11N.絲
「作業服は支給されました?」
一通りの説明が終って、時間が少しあるからと、明日以降糸を作るために作業をする場所に案内された。
休日だった昨日、宿舎の配達箱の中に支給品の作業服一式が入っていた。
何度かマリムの店舗や高級な飲食店で見た事のある筒袖、筒脚の衣装だった。
着てはみたものの違和感しかなかった。
体には合っているんだと思うのだが、脇の下とか股の部分とか布が張り付いているという感覚には違和感しかなかった。
「はい。昨日支給されていました。」
イルデさんはやる気満々だな。
オレは、天然物研究室の作業を教えてもらったのは良いが、脱力感しかなかった。
そう、例えて言えば、朝出仕してみたら自分の机に未処理の書類が山のように積み重ねられていた時のような脱力感だ。
多分、イルデさんを除いたメンバーは皆同じ様に感じたんじゃないだろうか?
一様に疲労感というか諦めの表情を浮かべていた。
作業自体は理解できたのだが、物凄く大変そうだった。
今朝の冒頭に准教授の挨拶で、人手はいくらあっても足りないと言っていたけれど納得だった。
准教授が先刻説明していた作業を一人で実施していたんだとすると驚く他無い。
当然の様にところどころ全く理解できないところがあった。
一番理解が出来なかったのは分析の部分だった。残念ながら概略しか説明してもらえなかった。
教科書を読むか、分析化学研究室に仮配属した時に詳細を聞いてくれという事だった。
まあ、仕方が無いのかもしれない。
理解できなかった極めつけはNMRだった。全く理解できなかった。
そもそも磁場って何なのだ?磁石と同じでと言われても、そもそも磁石なんて物を見たことが無い。
分光光度計で測定しているのは赤外線という名称の光なのだそうだ。その光は目に見えないと言っていた。
目に見えるものを光と言うんじゃなかったか?
言葉の定義が変わったのか?
そもそも目に見えない光って何だろうか?
無線機で使う電波というものも光と同じ様なものだと説明を受けてはいた。光に似たそういう物があるんだと漠然と理解していたのだが、その赤外線も電波も全て光と同じものだそうだ……。
物理の教科書に記載されていると言われた。
化学研究所の研究室で物理も勉強しなければならないとは思ってもみなかった。
「それでは、明日はその作業服で出仕するか、研究室で作業服に着替えてくださいね。
まずは、安全のための説明をします。」
作業する部屋は、かなり広い。
中央に不思議な形をしている道具が設置してあった。
「万一、薬液を浴びるようなことがあったら、躊躇わず水を浴びてください。
薬液が皮膚に大量に付くと火傷の様な怪我を負ってしまいますし、最悪命に係わります。
そんな事になるより水でズブ濡れになった方が遥かにマシですから。
この紐を引っ張ると上から大量の水が出てきます。
肝心なのは、速やかに薬液を残さないように洗い流すことです。」
准教授はそう言って、紐を引いた。
ヴバアァァァァァ
その上にある直径d10デシほどの大きさの道具から大量の水が落ちてきた。
浴室にあるシャワーの大型版だな。
再度紐を引くと水は止まった。
准教授が操作したのと同じ道具は、部屋のそれぞれの壁の中央に一つずつあった。
「目に薬液が入ったり、目に異常を感じたら、こちらの道具で目を水で洗ってください。
この取っ手を下に下げるとこんな風に水が出てきますから目に水を当てて洗い流すようにしてください。」
先刻大量の水を降らせた道具の隣に、腰の高さぐらいの位置に二股の筒が上に向いている道具があった。
准教授がその道具の脇にある平な板の様なものを下に押すと二股の先から水が上に向って出てきた。
あの上向きに出ている水で目を洗えと言っているんだな。
准教授が平な板から手を離すと水は止まった。
「作業をする時には、この安全メガネを掛けてください。」
その安全メガネというのは普通に見るメガネとは形が違っている。メガネより大きくて目を覆うような曲面になっていた。耳に掛ける部分もメガネ本体と同じ透明な素材で出来ている。
透明な素材なのだが、ガラスとは違ってとても軽い。
「これって、ガラスじゃないですよね?」
その安全メガネを手にしてイルデさんが質問をした。
「この素材はポリカーボネートと言うのだそうです。今のところニケさんの魔法でしか作ることが出来ない素材です。その素材をアイルさんの魔法でメガネの形にしたものです。
コンビナートで作業している人達も使っています。
薬液の中には目に入ると失明してしまうようなものもありますから目を守るために、作業をしているときにはこの安全メガネを掛けて下さい。
特殊なものですけれど、破損したら遠慮すること無く、新しい安全メガネに替えてください。
安全メガネはニケさんとアイルさんのお二人が居れば幾つでも作ることが出来ますけれど、失明したりしたら取り返しが付きませんからね。
壊れた場合には、回収して再利用しますから、あそこにある回収箱に入れてください。」
そう言って、准教授は部屋の入口脇にある箱を指した。
「手に薬液が付いたら、石鹸で洗って、大量の水で流すようにしてくださいね。手を守ることが第一ですが、手に付いた薬液が壁や道具に付くと、それと知らずに他の人が触るかもしれません。
手に薬液が付いたり、道具や床に薬液が付いた場合はかならず除去してください。
どうすれば良いか分からなければ、遠慮無く私に聞くようにお願いします。」
「あとは……そうですね、今回の女性メンバーの方達は髪が長いので、作業をする時には髪を纏めてくださいね。今回の作業では火は使わないのですが、化学実験をする場合には髪に火が着いたり、薬液に触れたりすると危いですから。
もし、髪の毛を纏めるものを持っていなければ、ここにある道具で纏めてもらっても良いです。」
グループメンバーの女性は皆髪の毛が長かった。
イルデさんが一番長くて腰のあたりまで髪の毛がある。モンナさんもマラッカさんも胸のあたりまでの長さだ。
准教授が指したところには金属製の歯のような形をしている道具があった。歯の反対側の摘むところを握ると歯が開いて手を離すと歯が閉る。
女性達はその道具を興味深げに見ていた。
「これってどうやって使うんですか?」
その不思議な道具を手にしてマラッカさんが聞いた。
キキ准教授は髪の毛は短く切っている。
「私の髪は短かいからやって見せることが出来ないので、あなたの髪の毛を触っても良いかしら?」
マラッカさんが同意すると、准教授はマラッカさんの後ろに回って、髪を束ねて持ち上げてその歯の様なもので挟んだ。
「わぁ、良いですね。簡単に髪の毛が束ねられるんですね。それに、金属なのに随分と軽いです。」
「そうでしょ。私には必要ないんだけど、王宮の文官の人が来たときに、ニケさんに頼んで作ってもらったのよ。
あっ、作ったのはアイルさんだわね。でもニケさんがアイルさんに頼んで作ってもらってたから、ニケさんが作ったので良いのかな……?
ヘアクリップって言うんだそうよ。」
「へぇ、そうなんですか。
アイルさんが作ったものならお店で売ってたりはしないんですよね?」
「さあ、どうかしら?
作ったのが半月前の事で、考案税申請書も申請済みだから、ひょっとしたらもうどこかで作って売っていたりするかも。
エクゴ商店あたりだと、もう扱かってるかも知れないわね。
あそこは考案税申請書を調査する専門の人が居て、申請書が出ると直ぐに商品にして売っているから。」
「そうなんですか?じゃあ今度マリムに行った時に探してみます。」
「あのぅ。仕事をするのに髪の毛は准教授の様に短かい方が良いんですか?」
かなり真剣な面持ちになったイルデさんが准教授に聞いた。
「えっ?
いいえ、私の髪が短かいのと仕事とは関係ないわ。
私が髪を短かくしているのは、髪質の所為。
10歳ぐらいの時に髪を伸ばそうとしたんだけど、何ていうか……毛を刈る前の羊と言うか……癖毛が絡まって大変な事態になってしまったのよね。
もし私の髪が貴方の様に長くしても纒まりがあったら、私も髪を伸ばしたかったわ。
だから、私の髪が短いのと仕事とは何の関係も無いんです。
ひょっとして、この仕事をする為に髪を切らなきゃならないと思った?
ないないない。それは無いから。
折角そこまで伸ばした美しい髪を切るなんてことはしないで下さいね。」
それから、部屋の中央に置いてある糸を作るための道具の簡単な説明を受けたところで終業時刻になった。
「これは塩化メチレンという薬液です。アセチルセルロースはこの塩化メチレンとクロロホルムには溶けるんです。他に溶けるものを見付けられていないんです。
ニケさんに相談したところクロロホルムは毒性があるので、より安全な塩化メチレンを使うことになりました。
それほど毒性は無いんですけど、塩化メチレンを扱う時には、このガスマスクを付けて作業してください。」
色々な説明を受けた翌日。早速糸を作るための作業をすることになった。
糸を作る道具は幾つもの道具の組み合わせで出来ていた。
溶液を装置に吸い込ませる部分。ここには排気装置が付いていた。溶媒を吸い込んで回収するのだそうだ。少し大きめの容器にアセチルセルロースを溶かした溶液を入れて、道具から伸びている金属製の凸凹している筒を突っこむと溶液が吸い込まれる。
この凸凹している筒は金属で出来ていると思えないほど良く曲る。不思議だ。
その先に吸い込んだ薬液を細い穴から溶液を噴出する部分がある。
この細い穴から出た溶液は溶媒の塩化メチレンが蒸発するととても細い糸になる。
そのとても細い穴は円盤型をしている板状の部品にd10(=12)個あって、噴出している間、その円盤がぐるぐる回る。
溶液が乾燥してとても細い糸になったものを縒り合わせるために回っているそうだ。
噴出されて糸になったものは、円盤の先にある細いリングを通って一本に纏まる。
円盤は全部で6個あって、一遍に6本の撚り合わされた糸が出来る。
この溶液を穴から出しているところにも廃棄装置が付いていた。
糸が出来る時に蒸発する塩化メチレンをここでも回収しているのだそうだ。
糸は撚られて一本に束ねられる。その束ねた糸は滑車を何箇所も通り、最後に巻き取られる。滑車の部分は糸に力を加えている。糸が切れるとこの滑車が動いて装置全体が止まる。
その止まる仕組は先程聞いたシーケンサというもので制御していると言っていた。
「この細い穴から薬液が出て、塩化メチレンが蒸発するとアセチルセルロースが析出して糸になります。
糸を巻き取る速度と薬液が穴から出ていく量が丁度良いところを探す必要があるんですよね。
さらに、この穴の部分は加熱してあって、塩化メチレンが蒸発する速度を決めています。
塩化メチレンの沸点はd49.7度(≒40℃)なのでそのぐらいの温度にしてますけど、状況を見て適切な温度に設定する必要があります。
あとは、原料の濃度ですね。
噴出量、噴出時の温度、原料の濃度を調整しないとならないんです。
あっ、条件を出す時には失敗しても良いんです。
失敗した糸はまた塩化メチレンに溶かして再利用しますからね。」
それから試行錯誤を繰り返した。
まず、穴の部分の温度と押し出す量を記録を取りながら何度も変えていった。
温度が高いと糸が切れてしまって巻き取ることが出来なかった。温度が低いと糸になる前に床に置いてある金属の皿の上に滴り落ちてしまう。
押し出す量が少ないと、巻き取る速度に負けて糸が切れてしまう。逆に量が多いと糸が絡まって巻き取れなくなる。
上手く行く条件を見付けたら、今度は原料溶液の濃度を変えて上手く行く条件を探す。
なるべく上手く行く条件の幅が広いところを探していった。
これで良いかなと思えるところに到達するのに1時半(=3時間)ほど掛かった。
少し早めの昼食を摂って、本格的に糸の生産を始めるのは食後ということになった。
「ふふふ。やっぱり人手があると違うわね。これを一人でやろうとすると、見なきゃならないところが多過ぎてとても無理なのよね。
一人でやっていたら、条件を出すだけで何日も掛かってしまうのよ。」
昼食の間中、キキ准教授は上機嫌だった。
研究室に戻ると、研究室の入口の前に中年の女性が居た。
「キキさん。新しい糸が出来たんですって?見せてちょうだい!」




