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【祝10000PV】無原罪御宿の吸血鬼  作者: ごっこまん
1.χαῖρε, κεχαριτωμένη

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017 奇跡の代償①:俺って本当に間が悪い

「貴様は待機だ」


 射手にそう指示された。「あ、はあ」曖昧に答える。


「急に無理を頼んですまなかった。ここまででも充分だ。後は我々に任せて休んでくれ」


 大した労でもないが、射手に肩を叩かれ、労われるのは悪い気はしない。


 相手が年下だろうとね。


 谷風だけが話し相手の、寂しい崖道だった。


 追手の一味でただ一人、男は崖上で命綱を見張ることとなった。


 携帯食をかじりながら、一面の霧の海をぼんやり眺めて、仕事終わりを待つ。


 ドライベリーと炒ったマツの実、クルミ、獣脂と干し肉、雑穀とハチミツなどを練り合わせ、澄ましバターに浸した物だ。


 保存性と栄養補給の両立を目指した一品は、獣臭くて甘ったるお。


 味の主張が足を引っ張り合って、食事を冒涜する味わいだ。


「ああ……でも、そうそう。こんなだった。懐かしいな」


 見張りは独り呟いた。


「んっ、く」


 えずくのをいなすコツを思い出す。これもまた味だ。


 待つ間はどうしても暇になる。


 どうしたって取り留めもない考えが浮沈する。


 つい先刻、谷底からだろうか。オオカミの遠吠えが聞こえた。


(仲間は無事だろうか)


 遠吠えに応える声はない。オオカミ一頭に後れを取る連中ではないはずだ。


(……驚いたな。考えることがなくなってしまった)


 岩に打ったペグを見やる。


 見るからにしっかり固定されて、綱が緩む心配もなさそうだ。


(参った。やることもない)


 見張りは懐から手紙を広げた。


 妻からの手紙だ。父に代筆させたのだろう。


『お仕事ご苦労様。


 万事上手く事が運んで、無事に帰って来てくれることを願っています。


 早く帰ってくれれば、新しい家族をお迎えできるし、帰りが遅くなっても、私たちの赤ちゃんと一緒に新米パパをお迎えできます。


 どっちに転んでも楽しみって、素敵なことじゃない?


 間が悪いなんて思わないで、頑張ってね。


 お義父さんの付き添いのおかげで、そんなに心細くないから心配しないで。


 私も頑張るから。


 追伸――それでも、早く帰ってくれたら、とても嬉しいです』


 歳だな。鼻がツンとする。冷たい空気を鼻で啜ると、眠気も吹き飛ぶ。


「あー!」


 すぐ近くで大声が上がり、見張りは我に返った。


 慌てて手紙を懐に押しこみ、しわくちゃにしてしまった。


(ああ、俺って本当に間が悪い)


 恨みがましい目を声の方向に向ける。


 崖道の向こうから、ランプの光が来る。


「ちょっと、ダメだよ。おじさん、ここ通行も立ち入りも厳禁だよ」


 一目で護律官とわかる格好が暗闇に浮かんだ。


 大楯を携え、奇妙なマスクをしており、語調が浮ついている。


 見張りは「あ、どうも、こんばんは」としらばっくれた。


「こんばんは、じゃないよお、もう」


 護律官は腰に手を当て、肩で息をついた。


「あーあー、もう勝手にこんなロープまで垂らして……何? 何か落っことしたのかい?」


「いやあ……へへ。すみません」


 見張りはおどけて首を縮めた。


 護律官は額――仮面に手を当て、空を仰いで唸った。


「……まあ、入っちゃったものは今更か。うん、仕方ないね。ところでそれ、何食べてるのかな」


 護律官の女は見張りの隣へ無遠慮に楯を敷いて、その上に腰を下ろした。


 距離の近さに面食らっていると、護律官は腰のポーチからスキットルを出した。


「どうだろう? 飲むかい?」


 呼気から息が詰まるような酒気が漂っている。


「夜番の日は暇で死にそうなんだよ。一献、付き合いたまえよ」


(絡み酒か)


 見張りは貧乏くじを引いた気になって、ぞんざいに携帯食を差し出した。


「どうぞ。酒は結構。願掛けで断ってまして」


「おっひょ、ラッキー」


 護律官は携帯食をむしり取り、そのまま口にする。


 チェーンヴェールと面布を重ねた下、若い女の横顔が垣間見えた。


 護律官は最初の内、肩で小躍りしながら喫食していた。


 だが、味わうにつれて咀嚼回数は減って、代わりに小首を傾げる回数が増えていく。


 最後は酒で飲み下すようにして、食べ残しはさっさと見張りに突き返した。


 スキットルを逆さにしても、一滴も落ちない。護律官は肩を落とした。


 一息ついた護律官から、話しかけられる。


「聞こえたかい? オオカミの」


「え、ええ。まあ」


 肩透かしだ。てっきり不法侵入のことを詰められると思っていた。


「どこで遠吠えしているんだろうね」


「さ、さあ、どうだろう……この下から、聞こえた気がしましたけど」


「へえ……実はあれね、アタシが預かってる子なんだよね」


 仮面越しに得意げな顔が透けて見えそうだ。


「オオカミを飼ってらっしゃる?」


 護律官は首を横に振った。鎖飾りがシャラシャラと鈴鳴る。


「人様の子。最初は吠え癖の酷い子だったんだよ。力も強いし、躾けには手を焼いてね」


 地域ネコならぬ、地域オオカミ自慢と。


「はあ。手がかかるだけ、可愛いと」


「あれ、わかるかい?」


「声に出てますよ」


「へっへっへ。でもね、ちょっと前から随分とお利口になってくれたんだよ。手がかからなくなっても、それはそれで愛着が湧くものさ」


「へえ、それはそれは」


「もうね、教えたことはすぐに吸収するよ。緊急時以外は遠吠えしない、とかね」


 声から酔いが飛んでいた。


 見張りは弾かれたように、霧の海に向けていた首を、隣に向けた。


 銀仮面の渦巻き模様の隙間から、瞳の輝きが漏れている。


 ごぼり、と見張りは水を吐いた。


 護律官は露術(アンスロ)を使う素振りも見せていない。


 なのに、と思ったときには、もう遅かった。


「やったね? 君ら」


 呼吸ができない。見張りはパニックに陥る。


 気管に水が詰まったように、ゴボゴボと喉が鳴る。


 息は吐ける。だが満足に吸えない。


 見張りは自分の首を絞め、水を吐きながらその場でのたうつ。


「知っているかい。霧はね、水なんだよ」


 陸で溺れた見張りは、そのまま気を失った。


 見張りの周りに霧が結露し、水滴が忍び寄る。


 集まった水は見張りを包むように氷結し、氷の牢となって捕えるのだった。


 二回目の遠吠えが、断崖に響く。


   †


 ミキは楯に足を乗せる。


 崖の所々から湧く水が、その下面に集っていく。


 やがて浮かぶほどの水量が集まると、ミキを乗せた楯は波に乗る要領で、急峻な崖を下って行った。


 その途中、綱を頼りに登攀する射手と鉢合わせた。


 刹那の思考が両者に走る。


 ミキは崖上と同様に不審者を即時拘束すべきと考えた。


 他方、射手の思考は複雑だった。


 利き手を痛めたせいで、ポーチの吹き矢が上手く掴めない。


 反撃行動の裏で考える。


 何故今頃になって護律官が出てきた。


 遠吠え……人狼のあれは良く響いた。合図。


 だが、谷底の状況は伝えようがない。


 護律官は、吸血鬼が出たとまでは知らない。


 崖の中腹で止まり、両者が目で牽制し合う。


 ミキの考えは至ってシンプルだったが、いかんせん酒が回っていた。


 先に動けたのは、緊迫で勝る射手の方だ。


 射手は腫れた手で谷底を指で示し。


「吸血鬼だ護律官! 修律士もだ!」


 ミキは息を呑む。


 射手にもその情動が手に取るようにわかった。


 ミキは射手と谷底の間で逡巡短く、射手を指す。


「運が良いね」と言い残し、ミキは直ちに谷底へ降下した。


 稼いだ時間で、射手は崖を急いで登る。


 崖上で氷漬けとなった見張りを見つけるや駆け寄り、意識の有無と体調、氷の状態を確かめる。


「た、たた、助けて……」


 見張りは凍ったまつ毛で懇願する。血色は悪くない。


 まだ、射手の利き手の方が一大事だ。


「護律官にやられたか」


 見張りがガクガクと頷く。


「どっちから来た」


「む、村と反対の……」


 射手が頭の中で地図を開く。


 その方角の関所は人里から離れている。


 護律官は人狼が禁域内にいると察知した。


 つまり、直前まで一緒にいたと推測がつく。


 現在、関所は二人も抜けている。辺鄙な場所故に監視も甘い。


 脱出するならそちらを選ぶべきだ。


「に、任務は……?」


 反撃に出るには、役者が不足している。


 標的の追跡継続の是非も含め報告し、抜本的に態勢を整え直さなければならない。


「失敗した。氷を砕く手段も時間もない。残念だが貴様を見捨てる」


「へ、へへ……笑えないって……早く」


 見張りは首と目の動く限りで、人影を探す。


「……他の二人は」


「殉職した」


 射手はその一言を最後に発つ。


「殉職……?」


 見張りが凍えたのは氷漬けのためだけではない。


 死んだ? あの二人が死ぬような何かが、真下で起きたってことじゃないか!


「おい、おぉい! ま、待て待て! もしもし!? 待ってくれ! 後生だ! 頼む、戻って来てくれぇ! おぉーい!」


「生き残るだけなら、貴様には容易いことだろう」


 懇願虚しく、あっさりと置き去りにされた見張りは、身体の芯まで凍てつきながら思う。


(ああ、俺って本当に間が悪い)


 腹に詰めた携帯食のカロリーが命綱だった。

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