017 奇跡の代償 2/5:χαῖρε, κεχαριτωμένη(ハイレ、ケカリトメーネー)
フクロウの鳥人の羽根が延々と舞い散っていた。
谷底に降り立ったミキが、弟子を踏みつける女と対峙する。目が赤い。
(充血なんてもんじゃないね。侵入者の言う吸血鬼、どう見てもあれだね)
知らない顔で幸いだった。もしもラムシング村の住民が相手だったなら、あまり気分の良い事案ではなくなっていた。
しかしあの推定吸血鬼、平気で水に浸かっている。妙だ。吸血鬼は全身が血液でできている。浸透圧差で血液組織が溶血を起こして、肉体の崩壊を招くはずなのに。
(まあ、だからどうってことでもないか)
あくまで気安い調子で、探りを入れてみることにした。
「夜分遅くに女の子が独り歩きかい。感心しないね」
「助けてください! お化けに襲われています!」
思わず抱きしめたくなる名演技だったけれども、可愛い子ぶりたいならせめて、弟子を踏みにじる足をどけてからにして欲しい。
「目ぇ真っ赤っかなのによく言えるね。これ全部、君がやったんでしょ」
ランプを掲げて、ミキは惨状を眺め回した。
羽根の浮かぶまにまに、頭の潰れた死体、上下に両断された死体、鳥人の死体が散らかっている。
「第一、普通の女の子なら、もっと支離滅裂でなりふり構わなくなるよ。こんな現場だと」
憐れを誘う被害者面が、瞬く間に吸血鬼らしく冷めた顔つきになった。
「ダメ出しどうも。参考になりました。それにしても、独り歩きはお互い様じゃないかしら、拝露教徒のご婦人さん」
「あっは。懐かしい。歴史の授業以来かな、その呼び方。良く勉強しているね。それとも護律協会と名を改めたことを知らないのかな。今は護律官って呼ぶんだよ」
「あら、ごめんあそばせ。勉強になりましたわ。ご覧の通り、辺鄙なところに住んでおりますと、古風なものばかりが現役でして」
推定吸血鬼は廃墟の街を示して、舞台女優のように振舞った。
「へえ。ところで、どこ住み? どこから来たのかな?」
「口説き文句に捻りがないですね。おととい出直していらっしゃい」
いたずらな目をして、女は下目蓋を引っ張り、舌を出した。あっかんべえ。儚げな外見と裏腹に、皮肉や挑発が板についている。
見た目と言動の印象が食い違う場合は、吸血鬼の擬態を疑う。護律官なら誰でも、この違和感を見逃さないよう、訓練で叩きこまれる。
ミキを拝露教徒と呼ぶ点もそうした違和感の一つだ。
吸血鬼の古老にありがちな知識の硬直。時代に合わせ損ねている。あるいは、老獪を装って、本来の実力よりも強大だと誤認させるのが狙いか。
(いずれにしても、言い逃れは諦めているね)
水場に死体が残っているのは、吸血鬼化させていない証拠。
吸血鬼化して間もない個体や重篤な飢餓状態にあれば、吸血衝動に忠実で無暗に繁殖する傾向がある。
繁殖に我慢が利くのは手練れの証だ。
「で、その子のことだけれど。そろそろ足をどけておくれよ。確かに敷物に映えそうな毛並みだけれども、可愛い弟子なんだよね」
「お断りです」
「どうして?」
「そうしたらテメエ、迷わずオレを殺すだろうが」
「やれやれ。綺麗な声が勿体ないよ、言葉遣いがド汚いと」
指を鳴らす。ミキはヘーゼルごと吸血鬼を瞬時に激流の渦に閉じこめた。
「人質がいる限り手出しできない。って君の勝手な期待だよね、吸血鬼ちゃん。生憎今のでスパルタ指導な気分になっちゃったよ。ああ、聞こえないよね。メンゴメンゴ」
それにしても、呆気なく捕まえちゃったな。余裕でかわされるかと思ったのに。
「ま、良いか」
別にこのくらい、ヘーゼルならどうってことないし。
(……そう思うと腹が立ってきたな)
バカ弟子め、酒の恨みの恐ろしさを、骨身にまで思い知らせてあげよう。
半球状に隆起した激流に私怨をこめる。水流に巻きこまれた羽根が半球の頂点で噴出し、羽根の雨が勢いを取り戻す。
水中に影が二つ。水の透明度は変わらない。これでも溶血しないとはどういうことだ。
「おっと?」
ミキの注意を乱すように、鳥人と上下両断死体が起き上がり、覚束ない動きでミキに近寄ってくる。
「ありゃりゃ、結構頑張るね」
血を注入し、遠隔で操る。吸血鬼の権能の一つである。
だが、あくびが出るほど鈍い。血の注入量が少なすぎるのだろう。
ミキが指を鳴らす。あえなく生ける屍たちは足元から凍り、氷の彫像と化す。
「さーて、そろそろヘーゼルを助けてあげないと。だけど……うーん」
わっかんなくなっちった。てへ。
ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、ねの、ねの、ね……。
】†
いつの間にか、エリーは白波立つ渦の中にいた。
激流に身体がさらわれて、どちらが水面で、どちらが水底かもわからない。
目の前を大きな影がよぎる。ヘーゼルが力なく、流されるまま渦に揉まれている。
(助け、なきゃ……)
朦朧としながらエリーの腕は自然と、投げ出されたヘーゼルの手に伸びていた。鋭い爪に指先をかすめる。肩から腕を伸ばし、今度こそ手を握る。
遠心力で引き剥がされそうになっても、肩が外れそうになっても放さない。
エリーは自分よりも遥かに大きなヘーゼルを抱き寄せた。
その姿は偶然にも、身を盾にして崖の転落から守ってくれたアルデンスに似ていた。
(息が……)
次第に暗くなる視界の隅に、ちらりと明るいものがよぎった。ミキの持つランプの光だ。
その部分だけ渦が薄くなっているとでもいうのか、明るい部分は凪いだように透明で、廃墟の景色が揺らめいていた。
エリーは、そこに目がけてヘーゼルを投げると同時に大きな気泡を吐き、目の前が真っ暗になった。
渦の底に沈む。
†
「どうしよ。マジでどっちがどっちだかこんがらがってきた……ええと……面倒! どっちか出ろ!」
巻き舌でドラムロール。ミキは影に指を向け、これだという方を選ぶ。
激流は選ばれた方を魚の骨のように吐き出した。ヘーゼルだ。
「よっしゃあアタシ持ってるぅ!」
ガッツポーズもそこそこに、ミキは自分よりも体躯のあるヘーゼルを抱き留めた。
「おお? よい、しょ……」横に抱き直す。「まーた大きくなったね、君ってば」
微かにヘーゼルが身をよじる。息はある。
「わか……いん……」
意識も戻った。オオカミの毛皮が皮膚の中に畳まれて、元のトラ縞模様が浮かぶ。
では、遠慮は無用。
ミキはまずヘーゼルのショルダーバッグを漁った。中から目当ての酒瓶を探り当てるやヘーゼルを突き飛ばすように捨て、ミキは今日一番の歓声を上げた。
背後で激流の渦が瞬間凍結し、大輪の氷花が咲く。廃墟を包む霧は霧氷と化し、氷の花吹雪となる。
「ああ、怖かったろう。もう放さない」
琥珀色が揺らめく瓶のラベルへ、ミキはヴェール越しに熱烈な接吻を贈る。
その脇で浅瀬で溺れかけるヘーゼル。偶然近くに浮かんでいたミキの楯に乗り、ぜえぜえと息を荒げた。
「ざけんなよ……この……酒、カス……」
「こらこら。師匠をカス呼ばわりとは何様なのさ……おや?」
ヘーゼルはガックリと気絶していた。ミキは肩をすくめる。
「体力が取り柄なのに、体力の限界になってどうするのさ」
ミキは水を蹴り、ヘーゼルの顔にぶっかけた。たまらずヘーゼルはむせ返り、一度は飛び起きたものの、またグッタリと卒倒してしまう。
これしきで師匠の有難い言葉を聞き逃すとは情けない。ヘーゼルには後々罰を課そう。
長時間冷所にあったせいか、ミキの酒には澱が沈んでいた。
(まあ、ヘーゼルが無事なら良いんだけどさ)
ミキはヘーゼルを雑に扱ってはいるものの、ミキなりに目上としての責任感くらいはあるつもりだ。
「さて」
瓶をベルトのホルダーに収納し、代わりに短剣を抜く。
銀が主となる合金製の一振りで、教会時代から儀礼的に用いられてきた代物だ。人同士の争いや、日々の生活で用いるには頼りない造りである。
だが、含有する銀は、吸血鬼を殊に屠る力を秘めている。
フクロウの濡れ羽が降る中を、ミキは短剣を手に氷の大輪へ歩み寄る。水は彼女に道を空けて、潮のように引いていく。
「わか……待っ……」
楯から降りて這いつくばってでも追おうとするヘーゼル。水はミキの通った後に押し寄せて、容赦なくヘーゼルを呑みこんだ。
氷の花の中心に、磔となった若い女が項垂れていた。
ミキは短剣の樋をその柔頬に当て、顔を上げさせる。
その女は、意識を失う直前で踏み止まったように、細く目を開いている。
(おかしい。目が白い)
銀に触れても火傷を負わないのは、この際置いておく。水が平気なら銀が平気なくらいでいちいち驚いていられない。
赤かった目が白く戻っているのは何故だろう。
「さっきの死体と同じで、操られていただけかな? なら、本体は近くに……」
磔の女から目を離した瞬間、その口から鋭い血の舌が伸びる。
不意打ち、回避が間に合わない。ミキの頭があった空間を、穿孔する。ミキは不意に膝から仰け反っていた。
ヘーゼルのタックルを膝裏に受けて、辛うじて攻撃を回避できたのだ。
水面から水の触手が伸び、血の舌を囲む。
「あー、びっくりした。全く油断も隙もないね」
水に仰向けで浮かび、ミキは死に直面した直後にもかかわらず、種の割れた手品に御愛想を向けるようにカラカラと笑った。
ヘーゼルはミキの下敷きになっていた。立派な尻がミキの項の辺りにある。
「大儀である」なんて大仰な称賛と共にぱんぱん叩いた。
ミキが立つと、水滴は自ずと滴り落ちて、祭服はすっかり乾ききった。
「さ、次の演目は何かな? 吸血鬼ちゃん。ネタ切れならリクエストは受けつけてくれるかい? 自害とか」
ミキの挑発に応えるように、血の舌に裂け目が生じ、簡易な顔が浮かんだ。
顔が噛みつかんばかりに怒鳴る。
【吸血鬼って呼ぶんじゃねえ、食用種。オレたちは胤族だ】
「わーお、好い男の声だ」
九死に一生を得たときよりも驚いてみせるミキ。
「ところで、アタシたちを食用種と呼ぶのとどこが違うのかな? 吸血鬼くん」
†
エリーが意識を取り戻す。
氷で身動きが取れないことにも、見覚えのない仮面の人物と対峙していることにも仰天したけれども、自分の口から異物が伸びていることが何よりも異様だった。
口が塞がっているせいで、むーむーと唸るしかできない。こんな得体のしれない物を噛み千切る勇気もない。
首をぶんぶん振っても、血の舌は鳥類が視点を固定するかのように動じない。
身体と血が、ちぐはぐに動いている。ミキが困ったように二人の様子を見ていた。
「ええと、一人二役? サービス精神は感心するけれども、別に本当に芸を披露してほしかった訳じゃあないんだよね。空気読んでね」
【正真正銘、生きてるぜ。この女は人質だ】
血――アルフレッドが裂けて、卑しく嗤った。
「うーん、だとしたら可哀そうに」
ミキの指招きに応えて、水の触手がエリーの顔に向く。
「ごめんね、お嬢さん。こいつ、君から出るつもりないだろうし、君と一緒に駆除しなきゃ」
「むー!?」
涙目でエリーは仰け反り、必死に首を横に振った。
「そうだよね。でも、こいつを生かしておくと危ないからね。君の命一つで大勢が助かるんだよ。護律官ってそういう仕事だから。覚悟を決めておくれ」
「むー! むー!」
【そうそう、考え直した方が良いぜ。拝露教徒】
エリーの首振りに合わせてヘビの如くくねるアルフレッドが、喜色満面に口を挟む。
「むー! むー!」
ここぞとばかりにエリーは同調し、縦に首を振る。
「君は君でいい加減、護律官と呼ぶことを覚えなよ……。あ、覚える必要ないか。どうせ、その子も生きているように見せかけているだけなんだよね」
銀の短剣が、閃いた。エリーが強く目をつむる。
「赤ちゃん!」
振り下ろされる直前、ヘーゼルの叫びが短剣を止めた。黙ってミキが振り返る。
「良かった! 無事なのね、ヘーゼル!」
騒ぐエリーにミキが短剣をチラつかせ、黙らせた。
「まだスペイさんは産んでないよ」
濡れて崩れた髪を掻き上げ、息を荒げるヘーゼルは、真っ青な顔でエリーを見つめる。
ずっと、アルフレッドは笑いを堪えていた。
何かがおかしい。すぅ、とミキが息を吸う。
【ククッ。そうだ言ってやれ、人狼の小娘。この女、エリーの身体が今、どうなってんのか。テメエはとっくに見抜いてんだろうが。さあ。さあさあ。さあさあさあさあさあ!】
血が騒ぎ、エリーの耳が潰れそうだった。息苦しさが抜けないヘーゼルは中々それを口にできず、時間と霧ばかりが流れていく。
(どうして? ヘーゼル、助けてくれるんじゃないの?)
エリーの気が逸った。この窮地を救ってくれる逆転の一声、ヘーゼルには何か考えがあるのだと、期待して。
それなのに、どうしてそんな、つらそうな顔をするの。
【そうかよ。テメエが言わねえならオレが言ってやる】
痺れを切らし、アルフレッドが満を持して告げようとする。
(この際よ。このまま訳もわからず一方的に殺されるくらいなら、こいつの戯言にだって便乗してやる)
【孕んでるぞ、この女】
「むー! ……む!?」
タイミングを見計らい、アルフレッドに同調しようとしたエリー自身が、瞠目した。
(……え、今、何て?)
エリーも、ミキも、ヘーゼルに目配せをする。
血の高笑いが幅を利かせる廃墟で、ヘーゼルはぐったりと俯いた。
「姉ちゃんと、同じ匂い……ッス」
エリーの腸が、にわかにズンと重く下がった気がした。
禁域に降りしきる羽根はフクロウの物。夜の猛禽。猛禽の翼はグリフォンの翼。グリフォンの翼は悪魔の翼。
【おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる】
血が笑いを噛み殺し、不在の天使に代わって、エリーに覚えのない受胎を告知する。




