119.NMR
「去年の中頃にエヌエムアールって名前の道具が出来たのよね。」
「何ですか?そのエヌエムアールってのは?」
「核磁気共鳴という言葉を略したものらしいわ。これを使うと、有機分子の原子がどう繋がっているのか分るのよ。」
「カクジキキョウメイですか?
……それをどう略すとエヌエムアールになるんです?
大体略されてないじゃないですか。音の数が全然減ってないですよね?」
「そう言われればそうね。
だけど、ニケさんとアイルさんの二人が使っている言葉について考えてもムダだわ。
大体、エレメントなんてd80種類もあるのに、最初から全て名前が付いていたのよ。名前をそのまま使っているのは、金とか銀とか銅とか鉛とかだけで、あとは神の国の言葉だから。
でも、それも仕方の無いことなのよね。
だって、誰もそんなものが在るなんて知らなかったんだから。
そもそも在ると知らなかった物の名前がこの世の言葉にある訳がないのよ。
『鉄』も『電気』もこの世に無かったものだけど名前が付いてるわ。
天然物でもニケさんに教えてもらった名前が付いたものだらけよ。
メーテスで使っている物の名前の大半がそんな感じよ。
数字と同じで記号かなにかだと思う他ないわね。」
「それで、そのエヌエムアールっていうのは何なんですか?」
「あっ、そうね。
えーと、去年の夏頃にニケさんがアイルさんに強請って作ってもらったんだよね。
その頃は鉄道の敷設が半分終って、メーテスの設立の準備をしてたんだけど、突然思い付いたみたいだったわ。
そうそう、こんな遣り取りをしていたわ。
何時もこういった遣り取りに二人は神の国の言葉を使うんだけど、この時は普通の言葉で話してたら記憶に残ってるのよ。」
ーーーー
「ねぇ。アイル。お願いがあるんだけど。」
「えっ?お願い?何か嫌な予感しかしないんだけど……。」
「えぇえ。そんな事ないわ。分析装置を作って欲しいだけよ。」
「随分前に、そう言われて分光光度計を作らなかったか?」
「そうね。あれは随分と役に立っているわ。」
「それで、今度は何を作るんだ?」
「NMRよ。」
「NMRって何の略だ……あぁ『核磁気共鳴』か。えっ?人体の断層写真でも撮るのか?」
「何で、NMRで人体の断層写真なんて話になるの?
あっ、それはNRIでしょ。原理は多分同じだけど、NMRは断層写真なんかにならないわよ。」
「あれ?そうだっけ。核磁気共鳴装置だろ。人体の断層写真で使っているやつ。」
「あれは、人体の水の状況を調べて断層写真にしてたんじゃなかった?NMRは単純に分子の状態を調べる装置よ。炭素や窒素の周辺の水素の付き方の違いで共鳴周波数がシフトするのを見て分子の構造を調べるのよ。」
「へぇ。分子構造を調べるのにそんなものを使ってたんだ。えーと強力な磁場が必要なんだよな。まあそれは超伝導素材があるからどうにかなるのか……。そのシグナルをどうやって検出するんだ?」
「確か、水素で……MHz、炭素で……MHzって言ってたわね。あれ?これって1Tあたりだったっけ?確かTって磁場の強さの単位だったよね?」
「磁場は静磁場で良いんだよな?その周波数は何の周波数なんだ?」
「何か、ラジオ波がどうとか言ってたかな?うーん。それ以上私は知らないわよ。
アイルは物理学者なんだから、分るんじゃないの?」
「えっ。丸投げかよ。
強力な静磁場を掛けるってことは、スピンを揃えたのか?
そんな状況で何と共鳴するんだ……スピンの順位間の遷移?ラーモア周波数か?
ラーモア周波数はゼーベック効果で……」
ーーーー
「なんて事があったのよね。最後の方は二人で何を話しているのか全々解らなかったんだけど。
その後でアイルさんは黒板に沢山の数式を書いてたわね。
ニケさんは思い付くとアイルさんに強請って、アイルさんはそれから何だか複雑な計算を始めて。まあ、何時もの事なんだけどね。
ただ、このNMRってのが出来て、何が観測できるのかを教えてもらったときは吃驚だったけどね。」
「えーと、その人体の断層写真って何なんです?」
「あっ、それ?
それは聞いてみたんだけど、そのNMRの仕組みで人の体の中がどうなっているか分るらしいわ。」
「それって、骨が折れていたりした時に、どこが折れているかが分ったりするんですか?」
「ええ。そうらしいわ。
触ったりしなくても体の中の状態が分るって凄いわよね。
そして、骨折だけじゃなくって、他に体の異常があるときにその原因が分ったりするらしいわ。
凄く便利な感じだけど、ニケさんが言うにはコンピュータって道具が無いと作れないって言っていたわね。」
何時もの事ながら、分らない事の説明に分らない物の名前が出てくる……。
「えーと。そのコンピュータっていうのは何なんですか?」
「とても早く計算が出来る道具だって言っていたわ。
昔、アイルさんがシーケンサの原理でそのコンピュータの基本的な部分を作ったことがあったけど……あれはとんでもなく大きくて物凄く五月蝿かったわね。
皆、計算尺っていうのを使ってるでしょ?
計算尺の目盛の位置を計算するのに使ったらしいんだけどね。」
今度はシーケンサ?。それは何だ?
どうしてメーテスで説明を受けると、その説明に知らない言葉が出てくるんだ……圧倒的に知っている事が少ない所為だろうか……。
そのシーケンサという道具の説明をしてもらった。コンビナートにある工場では様々な道具を調整して動かしている。その調整を人が調整しないで済むようにしている道具という説明だった。
水蒸気の圧力で弁が開閉する仕組みを使って、他の高圧水蒸気の経路を遮断したり開通させたりできる。それらを組合せることで、複雑な工場にある道具の動作を調整することができるのだそうだ。
アイルさんは、その仕組で自動で計算をする道具を作り出した。
沢山の場所で気圧が開放されたり、そのための弁が動いていたことで物凄い騒音だったのだそうだ。
電気を使えばずっと小く、音もしないものが作れるらしいのだが、その頃は未だ電気は作られてなかった。
どうやら物理研究所のテーマの一つになっていてアイルさんが一人で細々と続けているそうだ。
アイルさんが作業しているのに関わらず、直ぐに出来上がらないってことは、相当複雑な事なんだろうか?
しかし、自動で計算をする道具ってどんな仕組みで動くんだ?
そもそも計算を自動で行なうなんて事が出来るとは思えないんだが……。
計算棒の計算にしても、ソロバンにしても、計算尺だって人が数を見て手作業で行なっている。
それは、熟練した人じゃなければ出来ないことだと思うんだが。
そんな事をする道具って……何だか全く分らないな。
「そのコンピュータ?でしたっけ。それって教科書に記載されていたりするんですか?」
「さぁ、どうだろう。私が教科書で関わったのは化学の部分だけだしね。数学の教科書のどこかに記載があるかしら?
分らないわ。
興味があるんだったらアイルさんに聞いてみたら良いかも知れないけどね。
ただ、アイルさんの説明って凄く難しいわよ。
知らない言葉で知らない事を説明し始めるから、何が分らないのかすら分らなくなるわね。」
それは、正に今オレ達が遭遇している状況じゃないか。
昔から助手をしていた准教授でも難解って……どれだけ難解なんだ?
それは、正に今オレ達が遭遇している状況じゃないか。
昔から助手をしていた准教授でも難解って……どれだけ難解なんだ?
「それじゃぁ、折角だから有機物の分析の方法を話すわね。どうせ、どこかで一度は説明する予定だったから、丁度良いわ。」
話が大分脇道に逸れてしまったが、そのNMRの説明というか有機材料の分析全般の説明になった。
イーヴィさんは、話が長くなって休憩のお茶の時間で収まらなくなると思ったのか、何処からかお茶を煎れる道具と沢山のお茶菓子を運び込んできた。
「でも、糸を作るのを急ぐんじゃないんですか?」
心配気味にイルデさんが聞いた。
「まあ、そうだけど、失敗しなければ糸を作る作業の時間はそんなにいらないのよ。
ただ付きっ切りになるけどね。
原料もそんなに沢山ある訳じゃないからね。
上手く行けば一日で終るわ。
どうせ、作業は明日からになるんだし。
だから、今、この説明しても問題は無いでしょう。」
そんな事を言うと、准教授は黒板をテーブルの脇に寄せた。
イーヴィさんがお代りのお茶を全員のカップに入れてくれた。
「それで、天然物の分析をするには、抽出して、分離・精製して、個別に分析の道具でどんな分子か判断していく作業になるのよ。
ある意味、抽出が一番大変かな。
時間も掛るし、どれも同じ作業だけすれば良いとは限らないし、なにしろ最初は上手く行くかどうか分らないからね。
大抵は細かくして、水に溶けるもの、お湯に溶けるもの、室温の有機物の溶媒、これも何種類もあるわね。そういったもので抽出してみるところから始まるの……」
取り敢えずどうすれば良いか解らないときには細かく刻んで水といっしょにミキサーという道具に掛ける。
そうしてドロドロになったものに水に溶けない有機物の溶媒を混ぜて混合して、水の部分と水に溶けない有機物の液の部分とそれぞれを濾過する。
残ったものをさらにお湯で煮込んでみたり、有機物の溶媒を変えてみたりして操作を繰り返してみる。
中々溶けないものもあるらしくて、そういった物の場合には、連続抽出する道具を使う事もある。
そんなことをして得られたものを分離して調べていくことになる。
何が得られたのかは、分離・精製して、分析してみるまで分らない。
上手く行かない事が多いらしい。というより上手く行くことは殆ど無い。
最後の分析をしてみてみないことには、上手く行っているのかも分らない。
こうすれば良いという事は無く、唯々、試行錯誤をしていく。
色々良く分らない言葉が出てきたので、メンバーの質問に応えながら准教授は説明してくれた。
ただ、一言で言うと、とんでもなく面倒な作業を繰り返していたんだろうと思うだけだった。
分離・精製には様々な方法がある。
これも一様にできる訳ではないが、方法は大体決まっている。
水に溶けるものは、液性と言っていたが、酸を加えたり、アルカリを加えたりして有機物に溶けるかを見る。分液ロートというちょっと変ったガラス器具を使う。
熱を掛けても壊れないものであれば蒸留するという事もある。
そして、クロマトグラフという道具で何種類の成分が含まれているかを確認する。
クロマトグラフという道具は優秀で、分離することと、分離したものを取り出すことができる。
クロマトグラフというのは、金属製のやガラス製の筒状のもののなかに充填剤を入れてそこに溶液や気化したサンプルを通すのだそうだ。
その充填したものと親和性が高いものはなかなか外に出てこなくて、親和性が低いものが先に出てくる。そんな仕組で有機物を分離できるらしい。
これも、先に分離しようとするものが分っている訳じゃないので、そう容易な事でもないらしい。その上、含まれている物の種類がとても多いので、何回も繰り返し行なうのだそうだ。
そうやって、単一のものが溶けている状況に追い込んでいく。
こちらの説明はさらに分らない事だらけだった。
オレ達が質問する回数が増えた所為で中々説明は終わりにならなかった。
「ここまで辿り着いたら、ようやく分析をするの。
その分析の方法なんだけど、NMRが出来るまでは赤外分光光度計という道具で測定してみて、これまで見付けているものと同じなのかどうかは判断していたわね。
そして、有機分子の中に、どういった官能基が在るのかぐらいは分るようになってきていたの。」
そう言うと、准教授は、様々な有機物を図に描いた。
「これが水酸基、これがカルボン酸、ケトン、エーテル、当然メタン基、エタン基なんかはチャートの上に特徴的なピークが出てくるので、分子の中にある事が分かるのよ。
ただ、分光光度計では、分子そのものがどうなっているのかまでははっきりとは分らなかったの。
そこにNMRという道具が出てきたって訳なのよ。」
准教授は、何かやたらに嬉しそうにしている。
ただ、そのNMRという道具の説明は難解だった。
有機分子は主に水素と炭素の結合で出来ている。
そんな訳で、水素NMRと窒素NMRの二種類が稼動できるようになっている。
その周波数というものを変えれば酸素NMRや窒素NMRというのも可能らしいのだが、まだ検討途上という話だ。
水素NMRは水素がどんな原子とどういった繋がり具合にあるのか分るのだそうだ。
説明をしてもらったものの、理解困難な程に複雑だった。
例えば炭素に繋がっている水素は、同じ炭素に一つだけ水素が繋がっているのか、二つの水素が繋がっているのか、三つ繋がっているのかといった違いがある。
酸素に繋がっている水素や窒素に繋がっている水素というものもある。
それによって、どの周波数と共鳴するのかが変わる。
共鳴する強度でその水素の数が分る。
さらに、水素と繋がっている炭素の隣に何が繋がっているのかによって共鳴する周波数が変化する。
そういった様々な状況の違いによって、共鳴する周波数が変わるので、共鳴周波数を測定すると分子特有の結果が得られて、それを解析することで分子の形が分る。
その水素が繋がっている原子の隣の原子に繋がっている水素が幾つあるかでその共鳴する周波数が細かく分裂する。
何度も聞き返しても理解しきれない。
要するに、分子の中にある水素は、置かれている環境による影響を受けて、共鳴する周波数というものが違ってくる。その違いを調べることで、水素が置かれている状況を推定することが出来るということらしい。
炭素NMRは水素NMRの水素が炭素に変わっただけだが、こちらは個々の炭素原子が置かれている環境が分る。
つまり、炭素に接続している原子の種類や、そういった炭素の種類の数といった分子の骨格に係わる証拠が得られるという訳だ。
結局のところ、直接分子の形が判る訳では無いみたいだ。
得られたいくつもの結果から辻褄の合う分子の形を想定する事が出来るというのが正しそうだ。
「それでもね。以前の分光光度計では直接分子の形が分るという事は無かったから実際の分子の形を想定できるのはとても凄いことなのよ。
ただ、やっぱり難しくて、今はカリーナにお任せね。
カリーナはこの犯人探しみたいな作業が気に入ったらしくって、精力的に様々な物の測定をしているわ。
もし興味があるのならカリーナのところに仮配属した時に説明してもらえば良いわ。」
過去に本当の殺人事件を担当して、誰が犯人なのかを突き止めようとしたことが何度もある。
その時に、関連する人と人との互いの環境の相違や好悪の状況などが複雑に絡んでいたりした。
そんな状況を追っているときの事を思い出した。
まあ、全然状況も対象も違うのだが、そのぐらい複雑怪奇だった。




