105.ガイダンス
朝、気分良く目覚めることができた。
残念なことに警告音で設定した時刻より早く目が覚めた。
少し早いけれど、待ち合わせの場所に向かう事にした。
待ち合わせの場所は、昨日准教授の一人に聞いたいくつかある食堂の一つにした。
案の定待ち合わせ場所には誰も居なかった。
少し待っていたら、マラッカさんが歩いているのが見えた。マラッカさんもオレに気付いたみたいだ。その瞬間なんだか歩き方が変になった。
何だか、この人は少し変だよな。
「おはよう。今日からよろしく。」
「あっ、おはようございましゅ。こちらこそよろしきゅお願いします。」
なんだ?噛みまくってるけど。
大丈夫なのか?
マラッカさんは真っ赤になって俯いてしまった。
それから程なくアンゲルがやってきた。
オレ達二人を見た瞬間、またニヤニヤしだした。
「おはよう。二人とも早いな。それとも示し合わせてたのか?」
示し合せるって?ただ起きるのが早かっただけなんだが……。
「おはよう。何だ?その示し合わせるって?」
アンゲルは少し驚いた表情になった。
「いや、違うんだったら良いんだ。忘れてくれ。それより良く眠れたか?」
「ああ、ぐっすりだった。その所為かな、かなり早く起きてしまった。」
「そうか……それは何よりだな……」
何だか二人とも変なんだが……。
それから、モンさん、イルデさんがやってきた。
あとはハムだけだな。
約束の時間になった。ハムだけ来ない。一応余裕があるのでまだ大丈夫なんだがどうしたんだろう?
そんな事を思っていたら、宿舎の方からハムが走ってくるのが見えた。
「すみません。遅れてしまいました。」
「なんだ?寝坊でもしたのか?」
アンゲルがハムに応えた。
「ええ。あまりに快適で、気付いたらギリギリの時刻でした。すみません。」
「警告音でも目が覚めなかったのか?」
「えっ、何です?それは?」
「えっ。」
皆の声が重なった。ハムはあの仕組みに気付かなかったのか?あの時計を見たら普通気付くだろ。
それからアンゲルが代表して警告音の仕組みをハムに教えた。
「そんな便利な仕組みがあったんですか?えーと皆さん知ってたんですか?」
ハムの問い掛けに皆頷いた。
「あの時計を見たら気付くと思うんだが。」
「昨日は疲れていたのと酒の所為で、宿舎に着いてすぐ寝てしまったんです。気付かなかったのはオレだけなんですね……。」
「それは今日宿舎に戻ったら確認しておけよ。じゃあ朝飯にしようか。」
6人で食堂の中に入る。
食事は、好きなものが選べるようになっていた。昨日の晩餐会の食事の方法と似ているな。
各々職員証明書を見せて中に入れてもらった。
昨日食べて美味しいと思ったシチューもあったので、オレはパンとシチューのセットと果実水を選択した。。
選んでいる間、オレとマラッカさん以外の4人がなにやら話込んでいるのが見えた。
6人でテーブルを囲んで朝食を摂った。
食事を終えて、ガイダンスを実施する講義棟へ移動する。
移動している時に、アンゲルが話し掛けてきた。
「なあ、ミケル。お前気付いてないのか?」
「え?何か見落している事とかがあるのか?」
「いや、見落としとかそういう事じゃなくって、マラッカのことだよ。」
「ああ、それなら気付いているよ。あの人何か様子が変だな。何かあったのか?」
「……。」
どういう訳か、アンゲルは困惑した顔になった。
「えっ、どうしたんだ?」
「いや……いい。忘れてくれ。」
それからアンゲルは他の人達のところへ行って何か話をしている。今回はマラッカさんも混じっている。
何だかオレだけ除け者にされているような感じだ。一体どういう事だ?先刻のアンゲルの話だとマラッカさんに関係しているのだろうけど……。オレは気付かない内にマラッカさんに失礼な事でもしてしまったんだろうか?
思い返してみたが分らない。
部屋にあった連絡の書類にガイダンスは講義棟という建物のなかの第3講義室で行なわれるとあった。
初めて見た講義棟は大きくて立派な建物だ。
中に入ると廊下があって、その奥に広い場所があるのが見えた。
行ってみると、二つの扉の脇に立て看板がある。
看板の一つには王宮文官ガイダンス会場と書かれてある。
別な扉の脇には鉱山関係者ガイダンス会場と書かれた看板があった。
この講義棟という場所には何箇所も講義する場所があるようだ。
学生も午前中は講義と聞いていたので、オレ達とは別の部屋で講義を受けるのだろう。
開いていた扉から中に入ると、そこはかなり変わった部屋になっていた。
扉の直ぐ右手には一段高くなっている場所に机があった。
その背後の壁には大きな黒板。
講師が講義するところかな?
何より変わっているのは、それに対面して並んでいる机だ。
奥に行くに従って床が高くなっている。当然、机は後ろの方が高い場所にある。
なるほど、この机の並び方だと、前に座っている人がジャマにならずに講師を見ることができるのか……。
並んでいる机を見ると、グループの番号があった。
右の端から、グループの番号が順に振られている。オレ達のグループは、中央の左側の机が割り当てられていた。
机には名札と大きなファイルが置いてある。
席の順番は奥からアンゲル、モンさん、オレ、マラッカさん、ハム、イルデさんの順だった。
どうやら席順は入庁順の様だ。
ふと、どうでも良い事が気になった。マラッカさんとハムの席順ってどうやって決まったんだろう?
あれ?ひょっとすると……
「なあ、マラッカさんとハムの生れ月は何月なんだ?」
「えっ。私は6月よ。」
「オレは12月だ。」
なるほどね。そうすると、国務館で名前を呼ばれた順もこの規則に従うんじゃないかな。
今の遣り取りで少しだけ安心した。マラッカさんの応答が普通に戻ったな。先刻皆で話をしていたのが効いているんだろうか?
「それじゃアンゲルは何月生まれだ?」
「なんだよ突然。生まれ月なんか聞いて。オレは1月だよ。」
「今回の異動で、アンゲルの上の世代って居なかったりしないか?」
「ああ。そうだな。オレは入庁8年で、上のヤツ等は9年だろ。若手って括りだと、オレ達がギリギリ。上のヤツ等は中堅って呼ばれるからな。それより何の話なんだ?」
「いや、席順がどう決まってるのかと思ったんだ。国務館でアンゲルが最初に呼ばれてただろ。
それって生年月日順だったんじゃないかな。それにこの席順も生年月日順なんだよ。
まあ、どうでも良い話なんだけどね。」
「あっ。なるほど……しかし本当にどうでも良いことだな。
ただ、ミケルが難事件を解決したってのも、偶然とかじゃないってことが少しだけ分った気がする。
しかし……そんな事に気付くのに……残念感があるな……。」
なんだ?残念感って。
オレ達は席に着いて、机の上にあるファイルを開けてみた。
数学、物理学、化学というタイトルの膨大な書類がファイルの中にあった。
一番上には、オレ達のグループの今後の予定が記載されていた。
来週から3週間は気象研究室、その次の3週間は天然物研究室、後は天文研究室、石炭化学研究室、電気研究室、分析化学研究室、機械研究室、薬剤研究室、物理研究所。最後は無機化学研究室だ。
全てが終わるのは8月の半ばになる。
文書には、その後配属希望を提出して正式な配属先が決まると書いてあった。
第一希望から第十希望まで記載して提出するんだそうだ……それって、配属されたく無い研究室も希望した事になるのか?
まあ、どこが嫌だとかは今のところは無いんだが、ここだけは嫌ってところが出てこないとも限らないんだよな。
とりあえず各研究所を経験してからだな。
オレ達が席に着いて少しして、バンビーナ事務長が部屋に入ってきた。
手を叩いてオレ達に入ってきたことを告げた。
「はい。それではこちらに注目してください。これからガイダンスを始めます。
最初は私が全ての研究室に共通する内容を説明します。
その後、物理研究所、化学研究所の順で各研究室の説明を担当の准教授にしてもらいます。
それでは、先ず、このメーテスでの勤務について説明します。
質問がありましたら、挙手して指名されてから発言するようにしてください。
なお、今日も含めて当面の間、アイルさんとニケさんは宰相閣下への対応をしているため不在です。
お二人でなければ説明できない事があるかもしれませんが、その場合にはご容赦ください。」
それから、勤務規定についての説明があった。
毎日の勤務時間、週に一日休日がある。
最初の休日は明日で、その後6日毎に休みがあるといった事の説明があった。
そのあとで、残業をした場合、休日に業務をした場合、遠隔地に出張した場合、高所作業や危険薬品を扱った作業を実施した場合には追加賃金を申請できるという説明があった。
どうやら准教授の承認が必要らしいのだが驚きだ。
もし、実際にそういった業務をして准教授が承認しなかった場合には管理部門に直訴することも出来るという説明もあった。
こんな労働条件は聞いた事がない。
そもそも休日なんて、体調を崩して勤務出来なかったりしないかぎり存在しない。
本当に休みが必要な用事がある場合、上司と長い長い遣り取りをした後で漸く業務を休むことが出来た。
そもそもオレの前職場で勤務時間の規定が存在していたかどうかすら怪しい。
罪の証拠を固めるために何日も睡眠時間を削って調査したなんてことはザラだった。
そんな場合も追加の賃金が出るという事はなかった。
毎月同じ賃金を貰い、体力の許す限り働いていた。
何人も質問をしていたが、誰もが信じられなかった様だ。
その後も想像を絶する説明が続く。
年間、減給される事の無い休暇がd10日あり、それは何時実施しても良い。
結婚をした場合には、2週間の特別休暇があり、それも減給される事は無い。
つまり、休みを取っても給料が出るということの様だ。
極め付けは子供が生まれたら女性の場合は半年の給与を減らされる事の無い休暇が与えられる。
男性の場合も1ヶ月の休暇が与えられる……。
やはり質問が出た。それに対しての回答は
「マリムでは、商店も工房も同様の勤務条件です。メーテスだけ労働条件を悪化させる訳にはいきません。そんな事をしたら、優秀な人材が商店や工房に移ってしまいます。」
だった。
結局のところ、今説明をしているメーテスの勤務条件が異常なのではなくマリムが王国の標準的な状況から懸け離れた状態にあるという事だった。
マリムの人口が増え続けているのの一端はこんな部分にもあるのか……。
皆声が出なくなっていた。質問も無くなった。
「これらの内容は、お渡ししている資料の最後に纏めてあります。かならず読んで理解しておいてください。
このファイルの勤務条件以外の部分は、数学、物理学、化学について、メーテスで学生が4年間で学ぶ教科書を集めてあります。全てを理解する必要はありませんが、これから業務をしていく上で必要な基礎知識はこの中にあります。
また、もし希望する場合には、学生の授業を聴講する事も出来ます。
配属先の准教授と相談してください。」
溜息とも絶望の嘆きともつかない音が会場内に満ちた。
「それでは、これから、各研究室で共通の勤務内容について説明します。
今、この研究所の業務の半分以上は新しく生れた考案の考案税申請書の作成となっています。
考案税申請書は迅速に提出する必要があります。
皆さんには各研究室での業務の内容を把握していただきながら、考案税の申請書の作成をお願いすることになります。」
会場中が騒ついた。
当然の様に質問が出た。
「考案税の申請の提出は、考案した者の権利を守るためには必要な事でしょうが、メーテスの考案品は、他には無いものが多いと聞きます。それは迅速に提出しなければならないものなのでしょうか?」
「仰ることは解りますが、多分誤解していると思います。
私達は権利としての考案税申請を重要視していません。むしろ義務だという認識です。
マリムの街に沢山の馬車が走っているのを目にしたかと思いますが、最初馬車はアイルさんが作るまで、この世には存在しないものでした。
今では、幾つもの工房で馬車が作られています。
それは考案税の申請書が公になっているからです。
このメーテスの前身の領主館研究所の頃から研究所で新しくつくられたモノは、考案税申請書として公になっています。
コンビナートの工場や、鉄道、大型船のように、中にはアイルさんとニケさんの魔法でなければ実現出来ないものがあるのは事実です。
しかし、そうでは無いものも沢山あります。考案税の申請書を読むことが出来て理解することが出来れば同じ事を実施することが出来るようになるのです。
作り方や構造が分らないものを作ることは出来ないですよね。
現在、国務館の考案税調査部門では要求に応じて過去にマリムで考案され申請された文書の複写文書を渡す業務も行なっています。
考案税申請書として公になることで、様々な人が、自分達の工房、商店の新しい商品として作り出す事が出来るのです。」
なるほどと思う。
そうやってマリムは発展してきたのだろう。
このメーテスで知識の無いオレ達に何が出来るんだろうかと訝しんでいた。
内容が良く解らず難航するかもしれないが、申請書を書くのであれば、それは文官仕事だ。
「最後に、こればかりはどうなるのか全く予想できないことですが、時としてアイルさんとニケさんが突然何かを作り始めることがあります。
コンビナートの工場、大型船、鉄道などはそうやって作られてきました。
これまでは、ここに居る准教授達が駆り出されてました。
その様な場合には人手として皆さんの手を借りることになると思います。
文官仕事とは違って肉体労働になることも多いのですが、ご協力をお願いします。
全体の概要説明は以上です。何か質問があればお受けします。」
それから幾つか質問が出たが、これまでの説明と大きく変わった事は無かった。
そのあと、各研究室の説明に移った。
物理研究室だけは准教授が居ない。アイルさんも居ないので、天文研究室のピソロ准教授が説明していた。
この研究室は、どの研究室に振り分ければ良いか判断が付かない内容の研究や基礎的な物理法則の検討を行なっているのだそうだ。
准教授が居ない所為もあって、しょっちゅう物理研究所の准教授が駆り出されるらしい。
もし我こそはと思う文官の人が居たら准教授を引き受けて欲しいと言っていた。
ただ、難解な研究が多いので、引き受けると大変なことになるとも言っていた。
担当研究員がアイルさんだけという事もあって、未提出の考案税案件が山のようにあるんだそうだ。
オレは、オレ達の日程表を見た。物理研究室は最後から二番目だ。
なんとなくほっとした。
申し訳ないが、前半で仮配属した連中には精々頑張ってもらおう。オレ達が仮配属するまでに全て片付けてもらえれば良いな。
その後、各研究室の説明が続いた。
昨日晩餐会で簡単に説明を受けている内容が多かった。
晩餐会の時に質問を受けたのか実際の機材を持ち込んでいる准教授も居た。
特に質問も無く進んでいく。
どうせ、仮配属したら内容を詳しく聞く機会がある。
ガイダンスが終了して昼食の時間になった。
昼食後は各グループに分かれてメーテスの見学をする事になっている。
案内してくれるのは、来週配属する事になっている気象研究室のウテント准教授だ。
昼食を摂るために、講義棟の外に出て食堂に向かった。
移動している最中にハムが驚いた表情で指を差した。
「あれは……何だろう?」
そちらを見ると、奇妙な形をした建造物が並んでいた。
巨大な丸いものが幾つも在った。




