褐色の丘
夏の日に部屋に閉じこもっていることほど、つらいものはない。
夏も半ばをすぎ、今日は特に暑い日のようだった。じっとしているだけで、汗がどっと出てくる。
倉庫は日の光が入らず、時々風も通り抜けていくので、湿気はほとんどないのだけど、それでもじっとしているだけで、汗がどっと出てくる。
今の季節は雨も多いのだけど、今日は晴れのようだった。お盆を出す時、扉から外をちらりと見たのだけど、空は雲ひとつない晴天だった。
たぶん外に出れば、もっと暑いのだろう。が、これ以上、倉庫のなかでじっとしているのは、限界だった。それに、アシェイラとしては日陰にじっとしているよりも、森のなかで虫の声に耳をすましたり、風の吹き抜ける丘で雲の形を目で追ったり、川の冷たい水の流れに足を浸していたほうがずっと、性にあっていた。
――川……。
アシェイラは拳をぎゅっと握った。ゆっくりと、息を吐き出す。
椅子から立ち上がった。壁ぞいに、扉の前まで歩いていった。扉を押した。
扉には、鍵がかけられていなかった。かすかにきしんだ音をたてながら、扉は開いた。
一日か二日、それしかたっていないのに、太陽を見上げるのは久しぶりのような気がした。まぶしさに、目がくらんだ。
まず、視界にとびこんできたのは、木の柵だった。それがぐるりと、まわりを取り囲んでいる。柵は杭に杭に木の板が数枚、打たれて作られており、アシェイラの腰ぐらいまでの高さがあった。それは外敵をなかに入れないというよりは、家畜を外に出さないためのもののようだった。柵のあちら側には土を踏み固めた道が続いており、そのさらに向こうには白樺の森が広がっていた。
アシェイラは後ろを振り返った。背後は軽い傾斜がつけられていて、そのところどころに丘が見え隠れしていた。その丘と丘の間を小さな川が流れていた。
倉庫の裏には丸い形をした、母屋のような建物があった。屋根は倉庫と同じ藁ぶきで、中心に向かって盛り上がるようになっていた。屋根の一番高いところには藁がなく、煙が通り抜けていくようになっているのだけど、今は火は使われていないようだった。
母屋の前の小川には丸太の橋がかけられていた。橋の向こうには馬が飼われているのだろうか、柵で丸く囲った馬場と小屋があった。
スタンドヒル村は森を帯状に切り開いた村のようだった。柵を接しながら母屋や家畜小屋、倉庫などがぐねぐねと続いている。斜面の高台に位置しているのは砦で、水堀と土壁で守られていた。土壁の内部、崖の手前には盛り土の丘があり、塔が建てられていた。
アシェイラは柵のそばを離れると、母屋のほうへと歩いていった。
母屋の前にいるのは幼子を胸に抱えた中年の女性と、ふたりの女の子だった。楽しそうに笑い声をあげている。
と、その笑い声が止んだ。アシェイラをいっせいに見た。
中年の女性が小川の下流へ二歩、三歩と走っていった。「ガーウィン、ガーウィン」と、家畜が群がっている小屋に向かって叫んだ。
女の子のうちのひとりが、アシェイラに近づいてきた。倉庫まで朝食を届けてくれた、あの女の子だった。
「どうして、出て来ちゃったの」
と、アシェイラのスカートを引っ張った。
アシェイラはひざをついた。
「どうしてって――倉庫にずっと閉じこもっていると、退屈だから」
「退屈って、そんな子供みたいなこと、言わないでよ」
「いけなかった?」
「う……ん。あたしはいいんだけど、おばあちゃんがね」
女の子が神経質そうに叫び声をあげている中年の女性を、ちらりと見た。
と、家畜小屋からガーウィンがこちらへ、歩いてきた。
「シルシィ!」
ガーウィンは怒っているようだった。歩き方からも、それがわかる。
「早くその女を、連れていけ!」
女の子――シルシィは大人のように、肩をすくめた。
「行こう」
アシェイラの手を握った。
シルシィは倉庫を振り返ったが、そちらではなく、小川へと向かった。川を飛び越え、馬小屋へと連れていった。
小屋の扉を開けて、ふたりは中に入った。と、アシェイラは干し草と馬糞の強い臭いを感じた。
なかは倉庫ほどではないが、涼しかった。小屋は板ばりだけど隙間があり、風通しがいい。
小屋の内部は板で仕切られていた。入ったすぐのところはちょっと広くなっていて、干し草や水桶、大鎌や農具、鞍や手綱、蹄鉄、轡などが置かれていた。
「そんなに倉庫のなかにいるのは、退屈だった?」
シルシィが話しかけてきた。
「え? あ、うん」
アシェイラはうなずいた。
「あたしも、倉庫じゃないけど、閉じ込められたこと、あったな」
「悪さをして?」
アシェイラが聞くと、シルシィはふくれたような顔をした。
「そんな悪さなんか、してないよ。ちょっと、言われたことを忘れていたりとか、ファーとけんかしたりとか、その程度」
ファーというのはもうひとりいた、女の子のことなのだろう。
「あなただっておしおきされたこと、あったでしょう」
「……ええ、そうね」
アシェイラはエルカのことをちょっと、思い出した。
「だから、わかるなぁ。さっき、子供っぽいって言っちゃったけど、この暑さだし、倉庫にいつまでもいたら、あきちゃうわよねえ。でも――もうちょっとがまん、してほしかったけどね」
それにアシェイラは、苦笑した。壁にかけられていた農具に、手をのばしかけた。
農具は三つ、きれいに並べられていた。長い柄の先に二股に分かれた金具が付けられているもので、農村ではよく見られるものだった。アシェイラも干し草を積み重ねる時など、その農具を使ったことがあった。どれもよく、使い込まれているのか、柄が油を塗ったみたいに光っていた。
「だめ!」
シルシィが大きな声を出した。それで、アシェイラの手が止まった。振り向く。
「だめ?」
聞くが、シルシィはアシェイラの顔を見ようとしなかった。ただ黙って、首を横に振った。
「その農具に触っちゃ、だめなの」
つぶやくように、言った。
アシェイラは横目で、農具を見た。農具はよく使い込まれているようなのに、ほこりをかぶっていた。それが気になっていたのだけど、そのことは聞かないほうがいいみたいだ。
「シルシィ! シルシィ!」
ガーウィンが女の子を呼ぶ声が聞こえてきた。それに救われたように、シルシィは馬小屋から飛び出していった。扉から外に出る。
アシェイラはその場から、動かなかった。何となく、動けなかったのだ。
しばらくして、扉が開いた。馬小屋に入ってきたのは、ガーウィンだけだった。
「ここに、いたのか」
昨日と同じ、無愛想な声で言った。
「……ええ。奥を見ても、構わないかしら」
「別に、構わないさ」
アシェイラは右手にある通路から、馬小屋の奥のほうへと歩いていった。
通路をはさんだ両手に、木の枠が作られていた。ひとつの木の枠は両手を広げたくらいあり、馬が入れられていた。木の枠は八つあるが、小屋に入れられている馬は六頭だけだった。通路の向こうには大きな扉があり、そこから馬場に出られるみたいだった。
アシェイラは馬の一頭に、近づいていった。はじめてアシェイラを目にして、馬はちょっと興奮しているみたいだった。鼻息が荒い。が、暴れるほどではなかった。ガーウィンも止めようとしなかった。
アシェイラは無理して、馬に歩み寄ろうとしなかった。遠くから、手を差し出す。すると馬は最初、警戒していたがゆっくりと、近づいてきた。手が馬の顔に当たった。
「さすが、戦士だな。馬の扱いが慣れておる」
ガーウィンが感心したように言うが、アシェイラの耳には皮肉めいて聞こえた。
「ここの馬は全部、農耕馬?」
「そうだ。ここより少し離れた場所にある耕作地で使っておる。この村では戦馬を育てたことは一度もない」
アシェイラは手を引っ込めた。ガーウィンを見る。
ガーウィンは通路の真ん中で、腕を組んで立っていた。目が合っても、視線をそらそうとしなかった。
「あのシルシィだけど――あなたのお孫さん?」
「そうだ」
ガーウィンはわずかに、顔を動かした。
「あまり、顔は似てないようね」
ちょっと意地悪な気持ちになり、アシェイラはそう言ってみた。
「シルシィとわしとは、血がつながっておらぬ」
「……え?」
ガーウィンが木の枠に向き合った。立てひざをつくと、馬が足を出してきた。ガーウィンはその足をつかみ、蹄鉄をのぞきこんだ。「九年ほど、前のことだ」
ガーウィンが言った。
「この村に、男と女、それに生まれたばかりの赤ん坊のとある一家が、迷い込んできたことがあった」
「……それで?」
「わしたちはその者を家族と思っておったのだが、実際は違っていた。男は脱走兵で、女と赤ん坊は略奪から逃れてくるところだった」
今度はアシェイラは、何も言わなかった。黙って、ガーウィンが語ることに耳を傾けた。「男は傷を負っており、間もなく亡くなった。女は――半年ほど生き長らえていたのだが、病が原因で亡くなった」
「じゃ、その時の赤ん坊が――」
「そうだ。シルシィだ」
アシェイラは口を閉ざした。
「わしにも息子が三人、いた。……飛び抜けて優秀ということもなかったが、相応に得意とするところがあり、それなりに誇れる息子たちだった」
ガーウィンは一度、馬小屋の入口のほうへ歩いていった。追いかけようとすると、彼はすぐに鞍と手綱を持って、戻ってきた。木の枠を乗り越えると手際よく、馬に馬具を取りつけていった。通路に馬を出した。
「あ……あの」
声をかけたが、ガーウィンはアシェイラを無視した。まっすぐ、馬場のほうへと馬を引っ張っていった。
――何なのよ、もう!
アシェイラは口のなかでぶつぶつとつぶやきながら、ガーウィンに続いた。扉をくぐり抜けて、馬場に出た。
風が吹き抜けていく。顔をあげると、丸く取り囲む柵が目に入った。柵はアシェイラの肩ぐらいまであり、馬でも簡単に飛び越せないようになっていた。
馬場の土はさらさらで、馬の蹄が軽く沈み込むくらいあった。ここは運動用のものらしく、それほど広くなかった。柵に沿って走らせることぐらいはできるだろうけど、全力疾走は無理のようだった。
その馬場を、ガーウィンは馬を歩かせていた。柵をぐるりと歩ませると、こちらへと向かってきた。アシェイラの前で、手綱を引いた。馬の足を止めさせる。
鞍の上から、ガーウィンがアシェイラを見下ろしていた。アシェイラは額の上に手をかざした。が、日の光がまぶしくて、表情はわからなかった。
「息子たちは、死んだ」
「え?」
「三人とも信心深かったのだが、それが災いした。息子たちは神官たちの招集の呼びかけに応じ、そして……帰ってこなかった」
アシェイラは息を止めた。馬小屋の壁にかけられていた、あの三つの農具のことを思った。
アシェイラはめまいを感じた。頭を振り、馬場を歩いていった。
「なぜだ!」
アシェイラの背中に、ガーウィンが問いかけた。
「どうして、人は争い合う。どうして、殺し合う。どうして、憎み合う。なぜだ――」
アシェイラは足を止めた。ガーウィンを振り返った。が、ことばは出てこなかった。
いや、ことばならある。が、ガーウィンは答えを求めていなかった。説明も、言い訳も、なぐさめも――。言ったとしても、そのどれもが彼には届かないことを、アシェイラは知っていた。
ガーウィンは顔を上に向けた。
「戦うことが無意味とは、わしは思わない。わしもここで――この村で日々、自然を相手に戦っておるからな。自然は時に牙をむき、苛酷な振る舞いをすることがあるが、おこぼれを与えてくれる。わしたちも農作物の手入れし、家畜に餌をやり、そしてその実りや肉を口にする。だがわしたちは一方的に、命を奪うことはしない。実りや肉を食らうことで、その命を預けてもらっている気持ちでおる」
「預けてもらっている?」
今までアシェイラは、そのようなことばを耳にしたことは、なかった。
「そうだ。どのような生き物も血や肉、地の実りを口にせずには一瞬たりとも、生き長らえることはできぬ。ならば、食らったものの命の分だけ、生きなければならない。それがこの地上に生きている、すべてのものの務めだ」
――すべてのものの務め……。
アシェイラは声に出さずにそっと、つぶやいてみた。
ガーウィンが馬をゆっくりと、進ませた。「だが、人は違う。人は欲で人を殺す」
「それは――」
「違うかね?」
アシェイラから少し離れた場所で、馬の足が止まった。アシェイラと向き合った。
「三ヵ月前、山の南で黒い煙が上がったのを、目にした。どうやら戦いは終わったようだが、では聞こう。何のために、戦いは起こったのだ」
ガーウィンが馬の鞍から降りた。馬場の上に立つ。
「おまえたちは剣を取る前に、考えたことはあるか? 戦いがどれだけの人々の命を奪うことになるのか。どれだけの悲しみと怒り、それに憎しみを生み出すことになるのか。少しでも、考えたことはあるのか」
ガーウィンはため息をついた。頭を横に振る。
「まだ娘のあんたにこんなことを言っても、無駄なのかもしれん。だが、剣の戦いに何の意味がある? 結局は自分の考えを押しつけようとするわがままから起きるのが、戦いなのではないか」
「それは、違います」
アシェイラは拳を握りしめた。背筋をのばす。
戦いで息子を三人も奪われてしまったのだから、ガーウィンがそう思うのも当然のことだろう。だけど、これまで戦った仲間や、戦死した人たちのために、言うべきことは言っておかなければならなかった。
アシェイラは深呼吸をした。胸元の鍵に手をやる。ガーウィンの横を通り抜けて柵に近づくと、そこから村を見渡した。
「……ここは、豊かな村のようですね。倉庫にはたっぷり、様々な食べ物が保存されてありましたし、農耕用の馬もいる。それに、あたしのような者にもあれだけの朝食を、用意していただけるのですから」
「それが、どうかしたのか」
「土地によっては雨が少し降っただけで土ごと、農作物を流されてしまったり、野火でせっっかく建てた家屋を焼失してしまったり、大挙して押し寄せるイナゴの群れに来年に蒔く予定の種まで、食いつくされてしまった村もあったようです」
アシェイラはガーウィンが自分のことを“石砕き”ハレスの息子と名乗っていたことを、思い出していた。この村も木を切り倒し、水を引いただけでは農地にならなかったのだろう。きっと、ガーウィンのふたつ名が示すように、大きな石がごろごろしていたに違いない。
すべての村がここのように豊かであれば、自分たちの力だけで生きていけるのかもしれません。ですが、そうでない場所では、どのようにすればいいのでしょう。そのような土地に、人は住むべきではないのでしょうか」
今度はガーウィンが、黙り込む番だった。手綱を手にしたままじっと、アシェイラを見た。
「あたしは、そうは思いません。そうした人々の負担を減らし、時に救いの手を差し伸べる。それが王や貴族、土地の領主がいる意味なのだと思います」
――いいかい、アシェイラ。王や貴族なんてのはね、偉ぶっているけど特別な存在なんかじゃないのさ。彼らだって、不当に税を重くしたり、土地を奪ったり、無能な官吏を放ったらかしにすればたちまち暴動が起こって、その地から追放されたり、悪くすると命を落とすことだってあるんだからね。
いつだったか、エルカはアシェイラにそう、話してくれたことがあった。
今、ガーウィンに語ったこともエルカが以前、話してくれたこととそんなに違いはなかったのだけど、アシェイラも同じように考えていた。
「ですがエボニーウォール市の神官たちは、それをしませんでした。土地の収穫物を横取りし、盗賊どもと手を組み、生きていくのに必要な塩や油、薬草などの値をつりあげるなどして、民を苦しめました」
ガーウィンは手綱を引いた。馬を歩ませる。アシェイラの前を横切ると、となりに立った。が、それでもまだ、ガーウィンは何も話そうとしなかった。
「神官たちの腐敗を見逃すということはもう、彼らに手を貸すのと同じことを意味します。そこまで、人々は追い詰められていたのです」
「だから、おまえたちは剣を取ったと。そういうことか」
ガーウィンがやっと口を開いたが、冷え切った口調は変わらなかった。
「……はい」
「だが今、エボニーウォール市にいる連中が絶対に腐敗しないとは、言い切れまい。その時は数十年後――いや、もしかすると数年後にやって来るのかもしれん。そうすればまた、大きな戦いが起きることになる。同じことの繰り返しではないか」
アシェイラは深呼吸をした。
「――そうかもしれません」
「そうかもしれない? そうかもしれない、だと」
ガーウィンは真剣に怒っている目をしていたが、恐くはなかった。まっすぐ、相手の目を見つめた。
「あたしはエボニーウォール市周辺を巡り、神官たちに苦しめられてきた集落を見てきました。……この村に最初からいれば、あなたのように戦いに意味はないと考えるのかもしれません。でも、あたしは集落の人々の泣き叫ぶ声や苦しみに満ちた顔、怒りを目にしてしまいました。そのなかにある悲しみを、理解してしまいました。だから――あたしは剣を取ることを、選んだのです」
「それがおまえの、答えということか」
「はい」
ガーウィンが柵から離れた。手綱を引き、馬小屋へと戻って行く。
「あ、あの!」
背中に呼びかけると、ガーウィンが足を止めた。
「外に出たければ、自由にするといい。この村にも商人や旅人、吟遊詩人などが立ち寄ることがあるからな。ただし、外に出る時はあんたが戦士であることを口にしないように。わし以外にも、戦士を嫌っている者はたくさん、おるのでな」
「あ、あの――あたしを、追い出さないのですか」
「何のためにだ」
ガーウィンが振り返った。あごを引く。
「わしの息子たちを、あんたが殺したかもしれないからか」
アシェイラは大きく、息を吸った。ガーウィンを見ると、彼は首を横に振った。
「出て行きたければいつでも、出ていくがいい。止めはせぬ。が、わしからそれを強制をするつもりはない」
それだけを言うと、ガーウィンは馬小屋に入っていった。
それを見届けると、アシェイラは柵のまわりを歩いていった。
以前、エルカはいつの日か、アシェイラは自分のしたことの意味を知ることになる、と話したことがあった。
――エルカが殺される数日前、馬車で街道を走っていた時のことだ。
これが、エルカが言っていたことなのだろうか。
あの時、エルカはそれがどんな結果になろうと、アシェイラ自身で選んだことなら、胸を張っていればいいとも言っていた。
だけどアシェイラは、そんな気分にはなれなかった。反対に、すっかり落ち込んでしまった。
アシェイラは目を細めると、風に草の葉が揺れる村の丘を見渡した。
◆ ◆ ◆
それから、アシェイラは村人たちに混ざり、薪割りや牧草刈りを手伝ったり、馬の世話をしたり、いっしょに木材や岩を運んだりした。村人にはガーウィンがアシェイラのことを、旅人と説明してくれた。
二十年近く続いてきた戦いが終わって三ヵ月しかたっておらず、旅ができる余裕のある人はそんなにいないはずなのだけど、ここの村は神官とファルファレルとの戦いにあまり、深く関わることはなかったらしい。ガーウィンの説明をあっさり、信じてくれたようだった。
村での宴に呼ばれ、アシェイラもエルカに聞かされた昔話や旅の間に経験したことなどを披露したのだけど、ガーウィンの家では彼の妻とついに顔を会わせることはなかった。
そして、三日が過ぎた。胸の傷もすっかりふさがり、長旅にも耐えられるようになった。
四日目の朝、日がのぼる前に目覚めたアシェイラは夜の寝苦しさがまだ残る空気のなかを歩き出していった。村をぐるりと取り囲む柵へ、近づいていく。
と、アシェイラは顔をあげた。足を止める。
向こうも、アシェイラに気づいたようだった。立ち上がる。
「やはり、出て行くのか」
柵を背にしたガーウィンが言った。そして彼は、アシェイラの首筋まで短く切った髪に、気づいたようだった。
「もう、わしが何を言っても、無駄のようだな」
それにアシェイラは、うなづいた。
「はい。あたしには大地に根ざして生きるのは、無理のようです」
「そうかね。この数日を見ていて、村に溶け込んでいたようなのだが」
アシェイラは首を横に振った。
「あたしには――やることがあります。そのことをずっと、考えておりました。……ここの暮らしも、悪くはないと思います。大地に根ざして生きること。それが本来の人間の生き方なのだということも、理解できます。でも――今、あたしはそれをなさなければ、一歩も前に進むことはできないのです」
「忘れることは、できないのか」
「無理です」
忘れるということは、アシェイラのなかにいるエルカを、殺すことだ。そんなこと――できるはずがなかった。エルカを……二度も殺すことなど。
ガーウィンは悲しげな表情を浮かべた。
「わかっておるのか。ここを出ていけば、また殺し合いの日常に戻って行くことになるのだぞ。それでも、構わぬのか」
アシェイラはガーウィンをじっと見つめて、それに対する答えにした。
ガーウィンはそれ以上、何もしゃべろうとしなかった。柵に立てかけていた剣を手に取った。鞘を払うと、アシェイラに剣先を向けた。
構えを見て、ガーウィンが生まれついての農民であるのがわかった。腕の振りがまるで、なっていない。
――それでも、人は殺すことはできるけど。
ガーウィンがアシェイラに近づいてきた。目の前で剣を鞘に収めると、それをアシェイラに胸に押しつけた。
「え……これは?」
「わしの三男が使っていた剣だ。持っていけ」
「息子さんの? でも――」
「おまえさんがわしの前に現れたのも何か、意味があることなのだろう」
ガーウィンは自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。
「道具というものは、それを使うのにふさわしい者の手に渡ってはじめて、役立つものだ。農具や斧、馬具などもすべて、同じ。そして剣は――わしには必要のないものだ」
「……わかりました」
アシェイラは剣を手に下げた。
ガーウィンが砦のほうに、顔を向けた。指を指す。
「あそこに、ちっちゃな滝が見えるだろう」
アシェイラは目をこらした。砦の手前の一部が崖になっていた。そこに小川が流れこみ、滝になっていた。急斜面に流れ込んでいる。「はい」
「あのすぐそばに、シルバーバーチ河まで降りる道がある。河からは東に向かえば、街道に出ることができるだろう」
ガーウィンがアシェイラに、微笑みかけてきた。
「その身ひとつで、街道まで行くつもりだったのか。やはり、子供だな」
ガーウィンは足もとに置いていた背負い袋をつかんだ。アシェイラに放る。
「あの……これは?」
「一週間分の食料――干し肉と固く焼いたパン、チーズに予備のマント、火打ち石、ナイフ、水筒、雨よけのローブ、着替えのチュニックなどだ」
アシェイラはまぶたを瞬かせた。ガーウィンを見る。
「でも、どうして?」
「わしはただ、自分の知り合いが道端で、無残な死体をさらすのを見たくないだけだ」
「――ありがとうございます」
「もう、行け!」
怒ったように、ガーウィンが言った。柵のそばを離れ、母屋へと歩いていった。
アシェイラはしばらくの間、ガーウィンの背中を見送っていたがついに、こちらを振り返ることはなかった。
東の、紅に染まる山の稜線を見やると、アシェイラは柵の入り口を開けた。外に出ると、ガーウィンに言われたように砦まで続く道を、歩いていった。




