11W.織布
「えっ、リ、リリスさん?どうしたんですか?」
准教授がその女性に向けて声を掛けた。
リリス?何か聞いたことのある名前だな。
何時、何処で聞いたんだ。
「キキさん、新しい糸よ。出来てるんでしょ?見せてちょうだい。」
「まだ試作もしてないんですけど。もう来られたんですか?」
「えっ、キキさん今週には試作をするって言ってましたわよ。」
「そんな事を言ったかもしれませんけど……まだ今週に入って二日目ですよ。」
その女性と准教授は何やら二人で話し始めた。
「リリスさんて、ボーナ商店の?」
「確か、店主だって言ってなかったかしら?」
「あの大店の店主が態々来たの?」
「何か凄いわね。」
「あの糸が目当てなんじゃない?」
「お幾つなのかしら、綺麗な人よね。」
オレ達のグループの女性達は女性達でコソコソ内緒話を始めている。
そうか、メーテスに協力してくれている店主の説明があったな。そこで聞いたのか。
准教授とそのリリスさんという女性が凄い勢いで話をしているのを聞いていて二人が何を言い合っているのか判ってきた。
オレ達の前のグループで作った糸を布に織り上げてみたところ、肌触りも光沢もこれまでの布とは一線を画していた。
ただ、残念なことに洗濯をすると縮んでしまう。その上布自体がかなり弱くなってしまったらしい。
この状態だと商品にならない、どうにかして欲しいと、リリスさんから准教授はかなり強く要求されていたみたいだ。
先週二人が合ったとき、准教授はリリスさんに、新しい素材のメドが立ったので、今週試作すると伝えていたらしい。
以前試作した時には試作そのものは一日で終っていた。
ただ、准教授はリリスさんに作業をする文官のグループが今週から入れ替わるということまでは伝えなかったみたいだ。
入れ替わりがあれば、研究室の説明も必要な上、作業を手順などを教えなければならない。
それが昨日と今日の午前中だったので、これから試作を始める訳なのだが、リリスさんは、昨日から試作をしていると思い込んでいた。だから、試作した糸は今日にはあると思っていた。ところが糸が出来たという連絡が来ない。それで訪問してきたらしい。
どれだけ期待しているのかという事になるのだが……凄いな。
「そうだったんですか……王宮からいらした方達の仮配属の変更ですか。そんな話は聞いていませんでしたね……確かに以前お会いした文官の方達とは違う方達の様ですね。
今回試作を手伝って下さるのは、貴方達なのね。
挨拶が未だでしたね。
始めまして。ボーナ商店で店主をしているリリスです。
宜くお願いしますね。」
「いえ、こちらこそ宜くお願いします。」
今回もイルデさんが代表して挨拶をした。
「慣れていないと大変でしょ?
ウチも製紙工場を立ち上げるときには、怪我をしないようにするための教育が大変だったみたい。くれぐれも怪我をしないように作業してくださいね。」
「それは、午前中に終って……」
「えっ?それはもう終っているの?
じゃあ、今はどうなっているの?」
「試作する条件が出たところで……」
「製造条件はもう出ているって……それじゃ、新しい糸はあるんじゃない。
見せてちょうだいよ。」
なんか凄いな。イルデさんの話が終る前に応答している。
やっぱり、大店の店主ともなると判断が早いんだろうか……。
「えーと。それじゃ、ここで話をしても作業が進まないので、作業場で話をしましょうか。
条件を決めた時に作った糸が少しはありますから、リリスさんにはそれを見てもらいましょう。」
准教授に促されてオレ達とリリスさんは、先刻まで作業をしていた部屋に向かった。
オレ達は、准教授の指示で昼食で中断していた作業を再開した。
午前中に設定した条件で糸を作り始めた。
准教授とリリスさんは、部屋の奥にある机の前で、最後に製造条件を確認した糸を見ながら話をしていた。
オレは作業の合間合間でその様子を伺っていた。
二人は拡大鏡を持ち出したり、水の入ったビーカーを使ったりしていた。
最後には、試作した糸を水に浸けて引っ張ったりしていた様だ。
「確かに前の糸が改良されてますわね。
ふふふ。どんな布が出来るか楽しみだわ。
それじゃ、夕刻に人を来させるから、出来上がった糸を渡してもらえます?
私は戻って布を織るための準備をしておきますね。」
そう言うとリリスさんは颯爽と部屋を出ていった。
糸の製造が始まった。
あとは、オレ達は製造の状況を監視していれば良い。
「さっきのリリスさんだっけ。何か凄かったな。ああじゃないと大店の主人って務まらないのかな?」
ハムが溜息混りに呟いた。
「ボーナ商店って、5年前まではマリムの普通の商店だったらしいじゃない。紙の製造とアトラス布で大きくなったって聞いたわ。」
マラッカさんがハムに応えた。
「たった5年で?王都でボーナ商店の名前を知らない人は居ないだろ?凄いな。」
感心した様子でアンゲルが話す。
「それだけ商売が上手かったんじゃない?
それに、漂白した白い布や、鮮やかな色の布、蝋纈染めの柄の入った布なんてそれまで無かったのよね。」
オレは服飾関係の話はあまり詳しくない。気になったので聞いてみた。
「この糸って、どうなんだろう?」
「さあ?どうなのでしょうか。
前の糸で作った布は洗えないってことだったみたいですね。流石に水に浸けて縮んでしまうのではどうにもならなかったのでしょう。今回の糸が縮まなかったら、一歩前進なのじゃないかしら?
あの光沢や肌触りはこれまで無かったものだから、そんな糸を手に入れたらボーナ商店はさらに大きくなるのではないかしら?
今は王国一の服飾店だけど、世界一の服飾店になるかもしれないわね。」
オレの質問にモンさんが応えてくれた。
「世界一の服飾店って?」
「西のどこかの王国に大きな商店があるって聞いたことがあるわね。
王都だとトマッシーニ服飾・宝飾品店がその商店の布を扱っているらしいわ。
まあ、ヒラの私達がお目にかかることは無いでしょう。
最低でも管理官ぐらいにならないと無理ね。
王宮の晩餐会で、高位貴族のご夫人方が着てるんじゃないかしら?」
「あっ、それ知っているかも。ウチの母の衣装をそのトマッシーニで誂えたときに、アトランタ王国のバルドスって店の布を使ったって言ってたかな?」
「そうそう。そんな名前の店よ。アンゲル凄いじゃない。」
マラッカさんが素見し気味に応じた。
オレは知らなかったけれど、大陸中に知られている服飾店なんてあるんだ。
「まあ、一応ウチの実家は子爵家だから。
そうは言っても文官になった段階でオレには関係無くなってるけどな。」
「はいはい。アンゲル以外のメンバーの実家は男爵だから、縁が無いわ。」
「いや、別に実家自慢をした訳じゃないぞ。」
「それも分ってるわ。ただ、貧乏な男爵家にはトマッシーニなんて夢のまた夢よ。」
それから順調に試作は続いた。夕刻には1/2キロの原料を使ったあたりで今日の作業は終了にした。
原料は概ね1キロあるそうなので、明日、作業をすると全て使い終えるはずだ。
終業時刻になったところで、ボーナ商店の番頭をしているという男性がやってきて生産した糸を全て持っていった。
店主に引き続いて番頭までやって来るのか。
やはり随分と期待をしているんだろうな。
翌日。
朝から昨日の続きの作業を実施した。昼前には原料が無くなったので一旦糸作りは終了した。
その日は使った道具の洗浄をして一日が終了した。
色々と細かな決め事があるのを知った。
ニケさんの指導で蒸発し易い有機物の液体はそのまま放置しないで、できるだけ回収することになっている。
アセチルセルロースの溶液を流した道具は分解して、塩化メチレンに浸けて洗う。
この時、塩化メチレンが蒸発するので、それを回収するために、部屋の隅に設置してあるドラフトというキャビネットみたいなものの中で作業をする様に指示された。
このドラフトという道具は、空気を吸い込んでいて蒸発した塩化メチレンは外に出てこない仕組みになっているのだそうだ。
全面の扉は厚いガラスになっている。上に滑らせると全面が大きく開く。浸け置き洗浄している間はそのガラスの扉を下げておく。完全に閉めないで、下の部分に隙間があるようにしておくのだそうだ。
実験の時の排気装置にも、このドラフトという装置にも気化した有機物を回収するための仕組みが付いていると言っていた。
夕刻になって、前日にやってきた番頭という男性が作った糸を全て引き取っていった。
それからは、さらに必要になるかも知れないという事でアセチルセルロースを作ったり、アセチルセルロースの製法の考案税の申請書を書いたりする作業を手伝ったりしていた。
アセチルセルロースの製造は、無水酢酸という試薬と濃硫酸を使った作業だった。
かなり危険な薬品だという事で、完全防備で作業した。
辟易したのは、かなり臭いという事だ。
糸を作ったときの塩化メチレンも変な臭いがしていたが、こちらはかなり強烈な臭いだった。
確かに料理で使う酢の臭いなのだが、それを濃縮したような臭いは耐え難かった。
ただ一人イルデさんだけが楽し気に作業していたのだが……。
そんな風に二日ほど過して、明日は休日という日にリリスさんが研究室にやってきた。
リリスさんは白い布を持っている。
「あら、リリスさん。どうかされましたか?」
准教授が驚いていた。
オレも意外だったし、グループのメンバーも同じだったのだろう。皆で不思議そうな表情を浮べていた。
オレは織物の事は良く知らないが、あの量の糸で反物を作るんだったら、1,2週間は掛かるんじゃないかと思っていた。
あの糸でちょっと織ってみて、何か不具合でも見付けたんだろうか?
「昨日、出来上がった布を使って色々確認してみたのよ。」
「あら、そうなんですね。どんな感じでしたか?
でも、まだそんなに織れていませんよね?」
「いえ。全て織って布にしましたわよ。」
「えっ。全てですか?まだ二日しか経ってないですよね。」
「織子の人達を集めて三交代で作業をさせたの。それで二日程で全ての糸で布が織れたわ。
以前の再生セルロースでしたっけ、それと遜色ないほどの光沢と手触りの布にになったわ。
水で洗ってみたんだけど、殆ど縮むこともなかったのよ。
キキさんの言った通りに改善されていたわ。
昨日、汚して洗ってみたり、プリーツを作ってみたりしたのよ。
何より凄いのが、作ったプリーツが洗っても消えないのよ。
こんな布は初めて見たわ。」
そう言ってリリスさんは持ち込んできていた布をテーブルの上に置いた。
平たい布の他に、折り目の付いた布が何枚もあった。
その話を聞いていた女性達は一様に驚いていた。
何が驚きなのか良く解らない。
そもそもプリーツって何なのだ?
「なあ、プリーツって何なんだ?」
つい口に出してしまった。
「これだから男の人って。」
呆れ顔でモンさんが応じてくれた。
「プリーツって、衣装にある襞のことよ。衣装の肩に掛かるところとか、裾に折り目が入っていたりするでしょう。
その折り目は、衣装を洗うと無くなってしまうのよ。だから洗う度に熱を加えて折り目を付け直すの。
それが洗濯しても消えないというのは画期的なことなのよ。」
そうだったのか。
オレは折り目の付いた衣装は洗うと折り目が無くなるので、適当に折り曲げ直して着ていた。
そんな事をするのが面倒なので、購入する衣装は折り目の無いものを選んでいた。
そんなものなんだと思っていたのだが。
態々熱を加えて折り目ってやつは元に戻すのか。
子供の頃に王都に移動して、そのまま一人で暮していたので誰からもそんな事を教えてもらったことが無かった。
「あっ、なるほど。そうかも知れませんね。」
突然、キキさんは納得顔で声を上げた。
「キキさんは、プリーツの事を知っていたんですか?
先に言ってくれれば良かったのに。」
「いえ、プリーツのことまでは知りませんでした。だけど、アセチルセルロースは熱を加えると柔らかくなって、冷えると固まる性質があるんですよ。ニトロセルロースとカンファーみたいに。ただ何か添加しないと同じようにはならないんだと思っていたんですけどね。
なるほど。そんな効果が既にある訳ですね。」
「ごめんなさい。何を言っているのか解らないんだけど……。
ただ、プリーツが洗ってもそのままってことはとても画期的なことなのよ。
あの肌触りで、プリーツも綺麗に出来るなんて、これまでの布では有り得ないでしょ。
それでね。あの糸の工場を造って生産するってことはできないかしら?」
「えっ、工場ですか?」
「ええ、工場よ。
だって、えーと、化学反応って言うのよね、それをしないと作れないんでしょ。
綿や麻は農地さえあれば作れるけど、あの糸はそういう訳にいかないじゃない。
工場を作って沢山生産したいのよ。」
「えーと、工場となると……ニケさんやアイルさんの手を借りることになるんですけど。
お二人は飛行船作りをしている筈ですから、相談してみないと何とも……。」
「それじゃ、相談してみて。お願いだから。
あと、先日の倍ぐらいの糸も欲しいんだけど。
あの糸で衣装を作ってみたいのよ。
ウチの衣装担当の従業員達も凄く乗り気なの。
プリーツをふんだんに使った衣装なんてこれまで作っても後が大変で売り物に出来なかったの。
あの布で、プリーツを沢山使ったら、どんなに素敵な衣装になるか……。」
リリスさんは夢を見るような表情になった。
「もう。分りました。アイルさんとニケさんのところに頼みに行きましょう。リリスさんからも頼んでくださいよ。」
そう准教授が言うと、リリスさんを引き連れて外に出ていった。
えーと。オレ達はどうするんだ?
「多分、また糸を作るんじゃないかな。準備しておこうか。」
アンゲルの言葉でオレ達は作業を開始した。
まずはドラフトに浸け置きしていた道具の部品を取り出すことからかな。




