001 奈落の底から始まる物語
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」――ルカによる福音書 1章28節
険しい崖を、二人で転がり落ちている。
夜霧に隠された転落だった。助けを呼ぶなど望みようもなく、男と女は谷底へ死に急ぐ。
意識を失う前、どこかで止まるのを一心に願い、全身で祈り手を組むように固く抱き合った。
他に成す術などない。ただ、峩々たる岩肌へ叩きつけられるがまま、男は残留思念を頼りに女を庇う。
一打ごとに男の体内で肉と骨髄が混ざっていく。逆に風化した岩の方が負けることもあったが、それで傷が癒える訳でも、意識が戻る訳でもない。
ただ、崖を転がる見届け人とばかりに、取るに足らない瓦礫が加わるだけ。
傷は増えるし、昏睡は深まる。頭を酷く打ってから男は呻き声の一つも上げられなくなっていた。
男は己を顧みず女を守った証を立てるかのように、ひたすら頭を崖に打ちつけ、おびただしい数の血判を残していく。
それでもまだ証は足りないのか、男の意思なき腕は女を放さない。
だが、頑ななまでの献身にも、とうとう限界が訪れた。
女を抱きしめていた腕は次第に解けていき、崖からせり出した巨岩に衝突した拍子に、二人は離れてしまった。
霧の向こうに男は呑まれ、女は独りで崖を落ちる。
転落の最中、女は無意識に身体を丸めて、腹を守った。
二人の離別を境に、崖には緑が増えていく。
女はマツの灌木をへし折り、ときに枝のしなりに弾き返され、これまで彼が引き受けていた傷のツケを払って余りあるほど揉まれ続ける。
霧と岩と緑とに切り裂かれた末に、女は奈落の底へ至った。
そこは霧深く、水と森に侵された廃墟があった。
廃れた壁と柱が苔むして、在りし日の威容を辛うじて伝える聖堂だった。
その廃聖堂は、屋根が腐り果てて空を拝んでいた。女が屋根を素通りする。背中から梁に激突し、エビ反りでひしゃげ、汁気のある生肉が粘るように垂れ、滴るように落ちる。
落ちる先には、一基の聖母子像――ピエタがたたずんでいた。
石膏でできたそのピエタは、長らく霧雨と隙間風に曝されて、風化している。
ピエタならば、聖母の腕の中に神の子の死に姿があるはずだ。しかし、ない。空しく開かれた両腕に虚ろを乗せて、聖母は今日まで静かに俯いてきたのだろう。
女は頭から、聖母の頭部に衝突した。
くすんだ石膏の白に、弾ける形の血痕が付着する。女の頭蓋骨が破裂し、皮と肉が削がれ、内組織が飛び散る不協和音が、廃聖堂に響く。
女は自らの血に滑るようにして、丁度、不在の神の子の代わりとなるように、聖母像の腕の中へ墜落した。
遅れてはらはらと、砂礫と枝葉が聖堂内に降り注ぐ。
女は微かに動いていた。しかし、それは生ある者の動きではなく、脊髄反射が見せる命の残響にすぎない。体温を失いつつある肉体は、もはや幻覚ですらない仮想の苦痛から逃れようとして、びくん、びくんと、痙攣する。
聖母に看取られながら、何をも唱えない、無呼吸の喘ぎ。
今更、聖女や神の出る幕ではない。誰が貴様に縋ろうものか。誰が貴様に祈ってやるものか。
死せる女の喘ぎは、そう物語るかのようだった。
頭の裂傷から溢れた血を白目に溜め、涙のように流す。
そして聖母像もまた、腕の中で冷たくなりゆく子のために、真っ赤な血の涙を流した。
女が衝突し、血痕がべったりついた箇所から石膏が崩れ、中からガラス玉が露出する。
真鍮の蔦細工で補強されたその玉の中には、深紅の血が満ちていた。
ガラス玉の中でどれほどの歳月を経たのか、その血は眠れる鼓動を打ち、確かに生きている。
衝突の余波でガラスにひびが走る。僅かなひびから血は逃れるように流出し、あたかも聖母が、哀れな女の死を嘆くかのような、滂沱の血涙となって頬を伝い、顎から流れ落ちる。
血飛沫を上げて胸にびたびたと注がれる血が、女の不本意な死に装束に染みていく。
にわかに、血の染みがさざめいた。
血は芽吹くが如く、血の糸を方々に伸ばし、女の肢体をまさぐった。
切り傷、刺し傷、擦過傷、出血、内出血、内臓破裂、解放骨折、陥没骨折、剥離した爪、吐血……血の臭い立つ場所に、血の糸は強く惹かれた。
やがて血は、特に濃密な血の出所を嗅ぎとった。
割れた頭から止めどなく流失する血液。身体中の傷に散った血が女の頭に群がって、傷の中へ侵入する。聖母像の台座に流れていた血をも絡めとり、女の頭脳に己を満たしていった。
血の糸が、頭の割れ目を内側から縫い閉じる。傷の合わせ目に爛熟した血液が満ち、女の体内を巡り始め、全身の傷を急激に、無理矢理に塞いでいく。
やがて、剥いた白目がぐるりと瞳を取り戻した。
白目の隅々まで赤く染めて。
「けっほ」
女が肺に溜まった血を吐き戻した。同時にその血反吐を追って口内から血の糸が伸び、一滴余さず吐血を絡めて引っこんだ。
女の痙攣は止み、おぞましく見開かれた目がウトウトと夢現をさまよった。血走りが引くように、目が白さを取り戻していく。
凄惨に血に塗れていたはずの廃聖堂からは、一滴の血痕も残らず消えた。
聖母の腕の中で眠れる乙女がやがて、安らかな寝息を立てる。女の寝息に霧が煽られる。
翻る霧の流れはあたかも、世界の片隅で人知れず昇る反撃の狼煙のように舞う。
春を待つ国の、薄暮を過ぎたとき。夜が明けるまでには、まだ遠い頃の出来事であった。
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