113.天気予報
街に近付いてから何度かスーシイさんに道を教えてもらって何とか国務館に辿り着いた。
気象観測を受信する受信棟は、国務館の奥、領主館がある丘の西側の傾斜地にあった。
建物は5階ほどの高さなのだが、2階建ての建物の上に剥き出しの金属の柱と梁が並んでいる。
随分と奇妙な建物だった。
一番上の梁には沢山の支柱が並んでいて、支柱の上端に複雑な形をしているものが取り付けられていた。
支柱の上端には水平な一本の長い金属の棒が取り付けられている。その長い棒の片方の端には水平方向に張り出す様に細長く角が丸くなっている長方形をしたものがある。その長方形のものに並ぶように反対の端まで沢山の短かい金属の棒があった。
見たことのない不思議な形をしたものだ。
スーシイさんの説明では、これはヤギアンテナという名前の特殊なアンテナで、遠い場所からの電波を受けるためにこのような複雑な形をしているそうだ。
短かい金属が沢山並んでいる方にある送信機の電波が受信できる。
このアンテナは、南を向いているものもあったが、大半は西の方を向いていた。
建物の中に入ると、入口のところに大量のファイルが置いてあった。約束の時間より大分早かったのだが、対応してくれた文官は全て準備が出来ていると言っていた。
その大量のファイルをアンゲルとハムとの3人で馬車に運び込んだ。
全部でd27(=31)冊のそれなりに厚い紙を束ねたファイルだった。
ファイルの表紙には、ガリア線の駅名が記載されてある。
帰りの馬車も、ここまで来る道を憶えていると言ってハムが御者を引き受けてくれた。
積み込んだファイル中を見ると、紙の上に何本もの縦線が描かれてある。
曲りくねった線の両側に直線があるという組み合わせが5組あるのだな。
紙の両端には小さな四角い穴が等間隔で沢山空いている。その四角い穴の脇に等間隔で横方向に短い線がある。
その短い線の脇に数字が書かれているところがある。
スーシイさんに、この線や記載されている数字の意味を聞いた。
「これはチャートというもので、観測結果を値に変えて紙の上に記録しているんですよ。
数字が書いてあるのは日付でしょうね。その脇にある短い線は正時に道具が付けている印です。0時のところに日付を書いているのですよ。」
今、0時と言ったのか?0時って何だ?
「えーと。0時って何なんですか?」
「あっ、そうですね。普通は0時って使わなかったですね。d10(=12)時の事ですよ。ちょっと前に度量衡の制定があったじゃないですか。あの時にメーテスでの時刻は0時からdW(=11)時を使うようになったのです。
それに合わせて、交通管理部門でも採用したと聞いてます。
これは随分前から天文台で採用していた方法と聞きました。
実質的には変わらないんですけれど、気象の記録とか、天体観測の記録には時間や日付を記録するじゃないですか。それで、日付の変る時刻を0時0刻0分0秒にしたんです。
あっ、そうそう。時刻を表わすのに、刻も分も秒も0からdWまでの数字を使います。
ちょっと慣れが必要かもしれません。時刻でこれまで1刻と言っていたのは0刻ですし、1分や1秒はそれぞれ0分、0秒になりますからね。」
知らなかったな。
少し奇しいとは思っていたんだ。メーテスにある時計は全て一番上の数字が0になっていた。これは意匠のためか何かでd10を二文字で表さずに0だけ書いているのだと思っていた。
アンゲルを見ると困惑顔をしていた。アンゲルも知らなかったんだろう。
ハムは道を間違えることもなくにメーテスに辿り着いた。
有り難い事に、昼休みの時間より僅かに早かった。
スーシイさんの指示で馬車はメーテスに入ってそのまま中を進んで気象研究室の前で停まった。
オレ達が沢山のファイルを運び込んでいる時にスーシイさんは馬車を返しに行った。
研究室に荷物を運び入れて、スーシイさんが戻ったところで、全員で昼食に向った。
昼食後、オレはマラッカさんと組んで集計作業を始めた。ちなみにアンゲルはモンさんと、ハムはイルデさんと組んだ。
昨日の結果から順次前の日という具合にチャートの正時の位置から数字を算出してリストを作っていく。同じチャートを組の二人で個々に読み取って、二人の数値に相違が無いかを確認するように言われた。
最初の内は、チャートから数字を読み取る作業の方法をマラッカさんが教えてくれた。
チャートは、過去の結果を上にすると、左から気温、気圧、湿度、風速、風向の順に並んでいる。
直線に挟まれて曲りくねっている線が、それぞれのその時の値なのだそうだ。
紙の両端にある正時を示している短い横線を結ぶように定規を当てて、曲りくねった観測結果とすぐ左にある直線までの距離を測る。この値を観測結果の左にある直線と右にある直線の幅を測ってその値で割る。
その値をファイルと観測対象で決められた値を掛けて、やはりファイルと観測対象で決められた値を足す。
面倒な事だ。計算尺が無かったら、とでもじゃないが計算しきれないだろう。
[観測した値の位置]/[直線の幅]×[観測対象の定数1]+[観測対象の定数2]
「准教授が言っていたんだけど、昔はもっとややこしい計算をしてたらしいよ。だけど今はこれで良くなったんだって。
でもね、モンさんが直線の幅が同じ紙だと変わらない事に気付いてくれて、最初にこの定数と直線の幅を割った値を使えば、一度計算尺の滑尺の位置を決めたら観測した値の位置から直ぐに求められるのよ。」
すると、同じ観測結果を計算するには、最初に観測対象の定数1を直線の幅で割った値を計算しておくと、
[観測した値の位置]×[計算した値]+[観測対象の定数2]
となるのか。
計算尺だと同じ値を掛けた値を求めるのには計算尺の滑尺を固定して値を読むだけで済む。
掛け算のところだけは、物差しで値を読んだら、計算尺で対応する値に対向している目盛を読むだけで結果が得られる。
最後に足し算だけすれば良いのだろう。
「ヘぇ。凄いな。その方が楽に計算できる。
だけど、このファイル毎に定数が違っているのも無くなればもっと楽なのにな。」
「それも聞いてみたのよ。そうしたら、このチャートを書いている道具はいくつかの工房が作って納めているので、道具によって癖があるんですって。
あとは、気温や気圧は気象観測の道具を設置した場所で設定を変えているそうよ。
気温が低いところでは低い気温が測れるように、気圧が低いところでは低い気圧が測れるように変えてあるらしいわ。
だから、観測する場所によって計算に使う値が変わるのはどうにもならないらしいのよね。
ただ、准教授からは直線の幅が最初に測った値と変わらない限り、この簡単な計算方法で良いって許可を貰ってあるの。」
最初のうちはかなり手間取った。准教授の指示で、最小目盛のd10分の1まで読み取って計算をするように言われていたのが一番大変だった。
それでも段々慣れてきて、マラッカの計算結果と殆ど変わらなくなっていく。
オレ達は、分担して一向計算をして数値を求めていった。計算が終った結果はスーシイさんが准教授に渡していた。
准教授を数字を受け取ると紙に書き込みをしていた。
三組で分担して計算を行なったことで、1時ほどで昨日、一昨日、一昨昨日の3日分の結果の集計が完了した。
「皆さん有り難うこざいます。3日分の数字が集まりましたから、ここで、何をしているのか説明しますね。
何も分らず闇雲に数字を求めているのも辛いでしょう。」
「それじゃ私はお茶を入れてきますね。」
准教授に付いて会議室に移動した。
准教授は三枚の紙をテーブルに置いた。王国の東部の地図だ。
中央には鉄道のの駅が並んでいる。
その駅の場所には○と線が付いていた。○の右上と左上には数字が書かれてある。○は塗り潰されて●になっているものや◎になっているものもある。
スーシイさんがお茶と菓子をワゴンで運んできてくれた。
紅茶の他にクッキーがオレ達の前に置かれた。
「じゃあ、お茶を飲みながら話を聞いてください。」
准教授は黒板に○を描いて○から右上の方向に斜めに線を書き足した。その斜めの線に垂直に何本か短かい線が書き足された。
「今、テーブルにあるのは、皆さんに集計してもらった昨日の4時(=正午)、一昨日の4時、一昨昨日の4時の天気の様子を描いたものです。駅のある場所に黒板に描いた記号があります。
左上に書いてある数字は気温。右上に書いてあるのは気圧です。
この丸が塗り潰されているのは、湿度がdW6d%(=96%)以上のところで、二重丸になっているのはd80d%(=67%)以上dW6d%未満のところです。
無線で得られる結果では雨が降っているかどうかは分りませんが、黒丸のところは雨の可能性が高いところだと思ってください。
そして、この斜めの線は風向を示しています。黒板に書いた記号だと、北東から風が吹いているのを示します。櫛のような線がこの線に付いていますが、この線の本数が風の強さを表わしています。風が強いほど線が多くなっています。」
そう説明を受けて地図を見直した。
一昨昨日は王都のあたりに◎が並んでいた。風は西南西から東北東に吹いている。
一昨日は、それが東にズレている。風の向きが王都あたりでは北西に変わっている。
昨日はさらに東にズレた。●のところが出てきている。風が強くなっていた。
一昨昨日の図には王都の北にLの記号があって、それが日を追うに従って東にズレている。
このLという記号は何なのだろう?
昼前に聞いた天気の悪いところは移動すると言っていたのはこのことなのかもしれない。
「それでは、ここにある三枚の地図を見てもらえますか。以前説明した様に、気圧の低いところ、これは低気圧と言いますが、低気圧がある場所は天気が悪く風が強いという特徴があります。
そして、風向を見ると、その低気圧が線路の北側にあるのか、南側にあるのか分ります。
鉄道の線路は東西に直線に並んでいるだけですので、低気圧の正確な場所までは分りませんが、線路の北に低気圧があれば西寄りの風が吹きます。南にあれば東寄りの風になります。
ただ、風の向きは、気圧の高いところから、低いところへ真っ直ぐ向うのでは無く、左回りの渦を巻くように流れます。」
准教授は、黒板に地図にあったLの記号を描いてその周りにLの記号に向かっている渦を描いた。
「あとは、同じ気圧の場所を継いで青いインクで線が引いてあります。等圧線と言って同じ気圧の場所を繋げたのです。ただ、観測している場所が東西に並んでいるだけですので、あまり正確じゃないです。予想して描いただけです。
しかし、風の向きは等圧線に対して、だいたい同じ角度になることが分ってますから、酷く違っているということも無いと思うのですけれどもね。
さて、このLの記号の場所がこの3日で、少しずつ移動しているのが分ると思います。
今日の観測結果は明日の朝届けてもらう事になってますが、どうやらキリル川あたりに低気圧が近付いているみたいです。多分、今日、明日あたりは、チト領やルブラノ領は荒れ模様の天気になるのじゃないかと思われます。
この後で、無線を使って駅に確認をしますが、多分間違い無いでしょう。
鉄道を運行するのには問題は無いですが、飛行船の場合のどうなのかは分りません。この結果をアイルさんに伝えて確認してもらう事にします。
今日もアイルさんは飛行船を作りにメーテスに来ているみたいですから、無線で駅に天気を確認をした後で伝えに行きます。
皆さんには引き続きd10日前までの結果の集計をお願いします。」
「あのぅ。質問があるのですが。どうしてその低気圧というものは西から東に動いていくんですか?」
マラッカさんが准教授に質問をした。
「はっきりとした理由は分ってないのです。
低気圧が西から東に動くというのは、気象観測をする場所が多いアトラス領で随分前に確認されていました。全ての場合のそうだとは限らないのですが、かなりの頻度で西から東に移動していますね。
昨年の初めにキリル川まで鉄道を敷設したときからの観測結果でも低気圧は西から東に移動しています。
昨年の末に王都まで全線が敷設されてから確認した結果も同じ様です。
アイルさんは上空に強い風が西から東に吹いているのだろうと予想していますが、確認した事は無いので正確には分ってません。
少なくとも、王国の東南部では、低気圧が西北西から東南東に移動しているのは確かです。」
「でも、南の海では常に東から西に強い風が吹いているんですよね。」
「良い事に気付きましたね。
そうなんです。海では陸とは逆に東から西に低気圧は移動している様です。
ただ残念な事に海には決まった場所に気象観測をする場所がありません。
大型船に設置している気象観測の道具の結果から分ったことなんです。
まだ、気象現象は分らない事だらけなのです。
なぜ、海と陸で低気圧の移動方向が逆になっているのかも分らない事の一つですね。」
それから幾つもの質問が出て、准教授はそれに応えてくれた。
どうやら、このLの位置は毎日同じぐらい移動するので、明日とか明後日どこまで移動するのか予想が付くらしい。
お茶の時間が終って、オレ達は先刻の作業の続きを行なっていた。
准教授は、無線の確認とアイルさんへの報告のために席を外していた。
あと残りの作業が2日分になったあたりで終業の時刻になった。
終業時刻になったところ准教授は研究室に戻ってきた。
「あと2日分については明日作業してもらえれば良いですから、今日はここまでにしましょう。
アイルさんと相談をしたところ、宰相閣下の移動は早くても明後日以降になるのだそうです。
ただ、低気圧が鉄道沿線に近付いているので、この低気圧はやり過した方が良いという結論になりました。
その様な訳で、これから毎日、気象観測の結果を集計してもらう事になります。
少なくとも、今見えている低気圧が鉄道の沿線から離れるまでは続けることになります。
申し訳ありませんが、それまでは毎日確認作業をお願いします。」
「その低気圧が鉄道の沿線から離れるのは、あと何日ぐらい掛かるのですか?」
モンさんが准教授に質問した。
「低気圧が鉄道の北のどのあたりにあるか分らないので何とも言えませんが、3,4日は掛ると思います。
あとは、他の低気圧が近付いてこなければ良いのですが、こればかりは観測を続けないと分りませんね。」
「そうなんですね。」
「宰相閣下も何時までも王都を留守にする訳にはいかないかもしれませんから、あまり天気の状態が悪い日が続く場合には、船か鉄道でお帰りになるかもしれません。
宰相閣下がお帰りになるまでは、観測を続けましょう。」
「准教授。もし、今後多数の観測場所から観測結果が入手できれば、よりはっきり解るようになるのではないかと期待しているんですよね。 」
「そうですね。期待できると思います。ただ、今は既に設置した気象観測の場所の結果だけで判断しなきゃなりませんね。」
グループのメンバーは皆納得したみたいだ。
終業時刻になったので、皆で研究室を後にした。
翌日からは、毎日様子を見るために前日分の結果を集計して今後どうなるかを准教授が判断していった。
その都度、観測結果の集計を准教授が説明してくれた。
オレ達は、最初に指示されていた気象観測の道具を設置する候補地の状況を纏める作業を主体に過した。
一週間ほど経って、問題になっていた低気圧は鉄道の南に去り、鉄道沿線の天気は低気圧による影響が無くなってきた。
「どうやら、明日はマリムから王都までの鉄道沿線で天気が安定しているようですね。
今日の朝の結果を国務館に依頼して取り寄せることにしましょう。
それで確認が出来たら、アイルさんに連絡しましょうか。
問題が無ければ、明日が宰相閣下一行の移動日になる筈です。」
急遽宰相閣下一行が王都に向けて移動することになった。
晩餐会が開かれるというので、メーテスからオレ達も領主館へ移動して晩餐会に参加した。
オレ達メンバーは、晩餐会の会場でアイルさんから直接御礼を受けた。
翌日の早朝に宰相閣下ご一行は飛行船で王都に向けて移動された。
その日、准教授やオレ達は国務館の気象観測結果を受信する建物に詰めた。
宰相閣下ご一行が王都に辿り着くまで、天気の変化が無いかを確認するためだ。
夕刻になって、宰相閣下ご一行が無事に王都に着いたと連絡があった。




