N4.偽造防止
「では、再び紙幣の偽物の話に戻ろう。」
宰相閣下が話を元に戻した。
「実は、紙にも少し特徴が有るのです。この部分を注目していただけますか?」
デニスが指し示したのは紙幣の絵柄が抜けている場所だ。
楕円形に何も印刷していない場所がある。裏も同じ場所に白地の部分がある。
何故そこに何も描かれていないのだろうと不思議に思っていたのだが……。
「光に翳すと王国の紋章が浮き出て見えます。」
説明を聞いた私達は、灯明に紙を翳して見た。
確かに、王国の紋章が黒く見える。
絵柄が複雑なだけでなく、そんなものもあったのか。
「この紙に文様を入れる手法は、スカシと言うものです。アトラス領では、重要な証文などに使っていて、用途を限定した上で、スカシの入った紙の生産は厳重に管理しているそうです。」
「それでは、作り方自体は、既に知られているのではないか?」
国王陛下が疑念を述べられた。
「はい。通常のスカシは、アトラス領で製紙を行なっている一部の者は知っています。
ただ、この紙幣に使用したスカシは、これまでのものと異なっていると聞いています。
これまで作られたスカシは、白い色の濃淡として見えるのですが、紙幣のスカシは黒く見えます。この特殊なスカシは紙幣で初めて実施したものだそうです。」
「その特殊なスカシを作る手法は知られていないのか?」
「はい。アイル様とニケ様からそう聞いています。そもそもスカシというものはお二人が作り方を教えて始まったものだそうです。これまで、この黒く見えるスカシは作られたことは無いそうです。」
「なるほど。色々と偽物が作れない様にしているという事なのだな。」
「はい。紙そのものも、特殊な紙なのだそうで、塗れても破れ難く、使っているインクも水や油で滲まない特殊なものだそうです。
この紙とインクは、紙幣用に新たに作り出したもので、他の製紙工場では作られていないものという事です。」
「偽物への対策を行なうことが出来ると聞いていたが、この精細な絵柄やスカシ、特殊な紙とインクで偽物を防ぐという事なのだな。
しかし、逆に、もし良く似た偽物が出てきた場合に、それを見破る事が出来るのだろうか?」
確かに良く似ているモノが出てきた場合に、似ているだけに、それが偽物かどうかを確認する事は難しくなる。
そう簡単にではないが、本当に良く似た偽物が出てきた時に、今度は逆に偽物と本物の区別が付かなくなるかも知れないのか。
「それについては、既にアイルとニケから聞いている話がある。いや、この件はニケ単独の話かも知れないな。」
宰相閣下は、部屋の隅に置いてあった物を机の上に乗せた。
一つは、金属製の皿。もう一つは、何か良く分らない四角い箱だ。なにやら紐のようなものが付いていて、その紐が部屋の外に延びている。
そして、眼鏡のようなものが幾つかある。
「グイード。この紙はこの箱のような物といっしょに送られてきた。
この紙は、紙幣に使われているものらしいがどうだ?」
宰相閣下は、グイードに無地の紙を手渡した。
グイードは、少しの間、その紙を触ったり曲げたりしていた。
「はい。この紙は私達が紙幣の試作の為に作った紙に相違ありません。」
「そうか。それで、この紙を燃やしてみせる。」
そう言うと、宰相閣下は、金属の皿の上に紙を乗せ、魔法で火を付けた。
紙は燃え、赤い炎が立ち上った。
「ニケから、手紙が来ているのだ。
ニケが送ってきたこの手紙には、「この紙にはストロンチウムが練り込んであるので、燃やすと赤い炎が出ます。」とある。
この……ストロン……チウム?というものは、かなり特殊なものらしく、通常の紙には含まれていないものらしい。」
ストロン……なんとかというのは何なのだろう。聞いたことが無い。
「そのストロンなんとかというものは、一体何なんでしょう?」
「グイード。其方は、聞いているか?」
「いえ。私も初めて聞きました。それに私達が作った紙を燃やすと赤い炎が出るという事も知りませんでした。」
「そうか。ニケは製造している者にも伝えていないのだな。
手紙によれば、紙幣を燃やすと赤い炎が出ることは知られてしまうかもしれないが、どうして赤い炎が出るのかを知らなければ、偽物が本物と同じにはならないそうだ。
そしてアスト長官。その、ストロン……チウムか。それについては、知らなくても良いのだ。
燃やすとその炎が赤くなるという事だけでな。」
まあ、それが何か知ったところで、私が何をする訳でもない。却って知らなくても良い事だろう。
そっくりに真似た紙幣を作っても、本物か偽物か分るという事か。
しかし、燃やさないと分らないのは……あっ、そうか、紙幣は紙だから、その一部を切り取って燃やしてみれば良いのか。
「この判別方法は、本物と区別の付かない偽物を判別するのに有効なのだが、如何せん、一部を切り取って燃やしてみないと判らない。
そして、ニケは別な方法についても知らせてきた。
それが、皆を無線機室に呼んだ理由だ。
この方法は電気が使えないと試すことができないのだ。
王宮で電気が使えるのが無線機室しか無いので、ここに集ってもらった。
まず、皆で、この眼鏡を掛けてもらえるかな?」
宰相閣下から眼鏡を受け取って、それを掛けた。
「ニケの手紙では、眼鏡が無くても問題は無いらしいが、目を痛めないため念のため掛けて欲しいと書いてあった。
皆、眼鏡は掛けたかな?
それで、この箱のボタンを押すと箱から目に見えない光が出るのだそうだ。
目に見えない光というのは、全く意味不明なのだが……。
光なら目に見えるのではないのか?」
宰相閣下はそう言って、皆が眼鏡を掛けたのを確認すると、箱の上にあるボタンを押した。
何も起きていないな。一体何が起こるのだ?
あっ。箱の側にある紙幣が光っている。
「ニケの話では、この箱の側に紙幣をもってくると光るとあったのだが……確かに光っているな。
文字と図形の様なものが光って見えるな。
ガラリア王国という文字と王国の紋章のようだ。
一応説明が記載されているのだが……顔料から特殊なエレメントを得ることが出来たので、それで印刷しているらしい。
イットリウム?とユーロピウム?……あと色々書いてあるが……何だか分らん。
まあ、分らなくて良いのかもしれない。
この目に見えない光が出る道具を使えば、本物の紙幣と偽物を区別することが出来るのだそうだ。」
「紙が光っていますね。不思議な感じです。魔法を見ている様です。」
デニスが呟いている。
「すると、これもグイードには伝えられていないのか?」
「初めて見ました。一体、この文字と紋章は何時印刷したのでしょう……あっ、最後に通し番号を印刷する道具に、何か白い液体を使っていました。あの液体がこの不思議な現象を起こすインクなんでしょうか……。」
デニスが頻りに不思議がっているが、そこまで秘密に事を進めていたのか。
「さて。ニケの手紙の内容は秘中の秘だ。
この部屋を出た後、口外する事を禁じる。
良いかな?」
私、ミネオ長官、デニスが頷いた。
「しかし、あの二人はとんでもないものを作ったものだ。
グイードも良くやってくれた。
ここで見た事のうち、燃やすと赤い炎が出る事とか、あの不思議な箱の側で紙幣が光る事は王国で知られる事にはなるだろう。
ただ、どうしてそんな事が起こるのか知らなければ、偽物を本物と偽ることは出来ない。
それに、この紙幣が光る事に関しては、魔法の様な事象だとでもしておけば、偽物を作ろうという意欲も湧かなくなるのではないかな。」
「しかし、見事なものだな。宰相。どう考える?我が国の貨幣を紙幣に移行しても大丈夫だろうか?」
「そうですな。大丈夫でしょう。想像していたものの遥かに上を行く、かなり完璧に近い物が出来上がってきました。
それでも、人がする事に完璧はありませんから、意表を突く様な事は起こるかもしれません。
ただ、ここまで完成しているならば、まず間違いなく偽造紙幣は出てこないでしょう。
万が一、その様なものが現われたら、その時にはその時で対応するしかありません。」
「そうか。まあ、そんなものだろうな。それでは、我が国の貨幣を紙幣に代える事にしよう。」
「では、そのように手配いたします。
それで、グイード。この紙幣は一月でどの程度生産出来るのだ?」
「今は試作装置なので、一度に1枚ずつ印刷しているのですが、それでも、昼夜連続で生産すれば月にd6ミロ枚ぐらいを印刷することができます。
アイル様の話では、量産するする道具では、大きな紙に一度大量に印刷することが出来るそうです。その場合には、道具1台で、月にd600ミロ(≒26億)枚はいけると言っていました。」
「それは……また……とんでもなく凄い枚数だな。
ミネオ長官。各金種毎に、現在流通している通過を完全に紙幣に交換するためには、どのぐらいの枚数が必要になると予想している?」
「あくまで概算なのですが、1ガリオン紙幣は、大金貨、小金貨、大銀貨の金額分だけ必要になります。概算ではd150ミロ(≒6億)枚です。
d100ガント紙幣は、d400ミロ(≒17億)枚。
d10ガント紙幣は、d2ボロ(≒100億)枚。
1ガント紙幣が一番多くて、d10ボロ(≒600億)枚となります。
ただ、これは、最終的にこの枚数が必要になるかもしれないという枚数ですので、交換の際には、少額の貨幣に対応する紙幣はこれより遥かに少ない枚数で良いと思われます。」
「それは、どういう理屈でそうなるのだ?」
「交換する時に、小銅貨を1枚だけ持ち込む者は居ないでしょう。
小銅貨だけを持ち込む場合であっても、纏まった金額で持ち込む筈です。
小銅貨をd100枚持ってきた者に、1ガント紙幣をd100枚渡す必要はありません。d100ガント紙幣を1枚渡せば良いのですから。」
「しかし、そうした処理をした場合、後々困った事になったりはしないのか?」
「それは、これから順を追って検証する必要があります。そもそも王国内に流通している貨幣の正確な枚数は不明なのです。
売買の際につり銭が不足するという事が起るかもしれませんが、交換を開始してからも紙幣は生産しつづけるのでしょう?
状況を見て対応すれば良いだろうと思います。」
「なるほど。それでは、当面必要となる紙幣の量はどのぐらいに定めれば良いと考えるのだ?」
「そうですね。高額の紙幣はそのままの枚数準備した方が良いでしょう。
少額の紙幣は先程の枚数より、かなり少なくても良いと思います。
1ガリオン紙幣はd150ミロ(≒6億)枚、d100ガント紙幣はd400ミロ(≒17億)枚。
d10ガント紙幣と1ガント紙幣は、各々d1ボロ(≒50億)枚準備できたところで、貨幣と紙幣の交換を開始しても良いと思います。」
「すると、先程のグイードの話をそのまま信用すると、二ヶ月ほどで準備が完了する事になるのか……。
グイードは、至急マリムに戻って、今ミネオ長官が言っていた枚数の紙幣の生産を急いでくれ。
一応、余裕を持たせて3ヶ月後から貨幣と紙幣の交換を開始することにしよう。
アスト長官は、それまでに、交換した貨幣を精製して金属に戻す手筈を整えて、大量の貴金属を保管する場所の準備、紙幣と貨幣の交換のための準備をしてもらえるか?」
なんと。たったの3ヶ月で、金属の精製の準備と保管場所の建設をしろと言うのか?
「宰相閣下。そんなに短期間で、保管場所を決めて保管場所を建設するなど無理です。それに、紙幣の生産も財務省の管轄で、さらに現行の貨幣と紙幣の交換の業務まではとても手が回りません。」
「ふむ。なるほど。少し財務省に業務が集中しすぎているか。」
「あの……。お話中に申し訳ないのですが、本格的に紙幣を生産するとなると、私のところの手も足りません。増員をお願いしたいのですが……。」
なんだと。業務が増えるというのに更に人員を割かなければならないのか?
そんな事は無理だ。
「もう既に財務省では造幣局の為にd10名の者を割いております。業務が増加するというのに、これ以上の人員を造幣局に出す余裕はありません。」
「そうであるな。少し体制を考えなければならないな……。」
それから少しの間、宰相閣下は黙して考え込んでおられた。
「それでは、産業管理部門に貨幣と紙幣の交換業務を担ってもらおう。
以前話をしていた資金を貸し出すための民間組織が立ち上がりつつある。商業ギルドと言ったかな?そこに貨幣と紙幣の交換を行なってもらう事にする。
そして、造幣局は宰相府の管轄とする。今回財務省から造幣局に送った人員については宰相府から財務省へ補填する。
造幣局で不足している人員の手当は、宰相府で行なうことにする。なに、最初の紙幣を作り終えるまでが問題なのであろう?
何しろ、秘匿性の高い業務だ。一時手伝いと言っても、外に漏らしてはならない事が多い。秘密の保全は宰相府で管理することにする。
財務省は、これまで通り、王宮の資産の管理と予算管理を実施してくれ。
そして、貴金属の管理場所についてだが、ノアール川沿岸には、ノルドル王国ヘ対抗するための砦がいくつか有って、今は使っていないと聞いている。
保管場所として使えないかをアトラス領と相談してくれ。」
「私達は宰相府の所属に変わるのですか?」
「そういう事にする。陛下。宜しいでしょうか?」
「今回の紙幣の生産は、かなり秘密を保持せねばならない事が多いようだ。宰相府で一元管理するのが良いだろう。」
「では、陛下その様に致します。
グイード。造幣局で生産する紙幣の量は、通貨管理庁で調査して決めていくことになる。良く相談しながら進めてくれ。同じ宰相府の所属だから協力し合ってくれ。それに造幣局があるメーテスも宰相府の管轄だ。」
「分りました。」
「それに、今回の紙幣の生産を遣り遂げた後は、造幣局は通貨管理庁と同格の組織に引き上げる心算だ。グイードは造幣局の長官となる。」
「えっ。私が長官ですか?」
「そうだ。励めよ。」
「はっ。身命を賭して務めさせていただきます。」
何だか驚きだな。私の部下が長官か?いや、元部下か。目出度いことなんだが、何か損をしたような気分になる。
まあ、財務省に余計な仕事を押し付けられなかっただけ良かったのだろう。
「それで、アスト長官。貨幣と紙幣の交換業務に当って、業務代行費用が発生するだろう。それに、貴金属類の精製費用。紙幣の生産費用。これらは今年度の予算には無い筈だ。関係部門と協議して特別予算を策定してくれ。」
本格的に紙幣への変更作業を開始するのであれば、予算措置が必要だ。
新しい部門との協議が必要になる。財務省の職員の大半はまだ休暇モードにあるが、尻を叩くことにしよう。
「はい。受け賜わりました。」
アトラス領とも協議が必要になるな。
これは私が直々に対応しようか。
アトラス領との交渉のために、マリムに行けば、紙幣に描かれているマリム大聖堂やマリム大橋を目の当たりにすることもできる。
ふむ。良いかもしれない。
「では、この会議は、ここまでとしよう。」
宰相閣下が会議の終了を宣言された。
自分の執務室に戻ろうとしたところで、宰相閣下に呼び止められた。
「アスト。私は、貴殿には、引退するまで勤めて円満に退官してもらいたいと思っている。酒の飲み過ぎぐらいは構わないが、くれぐれも奇しな事に巻き込まれるなよ。」
うっ。昨日の事は、バレているようだ……。




