」と世間話を交えつつ、挨拶を交わしただけである。
「ソーマ護律官からお話は伺っています。遭難者の保護と手荷物の捜索、ご苦労様です」
巡る恵み、もたらす業に感謝を。
護律協会流に祈りを切る四人に遅れて、エリーも彼女たちに倣った。とてもエリーの事情の全てを知っているとは思えない、牧歌的に朗らかな二人と別れて先を行く。
あっさりと通過した村側の関所から、川沿いに森の道を下っていく。凍った川の下でちょろちょろと、雪解け水か禁域の湧き水が流れるのを耳にし、両岸に朽ちた石垣の跡を見ている内に森を抜ける。
青空の下、ほとんど平坦な丘陵地に、石垣で区切られた銀世界。
一面の畑が広がっている。
どことなく寂寥とした風景だが、人や家畜の影があると、見知らぬ眺めも途端に血が通った営みに見えてくる。
寄せ合う幕舎に煙が昇る。ケナガウマを駆る狗人の若者たちがトナカイの群れに目を光らせている。トナカイは各々餌を探して、雪下を掘り地衣類を食み、切り株の樹皮を噛み千切ったりしていた。
点々と見える人影は木灰を撒いており、今年の農作に備えているようだった。高鳴る木槌は、風車か水車か、雪解けに向けて歯車の傷みを直しているものだろう。
イーリャとヘーゼルが振り返り、エリーに道を空けた。
「改めまして、ようこそラムシング村へ」
吸血鬼は招かれなければ境界を越えられない。その風説にイーリャが従ったものだとは、エリーは知らない。
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【勝手に宣伝】
クルニングは実在する発声法です。
Jonna Jintonさんという方のYouTubeチャンネルで視聴できます。とても美しく幻想的な歌声で、ファンタジックな洋画なんかで耳にしたことがある方が多いんじゃないでしょうか。
チャンネルはこちら。
https://www.youtube.com/@jonnajinton




