第三十話「台本どおりに終わらない」
第三十話 台本どおりに終わらない
三十秒のあいだに、百八の世界で問題が起きた。
火災現場の水圧が下がる。
病院の非常電源が止まる。
避難列の先頭で子どもが転ぶ。
最終舞台の柱が一本折れる。
完璧な役割分担はない。
「東側、持たない!」
バンが柱を肩で受ける。
補正はない。
骨が軋む。
カイトが隣へ入る。
「一人で持つな」
「お前に言われる日が来るとはな!」
「俺も驚いている」
二人でも足りない。
観客席から、建設作業員、学生、老人が舞台へ降りる。
役に選ばれたからではない。
近くにいたから、手を添える。
残り二十五秒。
凪の足元に亀裂が走る。
俺は手を伸ばし、途中で止めた。
「凪、どうする」
「右へ跳ぶ。受けて!」
「分かった」
妹が自分で跳ぶ。
俺とミオが受け止める。
守る側と守られる側は、一秒ごとに変わる。
残り二十秒。
ディレクターが最後の姿を取った。
巨大な赤ん坊。
泣き声が劇場を震わせる。
『選んで』
それは命令ではなかった。
『正しい方を、選んで』
十年間、世界の答えを求められ続けた装置。
人間が迷うたび、最適な一つを出した。
間違えば責められ、成功すれば次も期待された。
ディレクター自身も、《正解を出す者》へ固定されていた。
「正解はない」
俺が言う。
『それでは、私は何をすればいい』
「候補を出せ」
カイトが答える。
「理由も、危険も、分からない部分も示せ。決めるのは本人たちだ」
『間違えたら』
「次の候補を出す」
ミオが言う。
「あなたも途中で意見を変えていい」
『役を、降りても?』
凪が赤ん坊へ手を差し出す。
「降りたあと、何をしたいか聞くよ」
白い光が小さくなる。
残り十五秒。
世界各地で、参加者へ小さな選択が届く。
避難扉を右へ開くか、左へ開くか。
水を病院へ送るか、火災へ送るか。
今は決めず、三秒後の情報を待つか。
正解は一つではない。
選んだ結果は、全員へ公開される。
残り十秒。
最終舞台の屋根が落ちる。
キューがヘッドセットを押さえる。
「舞台監督権限、限界です!」
「交代!」
佐伯奏太が制御卓へ入る。
三枝千春が負傷者を見る。
相沢咲が出口を壁へ描く。
名前のある人が、名前のあるまま仕事を分ける。
残り五秒。
ミオの手が、俺の手を探す。
「零」
「いる」
「終わったら」
「相談の続き」
「永久へ直す話」
「覚えてる」
三。
凪が叫ぶ。
「今日、卵焼き作るから!」
二。
バンが叫ぶ。
「給料の話も忘れるな!」
一。
カイトが、初めて配役表を見ずに言った。
「みんな、帰ろう」
ゼロ。
音が消えた。
劇場も、観客席も、金色の台本もなくなる。
◇
目を開けると、俺は廃体育館の床へ寝ていた。
隣にミオ。
反対側に凪。
少し離れて、バンとカイト。
キューは俺の胸の上で、工具箱を枕に眠っている。
世界は残っていた。
空は青い。
ニュースは混乱している。
役札は、完全には消えていなかった。
医師になりたい者へ、適性候補を示す。
災害時には、必要な作業を提案する。
ただし承認、拒否、変更、交代ができる。
固定役ではなく、《提案》になった。
ディレクターの新しい表示は短い。
《候補を提示します》
《決定は、あなたが行ってください》
《あとから変更できます》
最適配役で減った事故の一部は、また増えた。
最初の一か月で、判断ミスも起きた。
誰かが責任を押しつけようとした。
声の大きい者が、主役のように振る舞う場面もあった。
そのたび記録を開き、本人へ聞き、途中から直した。
世界は完璧ではなくなった。
代わりに、完璧でない人が消されなくなった。
◇
三か月後。
チーム《アドリブ》は、正式な探索救助会社になった。
業務は、舞台迷宮の配役相談。
危険な役の分担。
役を降りたい人の支援。
終演後の名前確認。
俺は《代役》を失ったままだ。
現場では配役表を読み、本人へ希望を聞く。
能力がなくても、できる仕事は思ったより多かった。
ミオは配信を続けている。
登録者は以前の半分まで減った。
それでも、自分で選んだ迷宮へ入り、自分で休む日を決める。
失敗した映像も消さない。
初心者スライムのアオは、公式マスコットになった。
俺が提案した《ポチ》だけは、今も全員に却下されている。
バンは裁判で、証拠隠匿について有罪。
救助行為については無罪。
執行猶予中なのに、子どもから英雄と呼ばれるたび困った顔をする。
「悪役の方が気楽だった!」
口ではそう言いながら、サインは断らなくなった。
給料も出した。
金額を見るなり「安い!」と叫んだので、一度下げるふりをしたら黙った。
カイトは《ファイナル・キャスト》の代表を辞任した。
現在は世界配役監査機構の一職員。
役の提案理由と拒否記録を検証している。
部下からは、元代表より今の方が話しかけやすいと言われている。
本人は不満そうだ。
凪は学校へ戻った。
三年の空白があるので、俺と同じ学年にはならない。
本人は「年下扱いしたら殴る」と宣言した。
放課後はノークレジットの相談窓口を手伝う。
ハサミの能力は戻らない。
代わりに普通の文房具店で、新しい銀色のハサミを買った。
キューは舞台監督として、正式な職員証を持っている。
身長は手のひらサイズのまま。
給与口座も作った。
「端末へ賃金は不要です」と三日抵抗したが、初任給で黄色いヘッドセットを新調した。
職員証の名前欄には、本人の希望でこう書かれている。
《キュー》
それだけだ。
◇
会社を作って最初の依頼は、英雄を辞めたいという相談だった。
依頼人は、十六歳の探索訓練生・小田切透。
適性提案は《次世代英雄》。
剣、判断速度、迷宮耐性。
すべて同世代の上位〇・一%。
以前なら、国が訓練校へ入れ、企業がスポンサー契約を結び、本人の人生は成功例として報道された。
「嫌なんです」
透は相談室で言った。
「戦うのが?」
「戦うのは嫌いじゃない。でも、僕が前へ出ると、同じ班の人が無理をする」
訓練迷宮の映像を見る。
透が進む。
仲間が追う。
遅れた一人へ《足手まとい》の提案が出る。
固定ではない。
拒否もできる。
それでも《次世代英雄》の隣で断るのは難しかった。
「僕が英雄を受けなければ、班は解散だと言われました」
「誰に」
「教官です。命令ではない。将来を考えた助言だって」
新しい世界では、命令の言い換え方も新しくなっていた。
カイトが提案履歴を確認する。
「教官の評価項目に、英雄候補の輩出数がある」
「拒否したら教官が不利益を受ける?」
「昇進点が下がる。本人は生徒のためだと思っていても、利益が判断へ混ざる」
「では教官を悪役に」
バンが拳を鳴らす。
「するな」
「冗談だ!」
「半分、本気だった顔」
「四割だ!」
俺たちは教官も呼んだ。
四十代の女性で、透の実力を誰より高く評価している。
「この子なら、多くの人を救えます」
「本人が英雄を嫌だと言っています」
「今は怖いだけです。才能のある子が責任から逃げれば、才能のない子が危険を負う」
透の肩が縮む。
ミオが机の上の提案書を閉じた。
「私も十四歳で同じことを言われました」
教官が言葉を止める。
「実際、私は多くの人を救った。主役だった時間を全部間違いだったとは思いません」
「なら、この子にも」
「でも、救った人数を理由に、断れなかった時間まで正解にはしない」
ミオは透へ向き直る。
「英雄以外で、やりたいことは?」
「地図を作りたい」
「戦わずに?」
「迷宮の地形が変わる直前、壁の光が少し違うんです。僕、それを見るのが好きで」
キューが過去映像を拡大する。
透は戦闘の合間にも、仲間へ崩落地点を伝えていた。
勝利の切り抜きには残らない場面だ。
「《変動地形観測士》の候補があります」
ディレクターの提案。
適性は上位三%。
英雄より低い。
「三%なら十分高い」
俺が言う。
「〇・一%を捨てるのは、社会的損失です」
教官はまだ納得しない。
カイトが二つの試算を出す。
英雄として十年活動した場合の予測救命数。
観測士として崩落予報を共有した場合の予測救命数。
後者の幅は広く、成功率も低い。
ただし地図が公開されれば、複数の部隊が使える。
「数字でも、どちらが正しいとは決まりません」
カイトが言う。
「以前の俺なら期待値の高い方へ固定した。今は候補と不確実性だけを渡す」
「失敗したら、この子が後悔します」
「成功しても後悔することはある」
透が自分で申請画面を開いた。
《次世代英雄――保留》
《変動地形観測士――試用》
《三か月後に再検討》
「英雄を永久に捨てなくてもいい?」
「もちろん」
「観測士も、合わなければ辞めていい?」
「辞めてから別の候補を探す」
透は《承認》を押した。
教官は長く画面を見ていた。
「私は、何をすれば」
「評価項目の変更を学校へ求めてください」
凪が答える。
「先生が英雄を作らないと損するままだと、次の子も同じになる」
「変わらなかったら?」
「記録を持って、また相談に来て」
教官は頷いた。
最初の仕事は、誰かを格好よく救うことではなかった。
十六歳の選択を三か月だけ仮置きし、大人の評価制度へ宿題を返すことだった。
報酬の宝箱も、世界記録も出ない。
それでも透が帰り際、初めて肩を伸ばした。
「次に来るとき、地図を持ってきます」
「来なくてもいい」
「え」
「困らなければ、そのままでいい。相談所へ通い続ける役まで作るな」
透は少し笑った。
「では、困ったら来ます」
「それでいい」
◇
その夜、凪が卵焼きを作った。
最終公演の三十秒前に叫んだ約束を、本当に覚えていたらしい。
形は崩れ、砂糖と塩を両方入れたので、味は説明しにくい。
「まずい?」
「初回としては」
「まずいんだ」
「次へ変更できる」
「便利な言葉に逃げた」
食卓には、ミオ、バン、キューもいた。
カイトは誘っていないのに、監査資料を届けるという理由で来た。
「夕食時に資料を持ってくるな」
「勤務終了が十九時だった」
「帰れ」
「卵焼きは余っているようだ」
「食べたいって言えば」
凪が皿を遠ざける。
カイトは五秒ほど黙った。
「食べたい」
「最初からそう言えばいい」
世界を最適化した男が、甘くてしょっぱい卵焼きを一切れ食べる。
「評価は」
「次回の改善余地が大きい」
「零と同じ逃げ方!」
バンが笑い、五切れ目へ箸を伸ばす。
「お前は食いすぎ」
「まずい料理を減らす救助活動だ!」
「悪役へ戻すよ」
「役の強制は禁止!」
キューは食べられない代わりに、全員の皿の位置を揃えていた。
「舞台監督の業務外だ」
「自分で選んで行っています」
「なら止めない」
ミオが俺の隣で、二切れ目を取る。
「私は好き」
「本当?」
「砂糖が多い方は。塩が固まったところは嫌い」
凪は嬉しそうに、次の配合をメモした。
誰が兄。
誰が妹。
誰が恋人。
誰が元宿敵。
名前をつけられる関係はある。
だが名前どおりに振る舞えない日があっても、食卓から消されない。
食後、カイトが食器を洗い、バンが割り、凪が怒り、ミオが俺の袖を引いた。
「次の日曜、空いてる?」
「仕事の予定はない」
「では、水族館」
「依頼?」
「デート」
俺が答える前に、凪がカレンダーへ書いた。
《兄・休み》
「勝手に決めるな」
「変更する?」
ミオを見る。
「しない」
「では決定」
◇
日曜日。
俺はミオと水族館へ来ていた。
ダンジョンではない。
配信もない。
誰からも役を与えられていない。
「次、何を見る?」
ミオが館内図を広げる。
「クラゲか、イルカ」
「零が決めて」
「お前は」
「両方見たい」
「ではクラゲから」
「了解」
簡単な相談で決まる。
暗い水槽の前で、青い光が彼女の横顔を照らす。
「永久へ直す話」
ミオが突然言った。
「忘れてなかったか」
「台本がなくても覚えてる」
彼女は俺の手を取る。
「恋人関係の表記。《一時》を消して」
「システム表示はもうない」
「口で言って」
逃げ道を探す。
役ではないので、見つからない。
「これからも一緒にいたい」
「期間は」
「決めない。途中で話し合う」
「合格」
ミオが笑う。
その瞬間、館内放送が鳴った。
『迷子のお知らせです』
俺たちは顔を見合わせる。
「行く?」
「係員へ任せる」
「正解」
「正解って決めるな」
同じ言葉を返し、二人で笑った。
出口へ向かう途中、端末へ新しい依頼が届く。
《小規模舞台迷宮を検出》
《推奨配役――英雄一名、犠牲者一名》
《配役変更の相談を希望しますか》
俺はミオを見る。
「行く?」
「今日は休み」
「では明日」
「みんなへ相談してから」
《保留》を押す。
依頼元へ、自動返信ではなく短い文章を送る。
《英雄役と犠牲者役は、まだ確定しないでください》
《現場の人数、本人の希望、舞台装置の構造を明日確認します》
《今夜危険が迫った場合は、役名ではなく避難状況を連絡してください》
三十秒後、返事が来た。
《犠牲者候補の本人が、相談へ参加したいと言っています》
「最初に会う人が決まった」
ミオが言う。
「候補ではなく、名前を聞くところから」
「了解」
依頼欄の《犠牲者一名》という表示へ、灰色の注記がつく。
《本人確認まで未定》
小さな変更だった。
だが、明日会う誰かは、会う前から死ぬ役ではなくなった。
世界は終わらない。
すぐに一つを選ばなくてもいい。
次の役は、まだ決めない。
決めても、途中で変えればいい。
俺たちは台本のない出口を、自分たちの速さで歩いていった。




