012 抹殺洗礼式⑤:悪女を裁く
エリーが唖然とする間もなかった。
窓から生えた腕は閂錠を探り当てて解錠し、さも当たり前に窓が開かれる。
「邪魔するぜ……うはっ、すっげえバリケード! 案外力持ち?」
窓の外、男が岩迷彩の覆面の下で、こちらに微笑みを向けていた。
エリーの胸が凍った。
「サプラーイズ! 模様替えに夢中で足音が聞こえなかったか? こっちは余裕しゃくしゃく、隣の部屋の窓から渡ってきましたとさ……こんばんは、お隣の悪女さん!」
(逃げ、逃げ……)
エリーの目が泳ぐ。窓をまたいで男が入って来る。
「ああー、閉まっちゃう。閉まっちゃうぞお」
男が閂錠をかける様子を見せびらかす。
「あ、カッチャンコ。でへへ。はい、おしまい」
ガラスの割れた隙間だらけの窓が、鉄扉と見紛う堅牢さで閉じられる。
扉はエリーが自分で封鎖してしまった。
(――あれ、おかしいな。逃げ道が、ある、はずなんだけど)
現実にエリーの空想が混ざり始めた。
男の一歩で、床がきしむ。エリーの意識が現実に引き戻された。
「こっ、来ないで!」
エリーは後ろ手にバリケードを漁った。手当たり次第に小物を投げる。
燭台、小箱、灰皿、筆記具……どれも的外れな方向に飛び、空しく床を転がるか、粉々に割れた。
(何で。今当たった。当たったって)
心が現実逃避に傾く間に、男はその凶刃が届くところにまで、エリーに詰め寄っていた。
エリーは咄嗟に一輪挿しを握り、振りかぶる。
男の頭を殴る前に受け止められて、そのまま腕を捻られた。
一輪挿しは呆気なく手からこぼれ落ち、割れた。
「ありゃ、拍子抜け。火事場の馬鹿力ってやつ?」
捻り上げられた手首で、そのままエリーは投げ飛ばされた。
バリケードの角ばった凹凸が背中に食いこんで、一瞬息が止まった。
四つん這いでむせて、嗚咽を漏らす。
「さ、これで邪魔も入らねえし、ゆっくりお話しようぜ」
エリー自身の心音の激しさの向こうから、男の声がする。
咄嗟にエリーは床に転がって、壁際に逃げた。
「こっ、来ないで!」
壁際に、追い詰められる。
冷たい刃にエリーの乱れた呼吸がかかり、曇っては乾く。
男は覆面の下でニヤニヤしていた。
「で、何をやったんだ?」
ナイフの男が問う。
質問が意味不明な以上に、恐怖でどうにかなりそうで、口が動かない。
ナイフから目を離せない。ヘーゼルの物だ。
「そ、それ……借り物……借りたから、返っ……返さなきゃダメで……」
場違いな台詞だった。
ヘーゼルにナイフを返す機会があると思いこめば、助かる気がした。
現実逃避はとうとう因果関係の逆転に気づかない域に至っていた。
エリーの視線の先に気づいて、男は呆れたように溜め息をつく。
ナイフを背後に放り投げた。
「ああっ」追おうとするエリーの胸が突き飛ばされた。
ナイフの男は、もう片手で崖上で拾った小ぶりのナイフを握る。
見せびらかしはしない。背中へ。外套の内に隠す。
「さ、ほら。武器は捨てたぜ。ゲロってみなって。話によっちゃあ、あのナイフを返してやるよ」
口振りに道端で見かけた子ネコを誘う作為を感じた。
エリーは逸る呼吸を抑えて、固唾を呑んで整え、声にする。
「な、なん、何のこと……です、か」
乾いた呆れ笑いで、男が俯きがちに首を振る。
またまた、ご冗談を。そんな心の声が聞こえる素振りだ。
「何のことって、てめえが働いた悪事のことに決まってんだろ」
「……あくじ?」
耳にした言葉が素通りして、口に出る。男がねっとりと頷いた。
「で実際、どういう悪だくみしてたんだ? 勿体ぶってねえで、こっそり俺に教えてみろよ」
「あっ、……あなっ、あなたがっ、何っ、言って……わ、からない……ですっ」
エリーの足が、ブーツに踏みにじられた。
「とぼけんじゃねえぞこのクソアマが!」
男が豹変し、鈍器にも似て厚い靴底が、エリーの華奢なくるぶしをきしませる。
悲鳴が裏返った。
痛い、と繰り返し、エリーは泣きわめく。
男の足をどかそうと懸命に組みつくが、逆に乱暴に髪を掴まれた。
強引に顔を上げられた挙句、男の血走った眼を間近に覗かせられた。
「この期に及んでしらばっくれていられると思うなよ。俺たちが動いたってこたぁ、てめえが救いようのねえ悪党だって挙がってんだよ!」
踏みにじられる。激痛に取り乱す。
「だってえのに、今日の今日までのらりくらりと逃げ腐りやがって……おかげでこんなクソ田舎まで出張んなきゃなんねえ!」
踏みにじられる。骨がきしむ。
「おかげでこちとらオカマ野郎に愛用のナイフまで折られちまったんだぞ!」
踏みにじられる。激痛が限度を超える。
「挙句、谷底に落ちても平気でオカマをやり捨てて、てめえ一人でピンピンしてるときた!」
踏みにじられる。激痛に声を失う。
「てめえらの往生際が悪いおかげでよお、こちとらクタクタだってのに、こんなクソ崖を遥々降りてきてんだぞ!」
踏みにじられる。ただ、呻く。
「だったら、てめえが何をしでかしたかくれえ聞かねえと、仕事の割に合わねえよなあ!?」
踏みにじられる。踏みにじられる。踏みにじられる……。
終わらない。
(教えなきゃ。痛い。この人痛い。この人に、痛い私が何を痛い……私が痛い何痛いをした痛いって痛い痛い痛い……。痛いわから痛いな痛いい。痛い痛い痛い)
まるで、ヘーゼルの言っていた“アルフレッド”だと、エリーは思った。
名前はなく、ただ「アルフレッド?」と手当たり次第に名前を問う化け物。
代わりにこの怪物は、エリーの働いた悪事を問う。
記憶にないと正直に答えても、嘘をついても、殺される。
「嫌っ! やめて! 痛い! いぎゃっ! ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!」
「だーかーらー、何に謝ってんのか言えっつってんだろ!」
踏みにじられる。エリーの謝罪を覆って、男が怒鳴る。
何に謝ってるのかって、あなたによ。
他は知らない。私、知らない。
痛い。教えて。誰か教えて。痛いよ。誰か、助けて。
「助けて、ヘーゼル! ヘーゼル! 助けてぇ!」
喉が焼けるほど絶叫しても、ヘーゼルは応えてくれない。
「ヘーゼルぅ……? ああ、てめえが新しく誑かしたアレか。よくやるぜ。散々邪魔してくれたオカマ野郎がダメんなったらよ、股座も乾かねえ内に田舎の修律士を見つけて、さっさと鞍替えたぁなあ。このアバズレめ。節操ねえなあ! 引きの強さと人誑しは、悪女の嗜みでしてよってかあ!」
声を荒げられて、エリーの頭に血が昇った。
髪を掴まれたせいか、頭の傷が開いて、額に血の筋が垂れる。
幼稚に、無軌道に、駄々をこねるように、金切り声の限りを尽くして抗う。
「悪女!? 悪女って何よ、さっきから! 知らない! 何も覚えてない! ここに落ちる前のこと、何も思い出せないのに! 答えられる訳ない!」
男の目に怒りが帯びる。
男は隠し持っていたナイフを振りかざし、エリーの鎖骨の窪みに深く、ねじり刺した。
細い刀身は見事に骨の隙間を捉えた。
出血と激痛で、喉を潰すばかりの絶叫が廃墟に響き渡る。
刺された側の肩が上がらない。
エリーは健気に片腕でぽこぽこと男の腕を叩いて抵抗する。
だが、相手はびくともしない。
「ここまで丁寧に、言い逃れできねえって教えてやってんのに、まだ誤魔化そうってえのか?」
男の声は冷たくなっていた。
「なあ、今の流れでゲロんねえとか、どういう神経してんだ? もう助かんねえから遺言の一つでも聞いてやろうって気遣いが、わかんねえのか? 悪女だから人様の優しさが理解できねえのか?」
刺さったナイフが更に捩じられる。
体内に張り巡らされた神経が、血管が、壊されながら巻き取られる。
激痛が本能に訴えかけて、エリーは血反吐を混ぜて叫んだ。
肺か気管に穴が開いたらしい。逆流した血がエリー自身の喉を塞ぐ。
エリーはうがいをするように喘ぎ、絶え間なくむせた。
「だとすりゃやっぱてめえはクズだ。俺の仕事の見返りに土産話の一つも寄越さねえ、だんまりクズが。そっちがその気なら……」
ナイフが抜かれ、おびただしい血を噴くエリーの頭上に、血塗れの刃が再び振りかざされる。
降り下ろされたそれを、残された片腕一本でエリーは必死に防いだ。
かざし、降ろし、繰り返される刃の連撃を防ぐたびに、細腕には傷が刻まれていった。
「ごめんなさい! 許してください! 助けてください!」
悲鳴と吐血に濁った言葉を、獣の如く混沌と喚き散らす。
応える者はなく、泣き叫ぶエリーの血が、応接間に飛び散った。
「誰か助けて! 誰か!」
諦めがすぐそばに来る直前に、出た叫びだった。
男の声、ナイフが空を切る音、殴打の音、肉を裂く音。
全てが鼓動の向こうに遠ざかっていく。
こんなときなのに、自分の血飛沫が鮮やかで、何故だか心臓が高鳴るほど食欲を誘った。
【お願いします。と言え】
その声は、鼓動の手前側から明瞭に、エリーの意識に語りかけてきた。
エリーは男の血に釘づけで、今にも恐怖で胸が潰れそうで、助かりたくて、理不尽な暴力が許せなくなって。
「お願いします!」
限界だった。
血眼で生存の糸口を探る折に、誰何もためらいもなかった。
ナイフを防ぐために酷使した腕が引きつった。
防ぐのが間に合わない。
乱れ泣くエリーの額に目がけて、止めの一撃が降り下ろされる。
「誰か! 助けてください!」
絶望に歪んだ細面の叫びが止むと共に、応接間の天井を鮮血の飛沫が横断した。
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