032 死線を潜り抜けた後に⑤:功罪の清算
スペイの救命。焦眉の一夜が明けてからも、慌ただしい一日が待っていた。
客間の外に、ミキ・ソーマの姿を借りて。
「や、おはよう。昨日はお手柄だったね」
何だか声に張りがない。
また二日酔いかしら。無理もない。昨日は修羅場だったのだから。
新生児の呼吸不全に、スペイの羊水塞栓症が連続した後なら、一杯やりたくなる気持ちもわかる。
(……いや、この人、朝から飲んでたわ)
キャスパーから袖の下を掴まされてその場で飲むところを見ていたのを思い出す。
この人、本当にしょうがないな。
「はいこれ。いつもの」
挨拶もそこそこに、ミキから恒例の小袋を渡された。
通算三つ目、ダメにしてしまった検尿を入れると四回目になる。
実を言うと良い加減、これに小水をかけて何がどうなるのか見当がつき始めていた。
けれどもその目的は、アルフレッドに盗み聞きされると後々面倒になりそうなものである。
ミキが頑なに秘密にしたがる理由も今ならわかる。
(私の予想が正しければ――)
この検尿、確実を求めるなら――エリーに情けをかけてくれるなら、今回を含めてあと一、二回は実施されるはずだ。
結果次第では出産を待たずに駆除されてしまう。
バカげた検査に見えて、実はエリーの知らないところでずっと命を懸けさせられていたのだ。
(ミキさん……それとも、護律協会? 抜け目ないわね)
肝を冷やされる。彼女たちの責務に沿うだけに、余計に。
ミキたちの意図を理解してしまうと、ただ小用を足すだけのことで妙に祈りたくなってくる。
(どうか結果が出ますように)
便所の中で、小水に浸った小袋に護律協会の印を切る。そうしてミキに小袋を提出した。
「キャスパー君から言伝だよ」ミキが一層げんなりして言う。「服を着替えたら執務室に来いってさ」
呼び出しに応じると、執務室に待っていたのはキャスパーとイーリャ、そして何故かミキもいた。
嫌な予感がする。
「イーリャさん、お帰りだったんですね」
「ええ。昨夕に」
イーリャは神妙な顔で執務机に肘をつき、指を組んで口元を隠している。
朝日を背負う当主代理は影を落とし、眼光を増々鋭くする。
「留守の間のことは聞いています。難局を乗り切られてお疲れのことでしょうが、まずは、キャスパー」
エリーの脳天にキャスパーのチョップが下る。
「痛い!」
「ご用心なさいと忠告した矢先に、あなたという人は。反省したように見えたのは上辺だけだったのですか?」
人命救助のためであっても、安易にアルフレッドを遣うのは避けるべきだ。
そうキャスパーに諭されたその日の内に、軽率な行動に走ってしまった。
エリーの失態だ。ぐうの音も出ない。
チョップの力加減は昨日と同じはずなのに、今日のはまた一段と脳髄に鈍く来る。
「うう、すみません……」
しゅんとしょげるエリーにキャスパーも溜飲を下げたのか、腰に両手を当てて溜め息をついた。
「しつこいようですが、今のはあくまで危機管理の杜撰さに対する罰であって、行為と結果の是非はまた別問題です」
「それくらいになさい、キャスパー」
イーリャがキャスパーを下がらせ、前に出る。エリーの手を取り、持ち上げ、顔の前で握る。
「バーンズ夫人のご容態は絶望的だったと聞いています。息を吹き返されたのは奇跡だとも。当村の代表として、深く御礼申し上げます」
視力の弱いイーリャは、人の近くに寄るとほんの少しだけ、眉間のしわが薄くなる。
「本当に、本当に良く頑張ってくださいましたね、エリー様。それから、露術の道にご入門、おめでとうございます」
鼻の奥にツンとくる。
思い返せば、エリーの戦いは、心の内側で孤独を強いられていた。
肉体の支配権をアルフレッドに明け渡し、スペイを助けるためには血の一滴の操作も奪い返す訳にはいかない。
挫けそうになっても助けすら呼べない。
罪の告白という最後の救いすら、アルフレッドに妨げられてしまうはずだった。
そうならなかったのは、露術が術師の助けに応える術であり、大小様々な運命が偶然にも噛み合ったおかげに他ならなかった。
イーリャの称賛は、エリーの身に余る。
アルフレッドの力を利用しようなどと思い上がったエリーには、相応しくない。
けれどもイーリャはキャスパーから事情を聞いた後でさえ、エリーの心の中での努力と、命を救いたいという素朴な真心を認めてくれたのだ。
冷徹な眼差しで俯瞰し、平静を保っていたエリーの自罰意識が氷解する。
「ありがとう、ございます……」
エリーはイーリャの手を握り返し、目元に寄せる。自縄自縛が溶け落ちるまでの間、その手を借りていた。
「さて、畏れながら」
キャスパーが懐中時計を閉める。
「エリー様には繰り返しとなるご説明でございますが、ご容赦くださいませ。ご承知の通り、危機感の欠如と人命尊重は別の話です。ただ、今回はそれらに加えてまた他のお話がございます。こちらにご注目ください」
慇懃な声のキャスパーに釣られて顔を上げると、キャスパーの拳がミキのこめかみを捉える瞬間だった。
スパァン! と拳は快く振り抜かれ、ミキが頭から床に叩きつけられる。
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