036 死線を潜り抜けた後に⑨:Εὐλογητοί (エウロゲトイ)Ⅱ
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満を持してメモに書かれた“GIRAUD”の血文字。
「姉ちゃん、赤ちゃんのお名前、何て読むんだ?」
待っていられなくなって、ヘーゼルがスペイに負ぶさるように抱き着いた。
ベッドで上体を起こしたスペイは、読解に手こずっている。
「ううん……? ギラ……ジラウド……?」
「ジロードか?」
バーンズ夫妻は代わる代わる、ためつすがめつメモを読む。
「“ジルー”だ」
一発で読まれなかったことにうんざりして、アルフレッドは流暢で正確な発音を教示する。
「ああ、ジローか」ニアミスだったと合点し、ロバートは勝手に表情を晴らした。
「違う。ジルー」
「え? だからジローだろ? なあ?」
スペイが「うん。ジローだった」と同調する。
「ジ・ル・ウ!」
正しい発音が伝わらずに苛立つアルフレッドには悪いけれども、中のエリーにもさっぱり違いがわからなかった。
あえて言うなら、アルフレッドの発音は“ジロー”と“ジルー”の中間で、どちらかというと鼻持ちならない風に“ジロー”と言っているような感じがする。
「この際どっちが正しいとかどうでも良いけどよお……」
ヘーゼルが頭を掻く。
「女の子につける名前じゃねえよ、それ」
心底期待外れだったと顔に書いてあった。バーンズ夫妻も困ったように、曖昧に返事をする。
確かに響きがかなり雄々しくて、決め手に欠けるのだけれど。
「テメエに言われたかねえよ!」
】ヘーゼルも人のこと言えないよ【
とはいえ、ヘーゼルの指摘は無視できない。
「ジルー・バーンズか」より近い発音でロバートが口にする。「……何だか、続けて呼ぶとギルバートに聞こえなくもないのが、こう、何とも」
「何でだよ! ジルって名前の女いんだろ!」
「苗字と相性が悪いよ」とスペイがバッサリ赤点を下す。
「てめえ、自分の姪っ子で遊んでんじゃねえよ!」
「だからテメエに言われたかねえよ!」
】だからヘーゼルも人のこと言えないって【
アルフレッドがヘーゼルの鼻先を指突きながら詰め寄る。
「良いか、この名前は“槍を持つ者”とか転じて“支配者”とかいう由来があってだな……」
「ますます女の子っぽくねえよ!」
ヘーゼルが鼻で押し返す。
「ンな訳ねえって! オレが女だったらこの名前つけてたって親……」
しまった、口が滑った。心の声が聞こえそうなほどの息苦しさが、アルフレッドを通してエリーに伝わる。
アルフレッドが拗ねて黙ってしまった。
勝ち誇ったように笑い、ヘーゼルがふんぞり返る。
「んだよ。期待して損したぜ。ねー、姉ちゃん。やっぱこいつ使えねえよ。自分にお名前つけさせてくれよ」
「それだけは絶対嫌だよ」
「何でえ!」
姉妹喧嘩の気配に、赤ちゃんが愚図ってしまった。それを一家総出であやす。
様式美になりつつある騒ぎの隙に、エリーは考えた。
今の流れは良くない。
アルフレッドが名前を考えあぐねた挙句に、自分の名前の候補から苦し紛れの提案をしたように聞こえてしまう。
けれども、肉体を共有するエリーには、アルフレッドの本心はわからなくても、おおよその感情ならわかった。
アルフレッドは、本気で考えた末に、これが良い、これしかないと確信していた。
アルフレッドにとってジルーという名は、読書も早々に切り上げてでも選びたかった、思い出から探り当てる価値のある、思い入れの強い名前なのだろう。
由来まで知っているのは相当である。
それに、武骨ではあるけれど、決して悪い由来ではない。
反目し合う間柄ではある。けれども、鬼の目に浮かんだ涙を放っておくのは、エリーの気が引けた。
アルフレッドの提案を尊重しつつ、赤ちゃんに相応しい名前にしてあげるには……。
】ねえ、レッド。あのね【
アルフレッドは不機嫌を装いながら、ちゃっかりエリーに耳を傾ける。
エリーの意見が迷いを生み、短い時で深く逡巡し、迷いの晴れた目を上げる。
赤ちゃんの疳の虫が治まってホッとしている一家に近寄り、スペイの手からメモを奪い取り、余白少ない末尾で斜めに曲げて“INE”と加筆する。
「“GIRAUDINE”だ。これで満足か」
元の綴りから外れたせいか、アルフレッドの発音は幾分か素直になっていた。
バーンズ家一同が、噛んで含めるようにその名を口内に転がす。
「ジルディーヌ……ジルディーヌ・バーンズ。良いじゃないかい。あたしは気に入ったよ」
「何だか一気に、うちには勿体ないくらい高貴なオーラが……」
「何だい。ドンと胸張りな! 良いんだよ、歴史に残るらしいんだから、これくらい景気の好い方が! そうだよね?」
スペイに揶揄されて居心地が悪く、アルフレッドは知らんぷりした。
「ぐうう……マドレーヌっぽい……」
悔しいのか気に入ってるのかお腹が減ったのか微妙なリアクションのヘーゼル以外は、概ね好評のようだ。
「これからよろしくね、ジルディーヌ」
スペイを皮切りに、ロバートが追従し、観念したヘーゼルもその名を口にする。
その実、一番その名前にはまったのがヘーゼルで、一息に連呼したかと思えば抑えが利かない様子で「村中自慢してくる!」と止める間もなく客間を駆け足で去ってしまった。
コシノフ邸の外で「ジルディーヌ! 姪っ子はジルディーヌ!」と叫ぶ声が遠ざかっていく。
額に手を当てた夫婦の内、スペイは天井を仰ぎ、ロバートは床に項垂れた。直情径行な身内を持つ苦労のポーズだ。
気を取り直したスペイが、アルフレッドに向き直る。
「ありがとうね。良い名前を考えてくれて」
アルフレッドは不愛想に鼻を鳴らすばかりで、目を合わせない。
】私が余計なことしたのが気に食わないのよね【
「違えよ」
スペイからすればアルフレッドの独り言である。
文脈から外れた照れ隠しと思ったのか、スペイは気にせず話しかけ続ける。
「そうだ。ジルディーヌに、おめでとうって言ってあげておくれよ」
おくるみに包まれた赤ん坊、ジルディーヌを差し出される。
「抱いてあげとくれ」
一瞥するだけでアルフレッドは組んだ腕を解かない。
】恥ずかしがってないで、素直になりなよ【
「別に恥ずかしがってねえ」
「何だい、あんたやっぱり。一丁前に照れちゃってんのかい。可愛いところあんだね」
うんざりだった。アルフレッドは吠えるような溜め息をついて、スペイのご機嫌を取るつもりでジルディーヌを抱いた。
ふくふくと丸くて、ふてぶてしい寝顔をしている。
まるで何者に抱かれているかも、自分がどんな場所にいるかも自覚のない、横柄な寝顔だ。
「……同情するぜ。人喰いを名づけ親に宛がわれたんだぞ、テメエ」
昼前の陽気が冬の終わりを告げている。
吸血鬼に相応しくない時間で、アルフレッドの剣幕が少しだけ和らいだ。
「ひとまず、おめでとう」
】
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