117.爆砕
それから、キキ准教授は暫くの間何か考えていた。
「まっ。いいわ。どうにかして頼み込めば良いのよ。」
どうやら、どうやってウテント准教授に頼み込んで飛行船に乗せてもらうのかを考えていたみたいだ。
オレ達の方はと言えば、准教授達が皆若いという事に驚いていた。
「一番年上の准教授って誰になるんですか?」
マラッカさんがキキ准教授に聞いた。
「それはカリーナさんね。彼女はグラナラ家でニケさんが生れるずっと前から侍女をしていたんだけど、ニケさんが勧誘して助手になったのよ。
その他の准教授はアイルさんとニケさんの助手になった時は皆アトラス領の新米文官だったわ。
しばらく経ってから神殿とのやりとりがあって、その頃神殿からアトラス領の文官になったバンビーナさんが助手に加わったのよ。
ニケさんの助手だったって括りだと、バンビーナさんが一番年上なんだけど、准教授じゃなくって事務長ですね。」
「助手だった皆さんは結婚なさっているんですか?」
「四児の母のバンビーナさんは当然結婚してるけど、ちょっと前にカリーナさんがアトラス領の騎士さんと結婚したわ。
あとは全員独身。
こんな仕事をしていると、相手になってくれる良い人って中々居ないのよね。
カリーナさんは、もともとグラナラ家に居たから、ソド騎士団長とユリアさんの紹介で結婚に漕ぎ着けたけど。
まあ、皆まだ若いからそのうち何とかなるんじゃないかしら。」
それから女性達は、結婚観やカリーナさんの配偶者の話をしていた。
また、オレ達男性は爪弾きになった。
昼食が終り、天然物研究室に戻る頃にはグループの女性メンバーはキキ准教授や事務員のイーヴィさんとは随分と仲良くなっていた。
「えっと、昼食で中断したんですけど、この研究室で行なっている事の説明をしますね。
概ね、植物や動物から得られた素材から構成している物質を抽出して分析・同定することと、それを原料とした新しい素材の作製ですね。
メーテスが出来る以前に見付けた素材としては、寒天、砂糖、ゴムなんかがあります。
寒天はパンやお酒を作るときに使う酵母を分離するのに作ったものです。
酵母の種類を調べ上げたことで、マリムのパンが作られるようになりましたし、お酒は随分と味が良くなりました。それまでは、お酒に酵母が関係している事は知られてなかったんですよね。」
「酵母って何ですか?」
イルデさんが聞いた。これまであまり話をしなかったイルデさんがかなり積極的に話をしている。
「あっ、そうですね……失敗したかな……。この話をすると、先に進まなくなっちゃうんで、簡単に説明しますね。多分皆さんに渡されている化学の教科書のどこかに説明があると思いますので、詳しくはそちらを読んでください。
簡単に説明すると、この世界には目に見えないほど小さな細菌と言う生物が沢山居るんです。
酵母はそういった細菌の一種で、デンプンを栄養として生きているんです。
パンを作る酵母はデンプンを分解して二酸化炭素に変えます。それがふっくらとしたパンを生み出すんです。
お酒を作る酵母は、デンプンを二酸化炭素とアルコールに変えてくれます。それが果汁や煮込んだ麦がお酒になる理由なんです。
酒蔵で、必要な酵母以外の細菌が増えると、味が変わったり、酸っぱくなったりするんですよね。
今ではマリムの酒蔵では細菌の管理をしていて、大切な酵母以外の余分な細菌が繁殖しないようにしてます。
それで、マリムのお酒は味が安定するようになったんです。
そんな訳で、寒天はそれなりに需要があるんですよ。」
マリムの酒は美味いと思っていて、特殊な作り方をしているのかと思っていたのだけれど、そんな理由があったのか。
「えーと。話を続けますね。
ニケさんが砂糖を探していた時に、様々な植物を調べたんですけど、砂糖が無いものは途中で放置してたんですよね。そんな中でゴムが見付かったんです。
以前はニケさんの助手全員で総掛りでやってたんで、それなりに進められたんですけど、メーテスが出来る事が決まった昨年あたりから、各自で専門分野を担当するようになって、一人で作業しているので、そんなに進んではいないのですよね。けれども、それでも、色々なものを見付けてはいます。
砂糖やゴム以外に良く使われるのは、寒天、カンファー(樟脳)、乳香、ゼラチンといったものですね。
残念ながら、砂糖やゴムほどの量は使われてないので、コンビナートに工場は無くて、ヤシネさんのところのコラドエ工房で分離・精製しているだけです。
寒天は特殊な海藻から取れます。カンファーや乳香は特定の木の樹液として得られます。ゼラチンは牛や豚の膠を精製したものです。
カンファーは痒みを止めたり痛みを緩和する作用があるので、薬として使用され始めました。
乳香はとても良い香りがするので神殿で焚いて宗教行事に使うようになってきました。
成分のピネンやリモネンは原料として使えないか調査してます。
ゼラチンは、ゼリーという名前でお菓子や料理にも使われてきました。
あっそうそう。写真って知ってますか?」
「昨日マリム観光したときにグループメンバーを撮影してもらいました。」
アンゲルが応えた。
「そうなんですか。じゃあ写真は知ってるんですね。
その写真を撮影するときに乾板というガラスの板を使うんです。その表面に光で黒くなるところがあるんですけど、そこはこれまで寒天を使ってたんです。
ただ、寒天はちょっと特殊な海藻から作るのであまり量が作れないんです。それで、今はゼラチンを使うことを検討し始めてます。」
「それで、ヤシネさんというのは?」
「ヤシネさんは、もともとマリムで染料や顔料を作っていたコラドエ工房の店主さんだったんです。今はコンビナートの製紙工場以外の工場を一手に引き受けてくれてます。
そうそう、メーテスでは研究しかしてないんですけど、実際に物を作るのはマリムの商店や工房の人に手伝ってもらってます。
実際に物を沢山作るには、場所や人手が必要でしょ。
ただ、私達だけではとても実現できませんから。ヤシネさんはそういった協力してくれている人の一人ですね。
主立った人は、製紙を行なってくれているボーナ商店のリリスさんとか、鉱石を取り寄せてくれるエクゴ商店のボロスさん、耐熱炉材を改良して生産してくれているレオナルド陶器工房のレオナルドさん達が居ます。他にも様々な商店や工房の人達が協力してくれていますね。」
「えっ、ボーナ商店ですか?リリスさんって?」
「ええ。服飾関係で有名なお店ですよね。リリスさんはその商店の店主をしている人です。
実は、これから話をする件で、近々、リリスさんが来ることになってます。そして、皆さんにはその作業を手伝ってもらいたいんですよ。」
「それは、紙に関連することですか?」
ボーナ商店は服飾関係の大きな商店だが、紙に関してもほとんど独占しているのは有名な話だ。
なんでも、紙の原料の育成から紙の生産、販売まで一手に行なっている。
「えーと。紙じゃ無いんですけど、無関係とも言えないですね。イーヴィさん。例のあれを持ってきてもらえませんか?」
キキ准教授に声を掛けられたイーヴィさんは何枚かの布を持ってきた。
「お願いしたいのは、布を織るための新しい糸を作ることなんですよね。」
テーブルの上に置かれた布を見ると、光沢のある不思議な布だった。
グループの女性メンバーはその布を手にとって触っている。
「えっ、何ですかこの布は。こんな手触りの布って初めてです。それに光沢があってとても綺麗な布ですね。」
マラッカさんが感心した様子で呟いた。
オレもその布を触ってみた。表面がとても滑かだった。
「これは、木から糸を作って、それを使って織った布なんです。」
「木から糸ですか?糸が出来る木なんてあるんですか?」
「ふふふ。実はどんな木からも糸は作れるんですよ。少し長くなりますけど説明しますね。」
昨年の始め頃、陛下や宰相閣下とアイルさんやニケさんが話し合って、王都とマリムの間に鉄道を通すことになった。その時にアイルさんからの強い要望で王国立メーテスの設立が決まった。
アイルさんとニケさんの助手は独り立ちをして、各々研究室を任される事になった。
その時にキキ准教授は、ニケさんが幾つか候補に挙げた中から天然物を扱うことにした。
最初は、過去に砂糖を探す時に扱った様々な植物を再確認していくことで、カンファーや乳香などを見付けていった。
そんな時に、炭焼きをする人が減ってきて木材が余るという話が出てきた。
マリムがこれほど大きくなる前に、鉄を作る原料や加工するための資材として重要だった炭も今はコークスに置き換わりつつある。
炭自体は、特殊な鍛冶やたたら製鉄で得られる玉鋼の製造に使われているのだが、一時期より使用量が減ってきている。
そして、炭の作り手が激減した。
それまで炭を焼いて生計を立てていた人達は普通の職人仕事や商店の仕事をするようになっていった。
炭を焼くより、普通に商店や職人仕事をした方が実入りが良いのだ。
小さな子供を育てながら炭を焼いて生計を立てていた独り身の女性や男性が、子供を預ける場所が出来たことで、普通の職に就けるようになったことが大きいのだそうだ。
さらに、成人の領都民が文字や数を習って、読み書きやソロバンが使えるようになって商店や工房で勤められるようになったことがある。成人向けのテラコヤという読み書きソロバンを教えるところが流行っているんだそうだ。
キキ准教授は木材を使った紙の製造ができないか検討を始めた。そうは言っても、木材を綿や麻、亜麻の代りに使うのは難しかった。
綿や麻は良質な繊維の部分だけを取り出して紙にする。木材は繊維以外のものが大量に含まれている。その上、綿や麻を処理するのに使用している水酸化ナトリウムだけでは中々分解しない。
最初は銅がアンモニアに溶けている液体を使ったり、水酸化ナトリウムに二硫化炭素というものを混ぜたもので溶かしたりしていたのだが、それでも物凄く時間が掛かる。
それに、反応を行なった薬品は無害化しないと廃棄することが出来ない。
産業応用するためには、人体に危険なものを決してそのまま廃棄してはいけないとニケさんから厳命されていた。
半年ほど様々な検討をして、漸く木材をオートクレーブという装置で高温、高圧の水蒸気に曝すことで、短時間で木材から水酸化ナトリウムに溶けるセルロースを得ることが出来ることが分った。
「オートクレーブって、細菌を熱と圧力で死滅させるために作った道具なんですよね。
だから、精々温度はd150度(=142℃)、圧力は5気圧ぐらいなんです。
あっ、圧力はその温度の水蒸気圧で決まるんです。だから温度を高くするとそれだけ気圧が高くなるんです。
これまで使っていたオートクレーブ自体はこの温度や圧力以上に掛けることができるんですけど、実際に実験してみたら、温度がd260度(=250℃)、圧力がd34(=40)気圧ぐらいの道具が必要になったんです。
それに加えて、分解の状態が良いのは、この温度と圧力を掛けた後、一気に常圧に戻すのが良かったりしたんですよ。
もう、これは普通のオートクレーブの設定条件から随分と外れているし、こんなに温度の高い蒸気を一気に外に放出すると危いので、アイルさんとニケさんにお願いして専用の装置を作ってもらったんです。
ニケさんの話では、こうやって木材などを高圧の水蒸気でバラバラにするのを爆砕って言うらしいんです。つまりその爆砕装置ってのを作ってもらった訳なんですよ。
1刻(=10分)も掛からずに、木はバラバラになるんですよね。何刻もの長い時間この処理を行なうと、木材が分解してキシリトールという砂糖の仲間も出来ていたりしてたんです。」
「えっ?木から食べられるものが作れるんですか?」
それまで真剣な表情で話を聞いていたイルデさんが驚きの表情に変わった。
「それは……そうなる可能性があるということで、これから調べていかなきゃならないんですけどね。
一人じゃとても調べ切れないっていうのが実情です。
実は、この木材の爆砕では、他にも様々なものが出来ているらしくって……他にも調べた方が良さそうなことがあるんです。でも、全然間に合ってないんですよ。
取り敢えずそんな具合にして、セルロース以外のものを取り除いてセルロースを水酸化ナトリウムに溶かすことはできたんですよね。そのセルロースが溶けている液体を酸の中に入れて中和するとセルロースが分離できるんですよ。」
「えーと。それがどうして布に繋がるんですか?」
「あっ、そうでしたね。つい、木材の加工が出来るようになったのが嬉しくって、話が長くなってしまったわ。」
それからも説明が続いた。
こうやって、木材からセルロースを取り出せたのだが、不純物が大量に存在しているのは変わらない。
その上特殊な装置を使わなければならない。
結局木材を水酸化ナトリウムで長時間煮込むのと比べてあまりメリットは無かった。
それならと、得られたものを使って何か作れないかを考える事にした。
得られたセルロースの溶液を細いガラス管から酸の中に入れたら糸状のものが出来た。ニケさんに相談したら、再生セルロース繊維というものなのだと教えてもらった。
それで糸を作ることが出来るということなので、ニケさんとアイルさんに頼んで紡糸するための道具を作ってもらうことにした。
そうやって、何とか何デイルデシ(=何m)の糸を作ることが出来た。
出来た糸は綺麗な光沢を持った糸だった。
ボーナ商店のリリスさんに見てもらったところ、これまでに見たことのない糸だから是非布を作ってみたいと言われた。
「でもね。糸を作るのには、何段階もの作業を連続してし行なわなきゃならないの。
とても一人で布を織るほどの糸を作るのは無理だったのよ。
それで人を雇って糸を作ってもらおうかとも思ったんだけど、この作業には強酸や強アルカリという危険な薬品を使うじゃない。誰でも良いって訳に行かないのよ。
相変らずマリムは人手不足で、特に優秀な人は引く手数多。
どうしようかと思ってたら王宮の文官の人達が来たって訳。
それで、貴方方の前のグループの人達にお願いして大量に糸を作ってもらって、リリスさんのところ布にしてもらったのがこれなのよ。
リリスさんは大喜びだったわ。
ただ、この布。水に弱くって。洗うと縮んでしまうのよね。その上水の中ではかなり布の強度が落ちるみたいなのよ。
綿の布も洗うと縮むんだけど、それよりずっと縮み方が酷いの。それで考えたんだけど……。」




