98.加速試験
アイルと私は、馬車でメーテスに移動した。
私は、昨日仕掛けておいた、紙の耐光試験の確認のために、化学研究所へ。
アイルは、凹版印刷の装置を作るために、色々試験をすると言って、造幣所へ向かう。
昨日デモしていたのは、凸版の印刷機。
数字を順にスタンプするための機械は前世でも見たことがあるけど、それの高速で、高精度な装置だ。
別れ際に、レジスト剤を渡した。露光に関わる性能試験は、アイルの方でやってくれるんだって。
私は、紙幣用の紙に専念することにした。
研究室に着いたときには、既にヨーランダさんが居て、昨日紫外線照射した紙の状態を確認していた。
褐色になっていて脆くなっている紙が幾つもあった。
これは、紙幣には使えないね。
前世で、古い紙にこんなのが有ったな。酸性紙ってやつだ。
酸性紙にならない様に紙の処理はアルカリ性の薬品を使っているんだけど、添加した成分が分解して酸にでもなったんだろうか?
そんな中に、凄く硬くなっているものがあった。
これは、紙というより薄い板になっている。
簡単に割れたりしなかったけれど、折り曲げると元に戻せない。表面のあちこちに亀裂が入ってしまう。
紙幣には使えないけど、この構成で作った紙で箱を作っても良いかもしれない。
最初の紙の状態で箱を作れば、軽くて丈夫な箱になりそうだ。
ん?ひょっとすると、これって、絵の土台の木材の修復に使えるか?
うーん。どうだろう。スポンジ状になっている木材に上手く浸透させることって出来るかな?
そもそも、何百年もそのままかどうかは確認してみないとダメだろうけど。
アイルに相談してみようか。
騎士さんに、海岸に行って、スカスカになっている流木を集めてもらうようにお願いした。
スカスカになっている流木は、長い年月の間、紫外線が当ったり、海水に洗われたりして、リグニン成分が大幅に減って、丈夫なセルロース成分が残っている状態だ。
絵の土台の木材は、そこまで酷くないけれど、とても長い時間の間にリグニンを構成している成分が分解して、揮発していったんだろう。
絵の修復もしなきゃならないけど、今は紙幣の方をどうにかしなきゃならない。
紫外線を照射した紙を順に見ていった。
紫外線試験をした紙は、どれも茶色っぽくなっている。
あまり変色が酷くなければ、使えるかもしれない。
何種類か良さそうな紫外線照射後の紙で、耐水強度試験をしてみた。ほとんど劣化していないものが3種類見付かった。
幸い、添加した素材の系統が違うものだ。これで、選択の幅は広がるね。
この紙に使った添加物を主体に、成分比率を変えた試験紙を百種類以上作って、紫外線照射装置に設置した。
慣れた為か、試験の為の紙を作る効率がかなり良くなったな。
今後は、ヨーランダさんの手伝いが期待できなくなるけれど、何とかなるだろう。
作業が一段落付いたところに、アイルが昼食に誘いに来た。
食堂で食事を前にして、今日の成果を話した。
「じゃあ、紙幣に使えそうな紙が見付かりそうなのか?」
「まだ、それは分らないわ。今仕掛けている試験次第ね。
それより、絵の土台になっている木材の修復が出来るかもしれないのよ。」
「でも、下手な修復をしたら、後々大変な事になったりするんじゃないか?」
「そうなのよね。だから、『加速試験装置』を作って欲しいのよ。」
「それって、品質管理なんかに使うやつか?それで、どのぐらいの年数を保証するつもりなんだ?」
「うーん。d100(=144)年……くらい?」
「それは流石に無理だろ。せいぜい、10年とか20年とかが良いところだと思うけど。
大体、過酷な試験で大丈夫だったとしても、それで、どのぐらい保つのかって、どうやったら分るんだ?」
それは、その通りだ。
アレニウスの法則ってのがあって、樹脂の寿命は、温度が上昇すると短かくなる。ざっくり10℃温度が上がると、寿命は半分になるなんている経験則もある。
ただ、これは、かなり単純な場合だけで、木材の劣化っていうのは、遥かに複雑だろう。もし、微生物が関与するなんて事があったら、単純な加速試験装置だと結果が出るかどうかさえ分らない。
もし、化学反応による劣化だけだと仮定しも、温度を50℃上げて、劣化の速度は32倍にしかならない。d100年の現象を追い掛けようと思ったら、年単位の時間が掛る。
そして、どこまで劣化したら、寿命と見做すのかも難しい問題だ。
劣化具合を確認するために、強度試験をするとしても、どんな強度試験が寿命を判断するのに有効なのかってのもある。
これらをどうにかしようと思ったら、かなり詳細な研究と時間が必要になる。
「確かに。そうかも知れないわね。」
「それって、魔法でどうにかならないのか?」
「魔法?」
「ああ、だって、木材の劣化って、化学変化だったりするだろ?
だったら、加速試験を魔法で出来たりしないかなと思ったんだけど。」
うーん。どうなんだろう。これまで、魔法は分解や合成で使っていたけど、劣化ってのは、考えた事は無かった。
劣化って、様々な反応が重なっている。結合の弱い化合物の結合が切れて空気中の酸素で酸化したり、反応性の高い部分が側にある分子と反応したり、空気中の酸素や水と反応したり……。
リグニンなんていう得体の知れない複雑な化合物の劣化を再現する事自体が難しいよ。
仮に出来たとしても、劣化具合でそれが何年保つのかってことは、やっぱり不明だよね。
化学反応なんてものは、確率に支配されているんだから、そんな複雑な物質が時間とともにどうなるかなんて予測困難だよ。
「アイルが言う事は解るけど、やっぱり難しそうね。
時間を進めることが出来る魔法でも有れば別だけど。」
「えっ?時間?」
それから、アイルは押し黙ってしまった。
うーん。こうなると、アイルは、考えが纏まるまで、機能停止になるのよね。
私は、食事を続けることにした。
早くリブートしないと、アイルの食事は冷めちゃうんだけどな。
私が食事を終えて、少し経ったところで、やっとアイルはリブートした。
「なあ、ニケ。少し考えたんだけど。」
「アイル。そんな事より、食事したら?もう、すっかり冷めちゃっているよ。」
「えっ?あっ。食事の途中だったんだ。」
それから、アイルは食事を始めた。気が急いているのか、食べる速度が早い。
「最初に魔法を使った時の事を覚えているか?」
「ええ。私は初めて魔法が使えてとても嬉しかったわ。
でも、その直ぐ後に、アイルの魔法で部屋の外に押し流さたわね。」
「ははは。まあ、そんな事が有ったね。
でも、あの時、明確に水をイメージしていないのに、大量の水が出ただろ?」
「そうね。私は呪文が大事だと思って、呪文を唱えただけだったわ。」
「そうだろ。オレもそうなんだよな。水はイメージしたけど、別に水素と酸素が結び付いた分子をイメージしたりしていない。
それなのに、魔法が使えた。」
「そう言われればそうね。」
「それに伝承の魔法って、何で伝承されていたんだろう?」
「なんか、話があちこちに行くわね。」
「ニケは、分子や結晶なんかをイメージするから分離魔法が使えるんだよな。」
「そうね。そうしないと、分離出来ないわ。」
「でも、昔、そんな事を知らなくても、魔法を使えた人が居たんじゃないか?」
「でも、分離魔法は、海水から水が取り出せるから伝わっていたんじゃないの?」
「そんな魔法だったら、伝承の魔法なんて言って、伝わったりしないだろ。」
「そう言われればそうね。」
「だから、何か明確なイメージを持っていなくても分離魔法が使えて、それが有用な魔法だったから、伝わっているんじゃないかって思ったんだ。」
「ふーん。それで?」
「時間についての魔法って聞いた事あるか?」
「無いわね。ウィリッテさんの授業にも出て来なかった。」
「そうなんだよな。でも、モノを劣化なんかしても有用性は低いだろ。
それで、誰かそんな魔法が使えても伝承されなかったんじゃないかな。」
「まあ、そうね。時間を進められたとしても、あまりメリットは無さそう。
でも、お酒を作るんだったら、有効かもしれない。」
「それって、生物が関わるだろ。
生物が関わる現象だと、魔法は上手く行かないって聞いたことがある。」
「そうね。お酒だったら、生物が関わっているわね。
うーん。有用な使い道は無いかもしれないわね。」
「そして、オレ達が魔法が使えた時に、エントロピーが明らかに減少していて変だと思っただろ。」
「でも、開放系なら、別に変じゃないかもしれない。」
「まあ、それはこれから調べるんだけど、時間がそこに絡んでいたら、全然変じゃなくなるんじゃないかと思ったんだよ。」
「なんか、こじつけの様な気がするけど……。」
「でも、物が朽ち果てる事を思い描いて魔法を使ったら、その物は朽ち果てたりしないかな?」
「でも、そんな現象が起こったとしても、それが時間に依るのか、魔法による化学変化なのか判断なんて出来ないわよ。」
「じゃあ、化学変化じゃない時間変化が起こる現象だったら、分るんじゃない?」
「そんな都合の良いものなんて無いでしょ……。
あっ。」
有ったわね。ウラニウムが。




