118.セルロース
キキ准教授は、黒板に複雑な図を描き出した。
六角形が横向きに並んでいて、その六角形の右端と左端が隣の六角形と線で繋がっている。
それぞれの六角形の右下の角には○がある。
繋げている線の真ん中にも○がある。
そんな六角形が並んで繋がっている図を描いた後で、○の隣の空いていた角には曲った線の先に○とHを描いた。
六角形の上側の空いていた角には線を書き足していってその先にも○とHを描いた。
最後に並んでいる六角形の下に大きな六角形を描いた。
上に描いてあった六角形と同じに右下の角に○があって、上下には線と○とHが描かれてある。
違うのは、六角形の左右にも線が付いていてその先にも○とHがあることだ。
何だ?これ?
「これは、午前中に見せた砂糖の分子の一部分でグルコースという分子なんです。」
そう言って、最後に大きく描いた六角形を指した。
「これの、この部分とその反対側のこの部分から繋がって水が抜けるとこんな風にグルコースが酸素で繋がった状態になります。それがセルロースなんです。」
今度は上に描いてある六角形が並んでいる図の方を指した。
どうやら、大きく描いた六角形はグルコースというものらしい。
そうすると、それと同じ六角形が沢山並んで繋がっているのがセルロースなのか?
次の仮配属が化学研究所の研究室だという事で、先週は化学の教科書をグループメンバーで勉強していた。だから、全く解らないという事は無いのだが……この図には炭素の記号が無いな。
「この図には炭素は明示してませんが、角の部分には炭素があると思ってください。
有機化合物は炭素の繋り方の違いで様々なものがありますから、炭素を簡略化して分子を描くんですよね。
それで、見て解るように、沢山の水酸基があります。
本来なら、セルロースは水に溶けても良いんですけれど、木は水に溶けませんよね。
綿や麻、亜麻もセルロースで出来ているんですけど同じように水には溶けません。」
丸だと思っていた記号は酸素か。確かに化学の教科書には酸素の記号として丸を使っていたな。
酸素の隣にあるのは水素という訳だな。
水酸基というのは酸素と水素が繋がっている部分のことか?
「実はこういった描き方をするとデンプンも全く同じなんです。物質の名前はアミロースというんですけれど、こちらは小麦とかの成分で食品です。
小麦粉を水に入れて煮込むと溶けますよね?」
ここまで聞いていて、何が何やら分らなくなってきた。
メンバーの顔を見ると皆一様に困惑顔をしている。
「あれれ?
ちょっと走りすぎちゃいました?
えーと。
何か分らないことがありました?」
「その水酸基?ですか?それがあると水に溶けるってどういう事ですか?」
イルデさんが質問をした。
「あっ、そうですね。その説明が必要ですね。えーと水の分子はこういう形をしてます。」
そう准教授は言うと黒板に○の右下と左下に線を描いてその先に二つHの記号を描いた。
これは見たことがある。化学の教科書のかなり最初の方に書いてあった。
「水酸基はこの水の一つのHが炭素で、そこが有機分子になっていると思えば似てますよね?」
そう言って、水の分子の片方の水素のところをRという記号に変えた。
似ているか?
その水素の一つが交換したものって大きな分子じゃないのか?
「そして、水というのは、分子同士がこんな感じで互いにくっ付いているんです。
このくっ付いている状態を水素結合と言います。」
そう言って、准教授は黒板に沢山の水分子を書いた。個々の水の分子はあちらこちらを向いている。そして、水素から近くにある水分子の酸素に沢山の点線を書いた。
「そして、物が水に溶けるというのは、この水分子同士が互いにくっ付いているところに上手く取り込まれなきゃならないんです。
セルロースの分子には、沢山の水酸基や酸素があります。先程の水素結合という観点で見ると、セルロース分子は水分子が取り付き易い構造になっているんです。
だから本来は水に溶けても良い筈なんです。
実際同じ構造をしているアミロースは水に溶けますからね。」
ようやく、何を言っていたのか理解出来たような気がする。
「でも、水に溶けないんですよね。それって何故なんですか?」
「いい質問ですね。実は、私にもセルロースとアミロースで何が違うのか解らなかったんでニケさんに相談したんです。
そうしたら、立体的な状態が違うということでした。
それで、ルキトさんに分子の形を作ってもらって、分子の形を比べてみたんです。
あっ、ルキトさんていうのは、最初にソロバンを作った木工工房のご主人なんですけど、私達に凄く好意的で、色々私達が必要とする木工器具を作ってくれるんです。」
准教授がそう言うとイーヴィさんが会議室を出ていった。
戻ってきたときにイーヴィさんは不思議な形をしたものを幾つも持っていた。そして、それをテーブルの上に置いた。
色の着いた球が棒で繋がっている。
先刻まで黒板に書いていたものが立体になっているのか?
目で追ってみると、黒板に書かれていたものと合っているみたいだ。
ただ、六角形は酷く歪になっている。
「炭素が赤色、酸素が黒、水素が青の玉になっていて、結合しているところは棒で継いであります。
こっちがセルロースで、こちらがアミロースです。
セルロースは直線になりやすくて、アミロースはどうしても曲るんですよ。
そして、先刻の水素結合ですけれど、分子間だけじゃなくって分子内でも水素は近くの酸素に近付きたがる性質があるんです。
それを考慮すると、アミロースはこんな具合に螺旋になるのが安定そうなんですよね。
アミロースは分子同士が纏まっていても隙間が出来ます。そこには水が取り付いているんじゃないかと思ってます。
一方のセルロースは真っ直ぐで、セルロース分子同士が並び易くなってます。セルロース分子同士が水素結合すると水が入り込む余地が無いんです。」
球が繋がっているのも順番や配置は同じなんだが……何が違っているんだ?
グループのメンバーも不思議に思っているのか、木工で出来ている分子をじっと見ている。
「あっ、黒い玉、酸素が付いている向きが違ってるんですね?」
最初に気付いたのはイルデさんだった。
そうか。確かにグルコース同士が繋がっているところの酸素の付いている向きが違っている。
「そうなんです。良く気付きましたね。
セルロースとアミロースではグルコース同士を繋いている酸素の付き方が違っているんです。
逆に言うとそれしか違っていないんですけど、それが理由で物凄く性質が違っているんです。」
「セルロースが水に溶けにくいという理由は分りましたけど、綿も麻もセルロースで出来てるんですよね。何が違うんですか?」
この質問もイルデさんだ。
何時に無く、積極的だな。やっぱりこの研究室を志望しているからだろうな。
「綿はセルロースが多いんですが、他の成分も入っています。それがセルロースの分子とくっ付いている所為で水に濡れても大きく縮まないんだと思います。
一方で再生したセルロースは一旦水に溶けたセルロースから繊維を作っているので、セルロースを固定してくれる様なものは全く含まれていません。そのため水に濡れるとセルロースが再度バラバラになり易くて大きく縮むんじゃないかと思ったんです。
これをどうにかするには、綿と同じように何かバラバラにならない為の添加物を混ぜるという方法があります。
ただ、水酸化ナトリウム溶液にしている状況で上手く混ざって、セルロース同士が剥れない効果を持った添加物を探し出すのは直ぐには出来そうもありません。
そこで、セルロースの水酸基を別なものに変えることにしたんです。
そうすれば、水には溶けにくくなるので縮む事は無くなるんじゃないかと思ったんです。」
「別なものに変えるって、どうするんですか?」
「水酸基を手っ取り早く別なものに変えるには酸と反応させるという方法があります。酸と水酸基は比較的簡単に反応するんです。これをエステル反応と言います。
まず、最初にセルロースを硝酸と反応させてみたんです。」
そこまで准教授が話をしたところで再度イーヴィさんが会議室を出ていった。
また何か持ってくるのか?凄いなイーヴィさん。
今度はイーヴィさんがガラス瓶を二つ持ってきた。
中には白っぽい粉が詰っている。
「あっ、イーヴィさんありがとう。えーと。こっちか。
この白い粉はニトロセルロースと言います。硝酸でエステルを作ったものはニトロという名前を付けて呼びます。
これは、水には溶けず、有機溶媒に溶けるんです。有機溶媒に溶かして、溶け難い溶媒の中に入れてやることで糸が作れそうな事だけは分ってます。」
「それじゃ、そのニトロセルロースで糸を作って布にするんですか?」
「まあ……それも良いかも知れませんが……ちょっと訳ありで、止めたんです。
このニトロセルロースは水には耐性がありそうですけど、火に弱いんです。というより物凄い勢いで燃えます。
えーとやって見せた方は分かり易いかな。」
またイーヴィさんが会議室から外に出ていった。
うーん。イーヴィさんが凄いというより、準備不足じゃないか?
あっ、突然話始めたからこうなってるのか。
今度は、ガラスの薄い皿と何かの道具を持ってきた。
イーヴィさんは皿をテーブルに乗せると、持って来た道具を部屋の電気のコンセントに繋いだ。
「イーヴィさん。ありがとう。本当に申し訳ないです。
えーと、あまり量が多いと危ないので……。」
そう言いながら准教授はニトロセルロースの瓶から僅かな量の粉を皿の上に移した。
指の爪ぐらいの量だろうか。
「それで、この道具はこのボタンを押すと先端が赤熱するんです。火を点けるのに使うことができるんです。
一瞬で終るので、この皿を良く見てくださいね。」
そう言って、准教授は道具のボタンを押した。先端の部分が段々赤く光り出して真っ赤になった。
道具の先端を皿に分けたニトロセルロースに近付けた。
ジュパ
一瞬で消えてなくなった。
何が起ったのか全く分らなかった。
「こんな感じであっという間に燃えて無くなってしまうんですよ。
そんな訳で、ニトロセルロースは作ってみたけど布にするのは止めたんです。
もしその布で服やテーブル掛けにしたら、その布に火が付くと大変なことになりそうです。」
そうか……燃えたのか……。全々燃えたようには見えなかったな。一瞬光って消えて無くなっていた。
「ただ、折角作ったので、これも混ぜ物をして燃え難くするってことが出来ないか検討してみたいんですよね。でも、これからですかね。
とりあえず手元にあったカンファーと混ぜてみたらこんなものが出来ました。」
今度は、会議室の壁際にあるスツールの上に乗っていた小振りの置物を持ってきた。
形が分り難いけれど、猫のような形をしている。
「混ぜ物をしたこれも燃え易いんですけど、熱を加えるとトロトロに柔らかくなって、整形する事が出来るんです。
柔らかくなるのは混ぜたカンファーの所為だろうと思います。ニトロセルロースは加熱しても柔らかくなったりしないんで。
ちなみにカンファーだけだと熱を掛ける普通に液体になって気化するので、両方を混ぜることが良かったのだと思います。
この材料を使うと金属の鋳物みたいなものが、鋳物を作るよりずっと低い温度で出来るんです。
これも、何かに使えるかもしれません。
ただ、完全に燃えるのを防ぐのは簡単には出来そうもないんですよね。」
なるほど。新しい素材が出来たって訳だ。
だけど、この話は一体どこに向かってるんだ?
「それで、今度は酢酸エステルを作ってみたんです。
これも水には溶けません。そして、今回のものは簡単には燃えないです。
そして糸が作れることまでは確認してます。
あっ、酢酸というのは有機物で出来ている酸の一種で、普通には酢と言われているものの主成分ですね。
それで、酢酸エステルのセルロースはアセチルセルロースと呼びます。」
准教授はニトロセルロースとは別の瓶を指した。
瓶にはアセチルセルロースと書いてあった。
「それで、このアセチルセルロースはクロロホルムと塩化メチレンには溶けるみたいなので、これで糸を作ってもらいたいんです。」
おっ。やっと本命か。
「分りました。頑張ります。」
間髪を煎れずにイルデさんが応えた。
何時も代表して応答してたのはアンゲルなんだが。ここではイルデさんが応答するのか。
「手順はこれから教えますのでお願いします。
あっ。イーヴィさん、色々ありがとう。そしてお願いがあるんですけれど。
お茶を煎れていただけませんか?
喉が乾いてしまいました。」
「そうでしょうね。お一人でずっと話し詰めでしたから。今準備しますね。」
「それじゃあ、お茶で小休憩の時間にしましょう。皆さんもお飲みになりますよね?」
程なくイーヴィさんがワゴンに紅茶ポットとクッキーを載せて運んできた。
お茶をもらって、お茶を飲みながら、ずっと気になっていた事を聞こうと思った。
「ずっと気になってたんですけれど、この分子というのは見ることが出来るんですか?」
「分子は物凄く小くて、目でみることも顕微鏡を使って拡大しても見ることはできませんね。」
「それじゃあ、どうして分子がこんな形をしているという事が解るんです?」
「それは……本当は、分析化学研究室に仮配属されてからこちらに来てもらえれば良かったんですけど……分子がどうなっているのか調べられる道具があるんですよ。」




