泡は弾けた恋せよ乙女
家に着いた時、母さんはまだ帰ってきていなかった。まだ5時だし、仕事しているかもしれないな。香織と一緒に玄関をくぐる。
「ね、ダーリンの部屋ってどこ?」
「いや、普通に入ってきたけど、おいでとは言ってないからな?」
「えー、入れてくれないの?」
「……別にいいけどさあ」
紗奈も一緒だ。付き合って初日で相手の家に行くとは、ほんとグイグイ来るな。……いや、案外そんなもんなんだろうか。経験がないからわからないねっ!
紗奈を自分の部屋に案内すると、ベッドにダイブした。
紗奈が。
「はあ、いい感じだねー。柔らかいし、広いし……何より、ダーリンのにおいがする」
「ちょ、嗅ぐな!全然良いにおいじゃないだろ!」
「いや、良いにおいだよ?少なくとも私にとっては。あ、そうだ!私のにおいもつけちゃおー♡」
そういって紗奈は体をくねらせ、俺のベッドにマーキングし始めた。なにやってんだ!今思いついたみたいに言ってるけど、もしかして家に来たのってそれが目的か!
目の前で同い年の女子がくねくねしているのを眺めるプレイに耐性はないので、早くこの場から逃げ出したい。でも俺の家だ。紗奈を無理矢理引き剥がそうとしたが、駄目だった。ア〇ンアルファで貼りついてるんじゃないかと思った。速乾性の貼りつき方だ。仕方ない、一旦この部屋からオサラバして、風呂に入ることにするか。
スピーディーに移動、脱衣、開扉!選手、入場―っ!はー、やっと落ち着ける。
軽くシャワーでぬるま湯を浴び、シャンプーを手に取る。俺はまず頭から洗うんだが、人それぞれだよな、最初に洗う箇所って。頭?体?体ならどこから?……なんて話を男なら誰でも一度はしたことがあるのでは無かろうか。意味もなくクラスの気になるあの子がいったいどこから洗うのか、なんて迷宮入り必至の話を友達とするんだよな。それで、そのタイミングは大抵小学校時代だったりする。何故か?中学生からはもっとディープなことが気になるからだ。週何回とか……ゲフンゲフン。
バーっと頭を洗った後、洗顔フォームを手に取る。上の方から順々に洗えば汚れが残らないという訳だ。いつも体から洗っている人に聞かせてあげたいね。
それで、目を瞑り息を止めて、顔面に泡を塗り付ける。高校生はちゃんとニキビケアしなきゃ!美意識高いほうがモテるぞ諸君!
泡を流すと、目の前の鏡にはさっぱりした顔の俺と、茶髪が写った。
……待て。おかしいだろ。
「ダーリン、お体お流ししますね♡」
「おかしいだろ!なんで入ってきちゃった!?」
「えー、駄目だった?夫婦は一緒にお風呂に入るんじゃないの?」
ああ、紗奈は常識が通じないタイプなんだな。今理解した。遅いって?言わないでくれよ!
自分の鈍感さに苦悩していると、背中に泡だったタオルが当てられた。……どうやら逃げるという選択肢を塞がれたようだ。体を洗ってもらったら、早く出ていこう。
ゴシゴシと体を洗われる。
「どうですか~気持ちいですか~?」
「気持ちいいけど、早くしてくれ!恥ずかしいって!」
「……ねえダーリン、そんなに恥ずかしがらなくていいよ」
紗奈の声色が変わった。媚びるような、甘い声。
それでいて、何かに怯えているような声だ。
「無理やり入ってきちゃってごめんね。でもやっと出会えたから……嬉しくてさっ。私、舞い上がっちゃったんだ。とにかく一緒にいたいって、もう離したくないって」
「紗奈……」
俺は全く紗奈のことを覚えていないが、紗奈は俺のことをずっと探していたのだ。幼稚園の時の約束という藁にすがって、ずっと。
忘れてるよそんなの、ということもできた。
もう無効だ、ということもできた。
それはお前のエゴだ、ということもできた。
今の俺にとっては赤の他人なんだ、ということもできた。
だが、紗奈の思いは本物だと分かった今、俺にそんな残酷なことは出来ない。長年積み上げた思いでも、一度綻びが生じればあっけなく崩れ去るものだ。その時、紗奈はどうすればいいんだろう?怒りをぶつけるだろうか?悲しみに暮れるだろうか。
分からない。それだったら……壊さないほうがいい。
「もちろん俺も紗奈とまた会えて嬉しいんだ。でもちょっと恥ずかしくてな。悲しませてごめん」
「……いいや、私こそごめんねっ、ありがとうダーリンっ!」
紗奈が元気に返答をする。勢いのあるシャワーの音が沈んだ空気を打ち破る。
「じゃ、流しますよ~♡」
体の泡が流されていく。
排水溝に嘘が詰まっていく。
いつか真実が溢れるかもしれない。
後で後悔するかもしれない。
それでも今は、ぬるま湯を浴びて居よう。
今日は急だったし私は時間かかるから、と言って紗奈は俺を先に出してくれた。……頭を冷やしたいな。牛乳でも飲もう。リビングに向かう。
「あ、お兄ちゃん!お風呂あがったんだね。さっきはごめんね、早とちりしちゃって……。
ねえ、マッサージしてもいいかな?今日のお詫びってことで」
そこには、香織がオレンジジュースを持ってソファに座っていた。