011 抹殺洗礼式④:かくれんぼ
エリーが逃げこんだ商館の一階も水浸しだった。
建材や家具が永く水に蝕まれたのだろう。木材の腐臭が淀んでいる。
元は受付だったであろうカウンターにほこりが厚く積もっていた。
その厚みを指ですくった途端、背後からヘーゼルの怒号が届いた。
エリーは肩を弾ませて驚いた。
行儀が良いとは言えないヘーゼルだったが、決して粗暴ではない。
そう理解し始めた矢先のことなので、猶更だ。
狙われている。ヘーゼルはそう言っていた。
苦痛を噛み殺すような声と、見せつけられた針が、事実を物語っていた。
ヘーゼルの言いつけを守って、ナイフを抜く。
(狙われているって、どうして私が)
唐突に突きつけられた危機がエリーの動揺を誘う。
(私が何をしたって言うの。記憶を失くす前に、一体何があったの)
沈思黙考を、オオカミの遠吠えが破る。次いで、水の破裂するような音。
「ひっ。何、なに?」
外の様子を知る由もないエリーは、出入り口から離れるようによろめいた。
ヘーゼルのことは心配だった。
けれども、隠れろという指示に背くのはヘーゼルへの裏切りだ。
それに戻ったところで自分が何の役に立つのか想像がつかない。
逃げるための解釈をこねくり回していると自覚し、自己嫌悪を抱いた。
同時に、そう解釈することで、ヘーゼルに任せるのが最善だとも理解できる。
もどかしい。
だが今はヘーゼルを信じて、敵を追い払ってくれるまで身を隠しておける場所を探そう。
商館の階段を上がる。
水浸しの靴が重い。段を上がるたびに水が滴り、古くなった建材が嫌に軋む。
煤けた壁に手をついて二階へ上ると、鎧か像らしい物が残されていた。
展示用に広く設けた空間に、人型の何かが飾られている。
防塵布をかけているので中身はわからない。けれど、シーツを被った人間は、丁度こんな姿になる。
それに【おっと。床の違和感に勘付いたか。だが、心尽くしの歓迎には応えてやれ。
忘れろ】
立ち眩み。頭の中が揺れた気がして、エリーは額を押さえる。
(今、一瞬、何か――)気づき損ねた気がする。
掴み損ねた何かを追って、俯いて【、目をつむって頭を振る。
顔を上げ、布をかけた人型を見上げる。
どうってこともない物が、いちいち薄気味悪く見えてしまう】。
廃墟って、何て嫌な場所なんだろう。
エリーは極力、布の下を想像しないよう像を避けて、慎重に廊下へ一歩を踏み出した。
【ほら、怖いぞ。後ろから来るぞ】
耳元で男声にからかわれた気がした。
どこかで聞いた声だが不気味で、エリーは「わっ」と叫び、反射的に振り返る。
すると丁度、防塵布の人型が一歩を踏み出す寸前だった。
足音を立てる瞬間を、目撃する。
「おっと? 勘が良いじゃん。さっすが、悪女様は違えや」
重い布を脱ぎ捨てながら、それは軽薄な調子で語る。
悪女と言った。
軽い口調とは裏腹に、悪意が露わだった。
そんな悪意を秘めて、堂々と待ち構えていた人間の目の前を、そうとは知らずに通り過ぎたのだ。
いや。エリーは知っていた。
ほこりの積もった床に、真新しい足跡があったのだ。
(何で。ちゃんと気づいたはずなのに。どうして、こんな目立つ痕跡を、忘れて……)
エリーは青褪めて、固まってしまった。
悪意の布の下から、ナイフの鈍い光が姿を現す。
「かくれんぼじゃ敵わねえかあ。生き延びる秘訣とか、やっぱあんの?」
布の下も、やはり布。岩を模した迷彩に身を包んだ男だ。目が笑っている。
覆面の下に下卑た笑みを浮かべている類の、嫌らしい目元だけが見えている。
男はナイフの切っ先を弄びながら「あれ。ね、聞いてんの」と気安く声をかけてくる。
一歩、近寄られた。
エリーは一歩下がろうとして、脚に熱がかすめた。
脚がもつれて尻もちをつく。
床に男のナイフが刺さっていた。投擲された刃が、ふくらはぎをかすめていた。
それは、男が崖上で拾ったナイフ――空だったエリーの鞘に合う刃渡りの物だ。
傷から血の滴がぷつぷつと結ばれていくのを目にして、遅れて痛みを感じた。
エリーの脚がガクガクと震え、奥歯がカチカチと鳴った。
「ちょおーっと、ちょっと。今、見て避けなかった? マジ? この暗さで? ちょー頼むぜ。これ以上手こずらせんじゃねえよう」
ふざけた態度に加虐の悦を含ませて、男がゆるりとエリーに迫る。
殺される。逃げなければ。傷は浅い。走れる。
ヘーゼルのナイフを落としたことも忘れて、エリーは自分にに言い聞かせた。
立ち上がって転進しようとしても、逃げ足が床を滑ってしまう。
空回りを繰り返し、やっと足が床を捉えた。
逃げるまでにかなり時間をかけてしまった。
にもかかわらず、男は半分も距離を縮めていない。
男は悠々と床に刺さったナイフを抜き、エリーが借りたナイフも拾う。
ほんの短い距離を走っただけでエリーは息を切らしてしまった。
エリーは急いで、一番近い応接間に閉じこもる。
扉に錠がついている。ノブを回す。幸い、錠の機構は生きていた。
そばにあったローチェストを扉の前にずらすと、扉を破る勢いで、外から男が体当たりを始める。
「おぉい、行かないでおくれよお。お話ししようぜえ。こんな毛嫌いされちゃあ、俺、傷ついちまうよお」
タガが外れた嘲笑と、男の体躯が、扉に衝突し続ける。
扉をナイフで削る音。続いて、錠の金具がカタカタと鳴る。
ナイフでこじ開けようとしている。
エリーは椅子やテーブルも、時間と力の許す限りバリケード作りに費やした。
応接間で動かせる物を動かし尽くし、背を壁に預けて崩れ落ちる。
息が上がる。もう一歩も動ける気がしない。
いつの間にか、扉の向こうは静かになっていた。
(諦めた……?)
数刻の間を置いて、緊張の素をたっぷり含んだ溜め息を吐き出した。
次はどうしよう。手が寂しいことに、やっと気づいた。
「あっ、ナイフ……!」
借りたナイフがない。途端に心細さが襲い来る。今、襲われでもしたら抵抗できない。
ヘーゼルの助けは待てない。他の逃げ道を探すしかない。
応接間をぐるりと見回しても、扉の他に出入りできそうなのは、窓しかない。
(窓から出たとして、どう逃げれば良いの)
考えている内に、ガラスの割れた格子窓から、ヘーゼルのナイフを握った腕がにょきっと生えた。
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