001 崖道道中
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」――ルカによる福音書 1章51~53節
イーリャ・コシノヴァ。
ラムシング村の代表者の娘で、模範を心がける立派な女性。ヘーゼルに向ける私情はなかなか強烈だけれど、それでも公平さを忘れない。ぶっつけ本番に弱い一面があるけれど、じっくり考えて決めたことには最善を尽くす生真面目さを備えた人。
そして、これからエリーに露術を教えてくれる人でもあった。
好きなところが四つ。幸運のクローバーを彷彿とさせる。浮かれすぎか。それでも幸先が良くあれと、エリーは願う。
雪を残した森の小道は次第に岩場へ変わり、登道にさしかかって灌木がまばらな植生へと変わりゆく。いつしか雪は失せ、朝靄の中。
イーリャが手にペンダントヘッドを挟み、前に掲げた。
「めでたし、聖マトゥリ」
その一言で立ちこめる靄は一斉に傅き、雨露となってさざめく音を一つにした。三人は皆揃って頭から水の薄膜を被り、濡れネズミとなった。
器用じゃないって、こういうことかあ。エリーは上着の水を落としつつ思った。
雨後の正常な空気に似た清々しさの中、道程が朝日の下となる。いつの間にか被った水まで乾いていた。
おお、と拍手して感嘆するエリーに「霧は水です。露術で操れます」と、イーリャは溜め息と共に言う。そこはかとなく投げやりで、エリーが聞きそびれてしまいそうな声量だった。
一瞬、眩暈を感じた。あれ、イーリャさん、今何て言ったっけ。
イーリャから露術を学ぶ。ミキからエリーに与えられた課題である。
余りに唐突な言いつけに、エリーは困惑し、イーリャは「具体的な方法ってまさか」と絶句した。ミキが親指を立てる。
「露術の特性上、いけると思うんだよね」
「お言葉ですが、そんなの付け焼刃にも……」
「大丈夫大丈夫! エリーさん、作業記憶は結構覚えてそうだし、教えると言ってもエクササイズくらいで済みそうだから!」
「希望的観測ではありませんか……」
「そうですよ、ミキさん」エリーもイーリャの肩を持った。「料理と露術を同じに考えられても、私、困ります。やり方が想像できるのとできないのとじゃ、大違いでしょう?」
「え、何か二人とも乗り気じゃないね。じゃあアタシが教えるしかないか……。仕方がないなあ。ここ来て久々だけれども、腕が鳴るよ」
「ミキさんが?」エリーは疑いの眼差しを向けた。
「教官と呼ばれているのは伊達ではないのだよ」
「……だったら、まあ」
やる気満々のミキに絆されかけたエリーに驚き、何故かグ……と強いて口を噤むイーリャ。
彼女が教官と仰ぐこの女、立派な護律官である。
護律官とは正規の教育課程を修了した協会員であり、独学か無免許者の指導を受けただけの修律士とは訳が違う。正真正銘のエリートなのだ。
だがこの肩書エリートは何と、過去に露術のノウハウを「ビュンと伸ばしてシャッとすくってザパーッ」としか説明したことがない。バリエーションもあるにはあるが、擬音部分が意味不明な単語に変化するだけだ。
教員免許がないにしても、これはない。
片田舎に左遷されて自棄になったのかと疑った。受講者で徒党を組んで抗議の名の下に尻を蹴り続けたこともある。どうせ後で酒を与えれば万事許す女である。ここぞとばかりにあることないことこじつけて、日頃の鬱憤を蹴りに託す者が続出した。
教育に工夫が見られなければ、真の教育的精神をこめてスパァンと蹴る。愛の鞭とは名ばかりである。
のだが、泣きべそをかくまで蹴ったところで、本人は至って真面目であると判明しただけだった。
本気でビュン、シャッ、ザパーッに教育の力があると信じている年長者に、イーリャたち若きラムシング村修律士たちは言い知れぬ戦慄を覚えたという。
問い詰めてやっと搾り出した数少ない教えこそ「霧は水」であった。
彼女は本物なのだ。
教官と言うより、手本と呼んだ方が正しい。礼儀がそう呼ぶのを許さないだけで。
「よーし、エリーさん。ハハッ。ド短期詰め込み型ミッキー・ブート・キャンプに入隊する覚悟は――」
「……承知、しました」
「え、何だいイーリャ?」
「私が教えますから引っこんでてください!」
これの教えを授かったが最期、露術アレルギーに罹って習得を諦めれば幸いだが、運悪く気が合ってしまうと最悪だ。習得に行き詰った際に復習しようとも基礎が独自理論で固められてしまっているのだ。概論すら理解できず迷走し、スランプから抜け出せないまま生涯を終えかねない。
一に百を隠した重々しい返事。唇を噛んで今にも血を流さんばかりのイーリャは、エリーの目にも口惜しさに満ちて見えた。裏事情まで雲吹き出しで見えてしまいそうなくらいだ。
渋々受け持った感のイーリャだったが、授業はもう始まっている。
道中も気を抜いていられない。今みたいに聞き逃してしまっては勿体ない。
聞き返すのは、まあ落ち着いてからで良いか。イーリャさんも歩きながらは負担だろうし、だから声も小さくなってしまったのだろう。
それにしても、さっきから調子が悪い。本当にヘーゼルから風邪をもらったのかもしれない。
エリーは背筋を正すとも楽にするともなく、晴れた道へ踏み出した。
「村に着くまでに、整理して欲しい事柄があります」イーリャがエリーへ、目を合わせずに言う。
吸血鬼に身体を乗っ取られたタイミングと、乗っ取り返したきっかけを整理して欲しいとのことだった。
神出鬼没では、おちおち休んでもいられない。ならば、これまでの傾向から条件になり得る要素を導き出したいそうだ。
エリーは坂に足を取られないよう気をつけつつ、思い返す。
最初にアルフレッドが出たとき、エリーは殺される寸前で、藁をも掴む心地だった。そこから腕の支配を取り戻したときは、ヘーゼルを傷つけられた怒りで無我夢中だった。元に戻ったのは、ミキに倒されたとき。
ミキの気迫に圧されて、その隙に乗じて乗っ取られる。吐瀉物を食わされて元に戻る。
睡眠中に乗っ取られる。ヘーゼルの血を飲んだと聞いたショックで目覚めると共に元に戻る。
お茶を飲んで乗っ取られる。激高したエリーが一時的に腕の支配を取り戻す。ミキの差配で元に戻る。
エリーの許可で身体を貸す。アルフレッドが不貞腐れて元に戻る。
人質事件でもエリーが許可した。血を飲み終えると元に戻っていた。
「聞いた限りでは、感情の昂った方が優位になりやすく、また双方の合意でも身体の主導権を譲渡できる……といったところですね」何とも頼りないことです。イーリャは嘆息をつくばかりだった。
「それで思い出したんですけれども……」遠慮がちにエリーが繋ぐ。
「何か」
禁域で初めてアルフレッドに身体を明け渡したとき、エリーはアルフレッドの誘惑に応えて「お願いします」と口にした。これが呪いとなって、アルフレッドが表に出る隙になったのではないか。取り返しのつかない一言を口走ってしまったという危惧が、エリーの中でわだかまっていた。
しかし、イーリャはその態度は軟弱と言わんばかりに鼻息を飛ばす。
「良いですか、エリー様。この世に魔法や呪いは存在しません。存在したとしても遭遇する確率は、考慮に値しないほど低いものです。一見超常的な出来事でも、科学的・認知的なカラクリが潜んでいます」
吸血鬼がいる世界で、露術を使える人に言われるとは思いもしなかった。
「少なくとも、私は本物の超常と呼ぶに相応しいものは目にしたことがありません。エリー様は吸血鬼の戯言に魔術めいた契約の力を見出しているようですが、所詮は口約束と同類です。有効ではありますが、書面が無ければ反故にしたって、証明しようがありません。自分に不利なだけの口約束なんて無視が二番、頼れる人物に相談するのが一番です。狡猾な方々というのは、そういう負い目を狙うのが得意でしょう。ときには無理筋で負い目をでっち上げることさえあります。言葉の暴力、束縛は、卑怯者の常套手段なのです」
「だったら露術はどうなんですか? まるっきり魔法じゃないですか」
「あれは特殊な水生微生物への精神感応――」
眩暈を感じて、エリーが膝をついた。
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