115.試乗会
ギアン管理官の慰労会のあった翌日。
始業から半時(=1時間)ほど経ったころ、交通管理部門の職員が気象研究室を訪ねてきた。
「ギアン管理官の使いでやってきました……」
准教授が対応していたので、あまり話が聞こえてこないが、ギアン管理官は早速書類を受けとらせる為に部下を寄越したらしい。
資料はほぼ完成している。オレのところで調べきれなくて不明な箇所は、この先時間を掛けたところでどうにかなるとも思えない。それなら、この段階で渡してしまっても大丈夫だろう。
気になるようなら、誰かが調べるだろうしな。
「おっ。これで業務終了かな。」
アンゲルが晴れ晴れとした表情でそんな事を言っている。
「二週間ですか。思いの他早く終わりましたね。」
「それでも、大変だったじゃないですか。途中で気象観測の結果を纏めたりして。」
「来週一週間あるけど、何をする事になるんだろう。」
「何かする事を準備してくださるのではないですか?」
モンさん、マラッカさん、ハムが会話している。
そう言えば、イルデさんの姿が見えないな。
「あれ?イルデさんは?またキキ准教授のところか?」
「多分そうじゃないの。誰か知ってる?」
マラッカさんがメンバーに聞いてみるが、誰も知らない。
イルデさんは、空き時間などにキキ准教授のところに行っていることが多い。
グループメンバーで雑談している内に、准教授が交通管理部門の使いの人に書類を渡した。
いよいよもって、やる事が無くなろうとしているな。
特にする事が無いので、オレは初日の渡された、気象について准教授が纏めてくれた書類を読むことにした。
この書類は、初日に少し読んでみただけで、その後目を通す事は無かった。
気象観測の道具の設置場所を探したり、その背景や理由を纏めていた時にはそちらを優先していた。
オレの様子を見たメンバーは、同じようにその書類を読み始めた。
あの時は、色々と基本的な事が理解できていなかったのだが、今では少なくとも何を記述しているのかぐらいなら理解できる。というより何を伝えようとしていたのかだろうか。
例の教科書をグループで勉強会をして読み進めていたり、オレ自身が時間のある時に読んだりしていたことも大きいようだ。
やはり基本的な事が解っていないと中々理解できないものの様だ。
「大変よ!明日、飛行船に乗れるわ!先刻、キキ准教授のところに居たらニケさんがやって来て、ニケさんは宰相閣下や近衛騎士団長の対応をしていたのが終って2週間振りに研究所にやってきて……」
イルデさんが研究室に戻ってくるなり、突然声を上げた。
イルデさんは極端に口数が少ない女性なのだが、かなり興奮して話している。
明日は休日じゃなかったか?
飛行船に乗れるというのは?
どうにも要領を得ない長い経過説明が続いていた。普段からこんな話し方をする人だったのだろうか?
いや、そもそも、イルデさんが話をしているのをあまり聞いた事が無いな……。
長い状況説明が終る頃になって、ようやく全貌が解るようになった。どうやらキキ准教授がニケさんに飛行船に乗せて欲しいと強請ったみたいだ。ニケさんとアイルさんが了承して、明日、メーテスに居る人を飛行船に乗せてくれる事になったらしい。
「おっ。それは良いな。明日は休みだけど何処かに行くより飛行船に乗ってみる方が良くないか?」
「そうですね。乗ってみたかったんですよ。」
「ミケルさん。一緒に飛行船に乗りましょうよ。」
「ああ、良いな。オレも乗ってみたかったんだよ。」
マラッカの誘いにオレも同意する。
「飛行船かぁ。どんな感じなんだろう。」
ハムが楽しそうに声を上げた。
「じゃあ、明日は皆で飛行船ですね。」
イルデさんが嬉しそうにしていた。
准教授がオレ達のところに来て声を掛けた。
「これからビーコンの設置場所の相談をする為に電気研究室のアルフ准教授のところに行くのですが、誰か説明のために付いてきてくれませんか?」
「あっ。それなら私が行きます。」
モンさんが応えた。
最近、モンさんは積極的に気象について知ろうとしている。
度々ウテント准教授に質問をしていた。
天気が予測できることにモンさんは随分と感激したらしい。王国中の天気の状態を知ることが出来るのも驚きだったみたいだ。
「出来れば気象研究室の配属になりたいですね。」
とまで言うようになっていた。
その度に、アンゲルから最初の仮配属で決めることは無いんじゃないかと冷やかされていたのだが、かなり決意は固そうだ。
イルデさんに続いてモンさんも進路を定めようとしている。女性は決断が早いんだろうか?
翌日の朝。
早い時刻にグループのメンバーと連れ立って朝食を食べてから巨大なヘリウムタンクが設置されているところへ向った。
もう、既に沢山の人が居た。
「随分と盛り上がっているな。」とアンゲルが呟いた。
「沢山の人が待ってますね。職員だけじゃないですね。学生も居るんでしょうか?」
「列が出来てますから、一番後ろに並んでれば良いんでしょうか?」
「楽しみだな。」
モンさん、マラッカさん、ハムが話をしている。
少し待っていると、東の方から飛行船が飛んできた。
それに気付いた人が歓声を上げた。それに釣られて集った人が飛行船の方を指差して大歓声になった。
段々と飛行船は近付いてきて、待っている人の上空で止まった。ゆっくりと下に降りてきた。
飛行船からアイルさんとニケさんが何人かの騎士達と降りてきた。二人は事務長のバンビーナさんと話をしている。
話が終ったのか二人は騎士さん達と飛行船の先の空き地に移動していった。
「それでは、飛行船の試乗会を行ないます。大分沢山集まっていますから、一人一回に制限させてもらいますね。」
バンビーナさんが集まっている人達に声を掛けた。
どうやら、この場を仕切るのはバンビーナさんの様だ。
「アイルさんから、乗船人数は座席の数からd26(=30)人までにして欲しいそうです。
では、最初の人から順番に乗船してください。」
長い列の先頭の方から人が乗り込んでいった。
「この感じだと、5回目か6回目ぐらいに私達の番になりそうですね。」
「どのぐらい待つことになるのかな?」
「さあ、ただ上空に昇って降りてくるだけだったら大して待たないと思うけど、人を乗せて何処かに行ったりするのかしら?」
「見てたら分るだろう。」
最初の一団を乗せた飛行船は上空に上がっていった。
「あっ、あれ、見て。」
マラッカさんが先程まで飛行船が停まっていた方を指差した。
そこでは、アイルさんが何かの塊を前にして魔法を使っていた。
最初は何だか分らなかったのだが、次第にそれが、今飛び上っていったのと同型の飛行船だと分るのにそれほど時間は掛からなかった。
先程上昇を始めた飛行船は上空で止まっている。
南に向けて移動を始めた。
飛行船はどんどん加速して、遥か南に行ってしまった。
「やっぱり、ただ上昇して下降するだけじゃなかったのね。」
「どのぐらいで戻ってくるんだろう。」
「そもそも、何処に行ったんだ?」
オレ達の後ろも、随分と長い列になってきている。
ひょっとすると、メーテスに居る人が全員ここに集まっているんじゃないだろうか。
オレ達は丁度中間といったところだろうか。
それよりも、オレは今アイルさんとニケさんが行なっている作業の方が気になった。
先程からの作業で、今、試乗している飛行船と同じ飛行船が出来上がりつつあった。
魔法を使っているのだろうけれど、物凄い勢いだ。
ニケさんが鉱石の山から金属を取り出して、即座にアイルさんがその金属で形を作っていく。
側面に大きな紋章が入った。
飛行船の側面にアイルさんとニケさんが梯子を昇って取り付いていた。
ニケさんが魔法を使うと、その紋章の色が変わった。
その後でアイルさんが極彩色の紋章に変えていっている。
「あれは……見覚えがあるんだが、何処の紋章だ?」
「そうですね。何処かで見た紋章ですけど、国王家でもゼオン家でも無いですよね。」
「少なくとも侯爵家では無い。サンドル家でもないよな。」
メンバー達があれこれ言っている言葉にオレは耳を疑った。
「おい。何を言ってるんだ。あの紋章はメーテスの紋章じゃないか。」
「あっ、そうか。見覚えがあると思ったんだよな。」
とハム。
「すると、あれはメーテスの飛行船なのか?」
アンゲルもハムもメーテスの紋章に気付かないのがどうかしているんじゃないか?
「そう言えばウテント准教授が上空で風がどう吹いているのか分っていないと言ってましたわ。飛行船があればそれを調べられるんじゃないでしょうか。」
「なるほどね。そういう事なら、あの飛行船は気象研究室で使うのかな?」
「さあ。でもその可能性はありますね。ますます気象研究室に興味が湧いてきました。」
「いや。だから、それは、他の研究室を見てからでも良いんじゃないか?」
何時ものアンゲルとモンさんのやりとりが始まった。
雑談をしながら待っていると、東の空から飛行船が戻ってきた。大体3刻(=30分)ぐらいは経っている。
メーテスの上空に戻ってきた飛行船はゆっくりと下降している。
設置すると、それまで飛行船に乗っていた人達が降りてきた。次の人達が乗り込んでいく。
「一回りに掛かる時間は大体4刻(=40分)ぐらいかな。えーとあとどのぐらいで乗れるんだ?」
ハムがぼやいていた。
「1時半(=3時間)ぐらいでしょ。まだ随分待つことになりそうだわ。」
マラッカさんが諦めるように呟いていた。
それから、オレ達はグループで話をして過した。
その間、モンさんの同期で、先に飛行船に乗った人から話を聞いた。
飛行船は南に向って、マリム大橋を越えて、海を通ってマリムの街経由で戻ってきたらしい。
何れにしてもオレ達が飛行船に乗れるのは昼食前ぐらいだ。
待っているしか無い。
昼前にオレ達の番になった。
飛行船に乗り込むと、そこはかなり大きな部屋になっていた。
飛行船の先頭の方には座席がd26席あった。
その先には、飛行船を操縦するための道具があって、騎士の人が操作している。
全員が飛行船の中に入って席に座った。
扉が閉まったときに道具を操作していた騎士の人がオレ達乗客の方に向いて声を掛けてきた。
「それでは、これから飛行船を動かします。
私が居るこの場所は飛行船を航行お操作をする場所です。
後部には動力のための道具を操作している騎士が居ます。
安全に航行するために、操船作業の邪魔にならないようにしてください。
先程准教授の方が私を質問責めにしてきましたが、操縦の妨げになりますので、私や動力の道具を操作している騎士へ声を掛けるのは控えるようにお願いします。
これまでのところ、風も無く穏かな天気ですので、揺れることは無いと思います。
席から立ち上がって窓から外をご覧になっても大丈夫だろうと思います。
揺れが酷くなる様なことになりましたら、席に座って立ち上がらないようにしてください。」
この言葉を聞いて、早速立ち上がって、窓の側へ移動する人達が居た。
オレ達も飛行船の前方の右舷の窓の側に立った。
飛行船はゆっくりと空中を上昇していった。
周りの景色が変化しているのを見ている内に、飛行船に乗るために待っている人達が遥か下になっていた。
メーテスの脇を流れているマリム川が見えるようになった。随分と高くまで昇っている。
川の先にはマリムの街が見える。
飛行船が移動し始めた。
マリム川沿いを南に進んでいく。
広いコンビナートも一望できた。
マリムに来る時の船から見上げたマリム大橋が眼下に見える。
あれほど巨大に見えていたマリム大橋が大分小さく見えるのだから、飛行船はかなり高い場所を移動しているのだろう。
「マリム大橋を間近で見るのは初めてだな。これは随分と大きいな。」
アンゲルが溜息混りに言う。
「私も初めてです。」
イルデさんも呟いた。そう言えば、アンゲルもイルデさんも鉄道沿線の領地出身なので、鉄道でマリムに来たんだったな。
「マリム大橋は、船から見上げた方が良いですよ。」
ハムが少し偉そうな顔をしている。
「そうか。船で移動すれば、間近にマリム大橋が見れたのか。何か少し残念だな。」
飛行船はマリム大橋を過ぎて海に出た。
眼下に広がる広い海と空以外には何も見えない。
「何だか凄い景色が眼前に広がっているな。」
思わず呟いてしまった。
それから飛行船は進路を変えて、マリムの街の上を飛び、メーテスに戻った。
その間、マリム大聖堂や海沿いのコンビナートを見付けてはオレ達は燥いでいた。
飛行船が地上に着いてオレ達は下船した。
待っている時には飛行船が戻ってくるのが長く感じていたのだが、実際に乗ってみるとあっという間だった。
少し遅めの昼食の時は、飛行船で見た景色の話で盛り上がった。
最初は目にした美しい景観の話をしていた。
あれは空の上に行かなければ見れない景観だった。
その内、飛行船そのものの話になっていった。
「飛行船だったら、山があっても川があっても関係なく移動できるんだよな。道が無いところでも行けるって事だよな。」
アンゲルがそんな事を言い出した。
「そうね。道が無くても行けるわね。そうだとすると、崖崩れなんかで道が塞がってしまっても目的の場所に行けるのね。
これは凄い事ですね。
道が塞がってしまって孤立した場所に食料を運ぶことも出来るのですね。」
モンさんらしい感想だな。本当に飛行船というのは便利なものだ。
「確かに。飛行船って便利なものだな。」
「飛行船で他の王国にも行けるのかな?」
ハムがそんな事を言い出した。それは燃料次第じゃないかな。
「行けるだろう。
燃料はコークスを使っているみたいだけど、大量に積み込めば大陸のどこにでも行けるんじゃないか?」
「それって凄いことじゃないかしら。大陸の西にあるアトランタ王国にも行けるってことよね。」
マラッカさんはアトランタ王国に何か思い入れがあるのだろうか?
「アトランタ王国に何かあるのか?」
「いいえ。何も無いわ。だけど、私の生涯を通してそんな場所に行ける可能性なんて無いと思っていたから。見たことの無い場所に行けるなんて凄いじゃない?」
「まあ、確かにそうかも知れない。」
「王都まで半日ってことでしたよね。何日かで大陸の西まで行けるかも知れないですね。普通何年も掛るんじゃなかったかな。」
ハムも興味があるみたいだ。
「空を移動するなら関所を通る事も無いしね。
あれ?
空を移動するってことは、禁輸している物を運ぼうと思ったら運べちゃうわね。
今、テーベ王国へは銅製品を輸出禁止にしているんですって。
でも、飛行船で運ぼうと思ったら出来ちゃうってこと?
マズいわね。密輸し放題になるわ。」
マラッカさんの元職は商務省だったな。
「確かにそうだな。あの高さを飛んでいるんだから、国境を越えるのを防ぐのは誰にも出来ないんじゃないか?」
アンゲルも同意している。
「逆に、もしガラリア王国へ他の王国が攻め込む場合は、飛行船が使えれば容易に攻め込めるのかしら?」
不安そうにモンさんが聞いた。
「そういう事になるな……だけど飛行船ってここにあるだけだろ?」
「でも、慰労会の時にギアン管理官がマリムの工房で飛行船を作れないか検討しているって言っていたわよ。」
確かにそんな事を言っていた。
これからどうなっていくんだろうか。
「これからどうなるのか分らないけれど、屹度手立てがあるんじゃないかな。
それに、今飛行船があるのはガラリア王国だけなんだろ?」
「そうね。そんな事は王国で考えているでしょうね。」
この手の話は考えてもどうにもならないだろう。
気象研究室の仮配属も残り1週間になった。
想像していた通り、気象研究室で飛行船が使えることになった。
ウテント准教授は狂喜していた。
他にも2隻の飛行船をアイルさんとニケさんが作っていた。
一隻は鉱物研究室で鉱石の探索に使うらしい。
一隻は予備だと聞いた。
オレ達は、准教授に気象機材の飛行船への積み込みを手伝わされ、高高度の空の旅に連行された。
下を見ると、マリムの街は緑の大地を侵食する白い模様に見える。
上を見ると、雲一つ無い空だ。色が青というより紫に近い。
飛行船の外壁に気候観測の装置が取り付けられて、無線で船内に結果が送られてくる。
准教授は測量の道具を使って、高さや飛行船の速度を測っている。
オレ達は無線で送られてくる観測結果を集計していた。
「思っていた通りでした。
高度が上がると気温は下がってますね。凄いです。凄いです。予想通りですよ。これは。」
「やはり、上空は、強い西風が吹いていますね。いやぁ、上空に昇ってみて確認出来て良かったです。」
「高度が上がると気圧は低くなってますね。
もっと上に上がりたいところですが……このまま気圧が下がるのだとすると……呼吸が問題になるんでしょうか……アイルさんに気密性向上の改造してもらわないと危ないでしょうか。
浮力はどうなるんでしょうかね。
まずは、行けるところまで上昇して記録を取らなければ……」
准教授はオレ達が纏めた測定の結果を見て狂喜している。
それから、オレ達は准教授に連れ回されて、あっという間に一週間が過ぎた。




