013 吸血鬼新生 2/4:せめて、悪女らしく
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応接間で追い詰められ、エリーの額に刃が振り下ろされる瞬間にさかのぼる。
エリーは不思議な感覚に引きずりこまれた。
明晰夢を見ている心地だった。意識の一層奥に引いたとしか言いようがない、離人感。まるで殺戮が他人事に観えるのだ。
死にたくない。けれども、最後の瞬間に激痛と恐慌を感じずに逝けるなら、それは神様のお慈悲にも思えた。
】もう、何もかも、どうでも良い【
心身を消耗していた。何でも良いから、早くこの悪夢を終わりにして欲しい。
「何でも良いから、と思ったな?」
エリーの口が、エリーの意思に反して、独りでに笑った。
喩えるなら、意識の表面を覆う膜。そう思っていたものが声を発する。
驚いてエリーは目を覚ました。いや、離人感はそのままなので、まだ明晰夢の心地からは抜けていない。
】誰?【
自分の声に、聞き覚えのある声が重なっていた。廃聖堂で目覚めてからこれまでに、何度も耳にした男の声だ。
ナイフを振り下ろす男の手首を、エリーであってエリーではない何かが掴む。
「ああん? 何だぁおい? 往生際が……」
ナイフ使いが押しても引いても、捩じっても、腕は微動だにしない。
ナイフ使いは「あれ?」と間抜けな声を漏らす。
「はあ? もう良いって。今更火事場の馬鹿力かよ。その傷ならもう助かんねえってことが……」
ナイフ使いが本気になった。
それでもそのエリーは放さない。まるで石像が掴んだかのように、エリーは微動だにしない。髪を引っ張ろうが、膝蹴りを入れようが、そのエリーは不敵な笑みを崩さない。
それどころか手首を掴む力はいや増し、ナイフ使いの関節が悲鳴を上げていく。
「こ、の……! ぐぅ!? む、無駄に長引かせてえってのかよ! 余計に苦しむだけってのがわかんねえのか! す、素直に殺されとけ……よぉ、おい! 聞いてんのか!?」
骨と皮張りの細腕で、どこからそれほどの力が湧くのか。締め上げられた手首から先は鬱血し、色が変わっていた。
身じろぎ一つないエリーに対して、今度はナイフ使いが汗を浮かべる。怒りは焦りへ、焦りは焦燥へ、焦燥は苦悶へ変わっていく。
「調子乗ってんじゃねえぞ、この悪女がぁ!」
ナイフ使いはエリーの髪を放し、拳を握り、その横顔に目がけて振り抜く。
直撃。石壁を殴ったかのような反動。エリーは首すら曲げず、ナイフ使いの拳を受け止めていた。
裂けた口と、長く鋭い牙で。
牙をナイフ使いの拳に食いこませる。拳骨がきしむ咬合力。鋭い痛みに、思わずナイフ使いは手を引っこめた。刺さった牙で拳が裂け、そのエリーは返り血を浴びた。
そのエリーは、返り血を舐めてほくそ笑む。
「そうか。もう助かんねえなら、つべこべ言わずに潔く死んどけってか」
エリーの瞳に凶悪な光が宿る。底知れない何かを気取り、ナイフ使いは逃げようとする。
だが、ナイフの持ち手をそのエリーが掴んで放さない。その場から一歩たりとも退けない。
「今のテメエにお似合いの一節がある。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが――」
「何だ、てめっ……い、一体何の……」
エリーの華奢な手が、ナイフ使いの屈強な手首をへし折った。
だらんと脱力し、あらぬ方向へ垂れた手からナイフがこぼれ、床に刺さった。
「――死ねば、多くの実を結ぶ」
ナイフ使いは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。折ると同時にエリーが手を放す。手首がすっぽ抜けてナイフ使いが顔から床に倒れた。
「なんっ……おお!?」
己の手の有り様を目にして、ナイフ使いに痛みが追いつく。絶叫前の大息を吸う。
半端に開いたその口へ、面布の上からそのエリーが手刀をねじ込んだ。
】何【
意識の奥で、本当のエリーがうろたえる。
】私、こんな。こんなこと、私じゃない。私、こんなこと、できない【
「オレが何だって? 良いぜ、冥途の土産に教えてやる」
ナイフ使いへ、本物のエリーへ、そのエリーは嬉々として告げた。
「オレは“レッド”。アルフレッド・ヴァルケル」
】アルフ……レッド……?【
ヘーゼルの話してくれた、おとぎ話の怪物と同じ名前。まさか。
本物のエリーが言葉を失う一方、そのエリー――アルフレッドが親切に名乗ったにもかかわらず、ナイフ使いは激痛でわめいて耳を貸そうともしない。
アルフレッドは気にせず独り語り聞かせる。
「よく聞けブ男。宿主様は何でも良いと仰せだ。然るにオレには、あらゆる手段を講じて一片の後顧も残さずテメエを血祭りに上げる義務がある」
悲鳴を封じられたナイフ使いが、その口を犯すアルフレッドの腕を力尽くで抜こうとする。
しかし、無駄な足掻きを嘲笑うかのように、アルフレッドの指は面布に穴を開け、ナイフ使いの口腔をミチミチとつねり始めた。
舌や内頬、唾液腺、歯らしき感触を、千切っては捨てていく。
ナイフ使いのくぐもった叫びが、出血と共に手に伝わった。
エリーを散々虐げてきた男が、がむしゃらにアルフレッドの細腕を殴る。
「おいおい、片腕で勝てると思ってんのか? 舐めてんのか?」
腕を殴られようが、折ろうとされようが、アルフレッドはナイフ使いの好きにさせた。
むしろ、アルフレッドを害そうとすればするほど、逆にナイフ使いの手の方が傷ついていく。
その間もアルフレッドは、口腔内の体組織を、指で一つ一つ丁寧に挽き肉に加工していく。
ナイフ使いが折れた方の腕でも殴り始めた。
「そうそう。全力出さねえと。人生は短えんだ」
アルフレッドは、笑いを堪えている。
これの何が面白いのか、エリーには理解できなかった。目を覆いたくなる惨状だった。
だが、エリーの意思で顔を背けることも、目を閉じることも許されない。惨劇が目と鼻の先で繰り広げられていく。
「好き、嫌い、好き、嫌い、好き……」
健気に抵抗するナイフ使いを使って、アルフレッドは花占いの真似をした。
自分の心に、他人の邪念が巣食っている。
自分の口が、他人の呪詛を呟いている。
】何よ、これ。何なのよ、これ【
ナイフ使いはすっかり怖気て、泣き喚くだけになっていた。恐ろしかったはずの刺客の顔が、今や痛ましい。
「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、大嫌い……ぎゃはは!」
手に血の温もりが染みるにつれて、エリーの身体の傷が癒えていく。
回復したアルフレッドは小ぶりのナイフを奪い返し、ナイフ使いのみぞおち目がけて刃を刺した。
】嫌!【
くたびれてきたナイフ使いの絶叫が、新鮮さを取り戻す。
「お、まだいけんじゃーん。ほれ、アンコール」
きゃっきゃとアルフレッドは悦んで、再びみぞおちを刺す。
】もうやめてあげて!【
「アンコール。あ、それアンコール。あ、それ……」
くぐもった絶叫が、口を塞ぐ手を痺れさせた。
エリーは、いや、アルフレッドが、毒霧じみた吐血を顔に浴び、それを舐める。
汚い。生臭い。
意識が拒んでも、身体は意に反して、ナイフ使いの口から噴射する血を、エリーの口に含ませた。
やがて、絶叫する気力も使い果たしたナイフ使いの口から、アルフレッドは手を引いた。
千切った物がナイフ使いの口内でボコボコと煮こぼすようにあふれて、床に散乱する。
喘鳴と怯えが吐血に濁って聞き苦しい。
「アンコール」
】やめてって! やめてって言ってるのに!【
「なら、フィナーレだ」
アルフレッドは持ち手ごとナイフを腹の大穴に叩きこみ、ナイフ使いの背中に貫通させた。
口から抜いた手も、ずたずたになったみぞおちに滑りこませて背中へ貫く。
貫いた両腕を、両開きの扉を開くように広げ、ナイフ使いは拷問での苦しみようが演技であったかのような断末魔を上げる。
力に物を言わせて、アルフレッドは死に体のナイフ使いを頭上へ持ち上げる。血を頭から浴びる。
】違う! やめて! 嫌あ! 止まってえ!【
アルフレッドの両腕は力任せに左右に広がり、ナイフ使いの身体を上下に分断する。
血が炸裂し、溺れるほど浴びた。
血の海に、変わり果てたナイフ使いが沈む。下半身は膝を折り、上半身は次第に痙攣を弱めていく。
エリーのナイフは男の骨に負けたのか、真っ二つに折れていた。
アルフレッドが笑いを殺すのと、意識の手前に引いた本物のエリーの悲鳴が重なった。両腕には鈍く、生々しい肉と脂の感触が残っていた。
】こ、殺した……私が、こんな、酷い……こんな、むごい……【
アルフレッドが、顔に受けた血反吐を集めて貪った。心の一層下で本物のエリーが頭を抱えてうずくまる。
「ああ、可哀そうなエリー。ずっと怖かったんだな」
アルフレッドは己の身を抱き、下品に悶える娼婦のような仕草をした。
崩壊しそうな理性を繋ぎ留めるエリーを、昏い血の声だけが肩に手を添えて、囁き、慰める。心の中で耳を塞いでも、声は心に絡みつく。
】何よ、何なのよ、あんた……やめて……私に、こんなことさせないで……! 私に、何をしたのよ……!【
アルフレッドは、エリーの喉を借りて、薄ら嗤う。
「つれねえなあ。オレはテメエのお願いを叶えてやったってのに」
】違う! 私、こんなの頼んでない!【
「そりゃねえぜ。オレのおかげで助かったっんだろうがよ」
】うるさい! うるさい、うるさい!【
「取りつく島もねえや。じゃあ、アレだ。アレやれ。三つ褒めるやつ」
それは、僅かに残ったエリーの記憶。あの人が教えてくれた秘訣。エリーに一歩前に踏み出させてくれた、おまじない。
――それの好きなところを三つ、挙げてご覧なさい。
何もかも失くした自分に残された宝物を、あの人の言葉を、よりにもよって人殺しなんかに口にされた。
歯を食い縛り、口がわななく。悔しくて涙を流したいくらいなのに、身体はアルフレッドのものだ。
エリーの激情はそれでも肉体に伝わり、現実に血の涙を流させた。
しかし、肉体はこともなげに涙を拭う。
「……どうした? 言わねえなら代わりに言ってやるよ。まずは……ああ! こりゃ外せねえだろ! オレは死んだテメエを生き返らせてやった」
一つ目が、心臓を掴む。
】……死んだ? 私が? それを、生き返らせた、って【
エリーの疑問に耳を貸さず、肉体は滔々と指折り数える。
「それから、これからはオレがテメエを守ってやるよ。テメエを傷つける奴も、馬鹿にする奴も、ガン飛ばす奴も、不機嫌な日に見かけた奴も、とにかくムカつく奴も、全部、ぜーんぶ、オレが食い殺してやる」
これが二つ目だなんて、冗談じゃない。
けれども、ナイフ使いの恐怖が尾を引いて、心から拒めない。恥を忍ぶなら、魅力のある提案だった。
人間を凌駕する暴力が、エリーの味方に着いてくれる。
その昏く甘美な優越感は、怒りにわななく彼女の口を、ほんの少しだけ、邪な喜悦に歪ませた。
――どんなに嫌いなものでも、好きになる方法があります。
――それの好きなところを三つ、挙げてご覧なさい。
だからって、こんな人殺しを、好きになって良いはずがない。
思い出すな、思い出すんじゃない、思い出さないで。あの人の言葉を、こんなことで汚すんじゃない。
エリーがどれだけ己に言い聞かせても、この邪悪な意識が味方になると考えただけで……。
誘惑に、抗えない。
】わ、私……私ぃ……【
抗え。誤魔化されるな。私は、あんたなんか嫌い。大嫌い。
「それに、オレはテメエの本性が何だろうが構いやしねえ。世界中がテメエを悪女と蔑もうが、オレだけはテメエを、骨の髄まで愛してやるよ」
カチリと、三つ目のピースがはまった。
エリーの閉ざされた心の隙間を探り当て、昏い血が侵していく。
悪女――ナイフでエリーを切り刻み、罵声を浴びせた男は、エリーをそう呼んだ。
悪党、アバズレ――エリーが、記憶を失う前の私がどんな悪事を犯したのかは、わからず仕舞いだった。
けれども、忘れた、では済まされない、死に値する罪を背負っているらしい。
じゃなきゃナイフで切り刻まれたりしない。あんな恐ろしい目に遭って良い訳がない。
たとえ悪女の誹りがナイフ使いの言いがかりだったとしても、エリーの手はたった今、汚れてしまった。
エリーは、アルフレッドの共犯者だ。
だったら、意固地になって良い子ぶったところで、無駄なんじゃないの。
追手はまだいる。捕まったら殺される。このままでは、身に覚えのない罪にまた凄惨な罰が下される。
「そうだ。生き延びたければ、テメエはオレに頼るしかねえ。テメエの味方は、この世でオレしかいねえ!」
】黙れ! あんたとなんか手を組みたくもない!【
「だったらどうする? オレ抜きで何ができる? 逃げるしかできねえ、テメエ一人に何ができる?」
】わ、私は……【
無力で、臆病で、あんなのに立ち向かえる勇気なんてない。力なんてない。
】そうよ……。どうせ成す術なく、無力を嘆いて殺されるくらいなら、あんたの力を……利用してやる【
使えるなら、使い尽くして、何もかも終わったら、使い捨ててやる。捨てて、あんたを裁いてやる。
せめて、悪女らしく。生き延びるために、良い子を辞めてやる。
だって、どうせみんな、私にそう望んでいるんでしょう。
こんな廃墟に追い詰めて、私を散々怖がらせて遊んで、ナイフまで使って、私を刻んで。
殺したいほど憎らしく、恨めしい、悪魔のような女であることを望んでいるんでしょう。
「おお、大きく出たな」
アルフレッドが音のない拍手を送る。手の平の血がぬたぬたとぬめる。
「なら、しっかり見ておけ」
アルフレッドはわざわざナイフ使いの下半身側に跨り、上半身側に俯いた。
目を閉じ、手探りでその両頬に手を添えて、口づけしそうな距離に顔を寄せる。
】な、何……まさか……ねえ! やめて! お願いだからやめて! お願いします!【
「この面を心に刻んどけ。これからテメエが世界にばら撒こうとしている面だ」
目蓋が愛おしく開かれた。
死に顔。
喉に腕を通され、内側に閉じこめた死を強引に引きずり出された、虚ろな死に顔が、視界一面に現れた。
焦点の合わない目が、恨めしそうにエリーの心の奥底を見つめている。
エリーの精神が、姿形を失うほど悲鳴を上げた。
処刑の一部始終が鮮明に蘇る。ナイフ使いをこんな表情にした手口を身体が覚えている。それにエリーの精神は耐えられなかった。
】あー、ああー……はぁ、はぁ、ふ、あふふ……ふふっ、ひふ……ふ【
罪の意識と血の誘惑がせめぎ合い、エリーの口元は泣き笑いの狭間で痙攣する。
温かな血が心の空間を満たし、エリーの意識は錆臭い粘りの底に、ゆっくりと沈んでいく。
「……乗っ取るまではいかねえか」
立ち上がりざまに、ナイフ使いの血がアルフレッドの脚を這い、皮膚に浸透していく。
応接間を赤く染めていた血を一滴残らず吸う。後はただ、物言わぬ死体が肉の色を残している。
ヘーゼルのナイフを拾う。
銀の部分に小指を当てると、猛烈な熱感に襲われ、指先が黒く焦げた。脊髄反射でナイフを捨てる。
「あっぢ! んだよ……表出たら無効かよ!」
手を振るだけで瞬く間に火傷が癒えた。
「ま、気を取り直してだ。せっかくだしな。退屈した分、取り戻さねえとなあ」
伸びをしながら、アルフレッドは壊れた心の笑い声に乗せて、旋律も拍子も合わない、寂しげな子守唄を口ずさむ。
指揮を執る風の指先から、血の糸が紡がれた。糸の端がナイフ使いの上半身に潜る。
すると、死んだ筈のナイフ使いが身震いし、自ら喉に手を当てた。
「あ、あ、あめんぼあかいなあいうえお」
口の中がずたずたなせいか、間が抜けた声。
上半身から赤い糸が幾本も伸び、天井に着く。
糸に吊るされた上半身は操り人形となって、応接間の窓の閂錠に手をかける。
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