色褪せの目覚め
息が……苦しい。
水の中にいるような深い碧の色が、前にあった。それしか、目に写らない。
アシェイラはもがいた。手を動かすたびに冷たさで、何千本もの針を皮膚に打たれるような痛みが走るのだけど、もがかずにいられなかった。
もがいても、もがいても、手が水面に届くことはなかった。それなのに、息はだんだんと苦しくなくなってきた。
と、深い碧の向こうに、灰色をしたぼんやりとしたものが姿を現した。しだいにはっきりとしてくる。
――あ!
それはエルカだった。アシェイラに、微笑みかけてくる。
――エルカ、エルカ!
アシェイラは呼びかけるが、口からは泡が出てくるだけで、声がもれることはなかった。しかし、エルカにはアシェイラのことばが伝わったようだった。うなづきかけてきた。
アシェイラはエルカに、近づこうとした。けど、どんなに水をかいても、前に進むことはできなかった。しかたなく、アシェイラはその場でエルカに話しかけた。
――エルカ。生きていたんだね。
が、エルカはそれに答えてくれなかった。じっと、アシェイラの顔を見返す。
――ね、エルカ。あたしもそっちに行って、いいでしょう。
アシェイラが聞くと、エルカは首を横に振った。
『だめだよ。あんたはまだ、やることがあるだろう』
――やること? やることって?
『それは、自分で考えるんだね』
突き放すように、エルカは言った。
『……これからはあんたひとりなんだから、自分で考えて行動するんだ』
不意に、水が渦巻いた。エルカの姿が揺らいだ。灰色と碧の色が混ざりあい、らせんを描く。どこからか、エルカの声がいくつも重なり、こだました。
『――いいかい、一番大切なのは自分の存在をちっぽけなものと思うこと。人間ひとりにできることなんて、限られているからね。だから、それを忘れちゃいけないよ』
『剣も力のひとつには違いない。でも本当の力とは、そんなものじゃないんだ』
『物事にはすべて、流れというものがある。それを、意識するんだよ』
『考えてもわからないってことは結局、無駄ってことさ。だったら感じるまま、行動してごらんよ。それが、いい結果をもたらすこともある。……もちろん、悪い結果をもたらすこともあるけどね』
『どんな結果になろうと、それを選んだのが自分なら、そして間違っていないと思うのなら――恥じることはない。胸を張って、生きていればいいのさ』
『わたしが一番、恐れているのはね、あんたに憎まれることさ』
『どうして、リースヴェルトは来てくれないの? これまでずっと、どんな時でもいっしょだったじゃない』
これは、アシェイラの声だ。
『そして――三つ目。あなたがあたしを殺すのではない。逆よ。あたしがあなたを殺す』
――讃えあれ、その御名を! リースヴェルト!
――白銀の戦士、エルカ!
――おお、大いなるもの! 偉大なるものよ、ファルファレル!
歓声がアシェイラの耳を満たすと、はっきりと声を聞き取れなくなってしまった。頭が、がんがんとしてきた。
そこで、アシェイラは目を覚ました。
ぱちぱちと、だれかが手を叩いているような音がした。視界のすみで、赤い色がにじんでいる。
火――火!
一気にからだに意識が戻ってきた。アシェイラは上体を起こした。
「気がついたかね」
すぐ近くから、声がした。アシェイラは、そちらを見た。
床の上では、薪が燃えていた。ほのかに暖かい空気がアシェイラのもとにも、流れてきている。
そこは貯蔵庫のようだった。周囲には棚が並べられ、そこには塩漬けの肉やソーセージ、チーズ、ハムなどが
入れられている。壁は丸太組みで、屋根は藁ぶきだった。風通しはかなりよく、日が暮れてからかなりの時間がたっているらしい。涼しい風が入ってきていた。
アシェイラが横になっているところは棚が遠ざけられていて、ちょっとしたスペースが作られていた。下に置かれたランプがその空間を薄暗く、照らしている。
床は地面がむきだしで、薪はその上で燃やされていた。その薪の横には椅子が置かれていて、初老の男が座っていた。
年齢は五十代くらい。もとは黒かった髪は白髪が目立つようになっており、黒々とした髭や眉毛と好対照をなしている。体格はかなりいい。が、それは戦士のものではなく、労働者としてのものだった。姿勢はあまりよく
なく、背中が丸まっている。獣毛を裏打ちしたチュニックに袖つきの革服、それにズボンを着ていた。
「あの……ここは?」
アシェイラは藁をしいたものに布だけがかけられた、急ごしらえのベッドに寝かされていた。かけ布団をはねのけて足を下ろしたアシェイラは青い染料で染められた、ひざの半ばまである長めのチュニックにスカートをはかされていることに、気がついた。スカートもそうだけどチュニックは村娘が着るようなもので、胸もとのひもはきちんと結ばれていた。
アシェイラが聞くと、初老の男は木片を削っていたナイフの手を休めた。アシェイラを見下ろす。
「ここはスタンドヒル村だ」
――スタンドヒル村。
口のなかでつぶやいてみたが、そこがどこらへんの村なのか、アシェイラにはさっぱりわからなかった。
「シーウィード山の北側の斜面にある、森の中の村じゃよ」
アシェイラの顔を読んだのか、男性がそう説明してくれた。
「シーウィード山?」
シーウィード山は縦に長い山で、アシェイラが飛び降りたシルバーバーチ河もシーウィード山のすぐ近くを走っているのだけど、まさかそこまで、おぼれもせずに流されてきたとは思わなかった。
「あなたが、助けてくれたのですね」
アシェイラが言うと、相手は顔をそらした。苦々しい表情を浮かべる。
「気にすることはない。川岸に服を着たまま漂着し、しかもけがをしている者を放置しておくほど、わしは無慈悲な人間ではない」
いらだちを隠したような口調で、男は言った。それは自分は何も特別なことはしていない、助けないほうがどうかしていると、告げているようだった。が、同時にアシェイラはどうしたことか、男が彼女を助けたことを恥
じているようにも感じられた。
「あなたは?」
アシェイラが聞くと、男はにらみつけるようにして、こちらを見た。
「そちらから先に、名乗るつもりはないのかね」
不機嫌そうに、男は言った。
「……マイアのアシェイラ。“白銀の戦士”エルカの娘」
マイアはアシェイラが捨てられていた、戦場の名前だった。
捨てられていたことに、アシェイラは特別な思いを抱いていないのだけど、マイアは泥沼という意味なので、あまり口に出して言いたくなかった。が、生まれということでは他に結びつく場所がないので、その名前を出す
しかなかった。
「ガーウィンだ。ディリアース族の“石砕き”ハレスの息子」
慣れた手つきでガーウィンはナイフを鞘に収めると、ベルトに差した。
「しかし、今の名乗り。まるで、男みたいだな」
「気に入りませんか」
……そういう言い方をされたのは、これがはじめてではなかった。
女性ながら剣を手に戦っていると、いろいろなことがある。戦士仲間にはもちろん、同性にも嫌味を言われたのも二度や三度ではない。戦士になったのはそのことも覚悟の上だったけど、アシェイラも人間なのだから面と向かって言われるとやっぱり、おもしろくなかった。
「いや」
ガーウィンは言うと、椅子から立ち上がった。背中を向ける。
それにアシェイラは、はっとなった。
――あー、もう! せっかく命を助けてくれた相手なのに、あんな口を利くなんて。
「気分が悪いのか」
目を閉ざし、ため息をついていると、ガーウィンは勘違いをしたようだった。声をかけてきた。
「い、いえ」
本当に気分は悪くなかったのだけど、ガーウィンにはそれが、わざとがまんしていると見えたのだろう。アシェイラをベッドに寝かせた。
「癒し手だが巡回日まであと、一週間ほどある。わしにできる限りの手当はしておいたが、それまで耐えられるかね。何なら、馬を回すが」
「大丈夫です。必要ありません」
ガーウィンに言われるまで、アシェイラは盗賊の剣でけがをしていたことをすっかり、忘れていた。
――それよりもっと、ショックなことがあったから。
が、戦場ではあれよりもっと重いけがを負うことがある。アシェイラとしてはあの程度のけがはかすり傷も同じで、チュニックの下の傷口には薬草が当てられていたのだけど、ガーウィンの態度は少し、大げさのように感じられた。痛みもほとんど、消えている。
「あまり怪我を、甘くみないほうがいい。自分では大丈夫と思ってもあっという間に、悪化してしまうことがあるんだからな」
真剣な顔をして、ガーウィンは言った。その話ぶりには妙な説得力があったが、アシェイラは首を横に振った。
「いいえ、あたしは戦士です。ですからけがのことなら、よくわかっております」
「戦士!」
吐き捨てるように、ガーウィンは言った。「やはりな。あんたの体にはいっぱい、刀傷があった。もしやとは思っておったが――」
そこでガーウィンは、口を閉ざした。椅子に力なく、腰かけた。
アシェイラは深く、息を吸った。上半身を起こして、ガーウィンを見た。
「戦士は、お嫌いなのですか」
「嫌いだな」
ガーウィンは顔だけをあげて、そう言った。「あたしが――女だから?」
ガーウィンが口を開いた。言いかける。が、彼はもう、何も言わなかった。椅子から立ち上がった。棚の間を歩いて行く。
アシェイラはその背中に声をかけようと思ったが、ことばが浮かんでこなかった。貯蔵庫の扉が閉ざされる
と、アシェイラはベッドに倒れ込んだ。頭の下で藁がかさりと、音をたてた。
――もう、寝よう。
起きたばかりなのだけど、目を閉ざせば寝られるような気がした。
――それに夢を見ればまた、エルカに会えるかもしれない。
アシェイラはランプのところまで歩いていくと、その炎を消した。
◇ ◇ ◆
アシェイラはゆっくりと、目を覚ました。丸太の壁の隙間から、日の光が入ってきていた。床の土や棚、火の消えた炭を照らしている。
……寝起きは良くも、悪くもなかった。が、それがいつも通りの朝でないことは、よくわかっていた。
エルカは、ここにはいない。この世のどこにも、いなくなってしまったのだ。
でも、そのことは明らかなのに、心のなかに何も入ってこなかった。まるで別人がその様子を見下ろしている
みたいに感じられた。
ベッドから立ち上がったアシェイラは自分のお腹を、見下ろした。
――こんな時でもお腹って、すくのね。
皮肉な笑みを浮かべた。
でも、お腹がすくのはそんなに悪いことではないと、アシェイラは思っていた。
……死んでしまえばもう、食事をすることもできないのだから。
と、アシェイラのお腹が鳴った。それはそんなことを考えていないで、何でもいいから口にものをいれろと、抗議しているみたいだった。
棚の間を通り抜けながら、アシェイラはちらちらと、そのなかのソーセージやチーズ、ハムなどを見た。空腹の身にはこの貯蔵庫にいること自体、耐えられないことだった。とにかく目につくものをもぎとって、食べてし
まえばこの苦痛から逃れられるのだけど、それだけはできなかった。
「だめだよ、盗み食いをしちゃ」
不意に、声をかけられた。
戸口のところに、人が立っていた。ガーウィンではない。九つか十ぐらいの、女の子だった。手にお盆を持っている。
「し……失礼な。そんなこと、しないわよ」
アシェイラはあわてて、手を腰の後ろにまわした。
「そーお? 今、わたしが盗み食いをして、おばあちゃんに怒られた時とそっくりな顔をしていたけど」
疑わしそうな目で見上げると、女の子はアシェイラの横を通って行った。椅子の上に、お盆を置く。
「はい。朝食はこれだけ。おかわりはなしだから、味わって食べてね」
それから女の子はベッドのほうに顔を向けると、アシェイラをじろりと見た。
「あなた、今、起きたばかりでしょ」
「え……えぇ」
「だめねぇ。シーツとか布団とか、きちんと畳んでおかないとだらしない人って思われちゃうよ」
「あ――いいよ。あたしがやるから」
「だめ! あなたは食事。せっかくの朝食が、冷めちゃうでしょ」
「あー、はい」
少女のことばに逆らえないものを感じて、アシェイラは椅子に座った。お盆をひざの上に乗せて、食事をとった。
朝食は丸いパンにサラダ、シチュー、ゆで卵、それにミルクというものだった。おかわりはなしとのことだけどパンはけっこう大きく、食べごたえがあった。
ちょっと危なっかしい手つきで女の子がシーツや布団を片づけているのを見ながら、アシェイラは自分が彼女くらい小さかった時のことを、思い出していた。
――あたしもエルカに、あんなことを言いながら、身の回りの世話をしていたっけ。
「あなた、ガーウィンのお孫さん?」
彼女が片づけを終えてから、アシェイラは声をかけた。
「え? うん、そうよ」
「ガーウィンから聞いているかもしれないけど、あたしはアシェイラ。よろしくね」
手をのばすと、女の子は握手をしてくれた。が、顔は笑っていなかった。
「よろしく? でもあなた、すぐいなくなっちゃうんでしょ」
「いなくなる? ガーウィンがそう言ってたの?」
うなずくと、女の子は顔を上に向けた。
「人間には定住する者と放浪する者の、二種類がいる。が、あの少女は定住者ではない。いずれまた、旅立ってしまう者の目をしている――だって」
アシェイラがそれに返答できないでいると、女の子はほこりを落とすように、ひざを叩いた。
「じゃあそれ、食べ終わったら扉の前に出しておいて。あとで取りに来るから」
女の子は一方的にそう言うと、走って貯蔵庫から出て行った。
アシェイラはそれを目で追うと、手にしていたパンをお盆に置いた。
――あの少女は定住者ではない。いずれまた、旅立ってしまう者の目をしている、か。
そうかもしれない。生まれたからずっと、アシェイラは戦場を求めて旅を続けてきたし、それは戦いが終わっても変わらなかった。
が、ここを出るということは、はじまりを意味している。
アシェイラは自分の手を見下ろした。剣の柄をつかむように握る。それを頭上に掲げ、振り下ろす。その場面
を、想像してみた。
――リースヴェルトを殺す場面を。
『あなたがあたしを殺すのではない。逆よ。あたしが、あなたを殺す』
リースヴェルトに向けて放ったあのことばを、アシェイラは忘れたことはなかった。
あの時、アシェイラはこうも言った。生き延びれるのかどうか、試してみるのではない。生き延びるのだと。
そして、アシェイラはここにいる。生きている。腹をすかし、食事をしている。
天がアシェイラに約束してくれたのだ。アシェイラがなすべきことを。でなければどうしてあの河に飛び込み、生き延びることができるだろうか。
理由はある。手段もある。あとは――決意だけだった。
すっかり朝食を食べ終えると、アシェイラは椅子から立ち上がった。棚の間を歩き、扉を開けた。お盆を外に出した。
河に落ちた時――。
と、アシェイラは思った。
あたしは死んだ。一度死に、そして生まれ変わったのだ。
リースヴェルトにあこがれていた少女は死んだ。
今、ここにいるのは、復讐のためならばどんなことでもする獣だ。血を吸い、肉を食らい、骨を噛み砕く獣。