沈黙の大地
アシェイラはひとり、洞窟のなかを歩いていた。
洞窟の床や壁はもう、熱くはなかった。
全身にかいていた汗は冷水のようで、指の先にはもう、感覚がなかった。
時が飛び越えて、アシェイラを秋の日のただ中に放り込んだように、感じられた。
アシェイラは頬に、手をやった。
血はもう流れていなかったが、傷口がどうにかふさがっている、という程度だった。
傷のなかでも一番ひどいのは頬だけど、それ以外にもからだのあちこちから、血は流れていた。
……めまいがした。壁に手をのばす。
よりかかり、頭を振ってみるけど、めまいを払いのけることはできなかった。
ため息をつく。
さっきから、水音が聞こえていた。アシェイラの左手は開けていて、風が吹き込んで来ていた。天井の高さは変わら
ないのだけど、少し向こうは急な斜面になっていて、地下水が流れているようだった。天井からその地下水に柱のよ
うなものが垂れ下がっていて、アシェイラにはそれが橋の脚の部分のように見えた。地下水の向こう岸は流木を横に
したみたいで、いくつも穴がのぞいていた。
アシェイラがもたれかかっている壁はまっすぐ続いていて、かなり高かった。壁と斜面の間には道がつくられていて、
時々、上や下に行く別の道とつながっていた。
――あたし、ここで死ぬのかな。
深く呼吸をくり返しながら、アシェイラは声には出さずに、つぶやいた。
あれだけのことを言ったのだから、アシェイラだって、生き続けなければならない。
そうは思うのだけどもう、からだを動かすことができなかった。
アシェイラは目を閉ざした。
闇の向こうから、とてててて、という軽やかな足音が聞こえてきた。何かが走りよってくる気配がする。
それでも目を開けないでいると、べちょりと顔をなめられた。舌だろうか、ざらざらとしたものを感じた。
「……グレイ」
アシェイラは薄目を開けた。
思った通りだ。彼女の顔をなめたのは、グレイだった。
アシェイラは目を動かした。グレアードが、彼女を見下ろしていた。
「グレアード。あなたがここにいるってことは、やっぱりあたし、死んだのね」
グレアードが頭をかいた。腕を組む。
「やめてよね。勝手におれを、殺すのは」
いつものあの口調で、グレアードが言った。腰とわきの下に手を差し入れられると、背中にかつがれた。
「あ! ちょ、ちょっと! 何するのよ」
「いいから、いいから。今日はおれの言うことを、聞いてよ」
グレイがそうだよ、と言いたげに、ひと声鳴いた。
「あー、もう!」
アシェイラは大きく、息をついた。グレアードの肩に、手をまわした。
……あれは、いつのことだったのだろう。
アシェイラは今みたいに、誰かの背中につかまり、運ばれて行ったのを、思い出した。
アシェイラは歯を、食いしばった。
「――あれからさ」
グレアードが言った。
「大変だったんだよ」
グレアードは橋から落ちた時のことを、話してくれた。
グレアードによると、橋の下には地下水が流れていたらしい。
「それが、流れが急でさ。何とか水から上がる場所を見つけたけど、もうどこをどう歩いているのか、さっぱり」
アシェイラはグレアードの髪が濡れていることに、気づいた。
「あなた、臭うわよ」
「え? そうかな」
グレアードは袖を鼻の前に持っていった。
すぐに、顔をしかめた。
「本当だ」
グレイが足もとでひと声、鳴いた。
「まぁ、地上に出るまで、がまんしてよ」
――地上。
グレアードが言ったことばを、アシェイラは声に出さずにくり返した。
ずっと長いこと――一日や二日ではなく、一週間や一ヵ月近く、地下にいるような気がした。長すぎて、地上の風景
や季節の色、日の光などを忘れてしまいそうなくらいだ。
「それで? どうしたのさ」
「え……。どうしたって、何か?」
「またまた、とぼけちゃって。だからぁ、このエラプト山の地下まで追いかけてきた理由、あったでしょ」
アシェイラは大きく、息を吸った。
「――リースヴェルトのこと?」
とぼけたのではなかった。
……あまり、リースヴェルトのことは、話題にしたくなかった。
「そうそう。どうなったのかな、と思って」
黙っていると、グレアードが振り返った。「アシェイラ?」
あわてて、アシェイラがグレアードの背中に顔を伏せた。
「……やっぱりね」
しばらくしてから、グレアードが顔を正面に向けて、言った。
「え?」
「とどめ、刺さなかったんでしょう」
「どうして――」
そこまで口にして、アシェイラは唇を噛んだ。「どうして、わかったの」
「態度から何となく、ね」
「お……怒ってないの?」
「怒る? どうしてさ?」
「だって――こんなに長いこと、つきあわせて来たし、死ぬような目にだって、合わせてきたのに……」
「おれが心配だったのはさ」
グレアードが言った。
「――アシェイラが生きて戻ってくるか、どうかだったんだ」
「あたしが生きて戻ってくるかどうか? どうして?」
「アシェイラは気づいていなかったかもしれないけど、かなり思いつめた顔をしていたからね。その……リースヴェルト
といっしょに――」
そこでグレアードは一度、ことばを切った。
「……それだけが、心配だったんだ」
アシェイラはグレアードの背中から、下を見た。
グレイと、目が合った。うれしそうに、しっぽを振った。
アシェイラはこれまで、何度も死にそうになったし、ついさっきだって、死を覚悟した。
でも、そのたびに誰かが彼女の前に現れ、手を差しのべてくれた。立ち上がらせてくれた。
アシェイラはリースヴェルトに言った。あんたの命はもう、あんたのものではない。殺したすべての人間の罪を背負っ
て、苦しみながら生きろ、と。
だけど――血で真紅の色に染まっているのは、リースヴェルトの手だけなのだろうか。
どんな人間だって生きていれば、罪を重ねる。どうしたって、その手は血に染まってしまうのだ。それなら、おまえの
手はあたしの手よりずっと、たくさんの血に染まっているからと、責めることができるのだろうか。
アシェイラはリースヴェルトに言ったことを、後悔していなかった。でもそれは、アシェイラ自身にも、当てはまること
だった。
「ずっと前――おれが若かった頃の話なんだけどさ」
「あなたが若かった頃?」
アシェイラは噴き出した。
「若かったって、あなたまだ、十五じゃない」
グレアードがせき払いをした。
アシェイラの足を支えていた腕で、頭をかく。
「とにかく、昔のことだよ」
「それで?」
「剣を向けられた。戦場でなくて――町中でね。相手はおれよりずっと背の低い、やっと剣を握ることができるような
子供で、いきなり斬りかかって来たんだ。……復讐だと、親の仇だと、言ってたよ」
グレアードのつぶやきのような声を、アシェイラは聞いた。
「その子供は、どうなったの」
「……死んだ。おれじゃなく、仲間が斬ったんだ」
「――そう」
「剣を手に戦っていれば、そんなこともある。それなのに、あの時のおれはまったく動けなかった。剣を抜くことすら、
できなかったんだ。でも……」
グレアードは大きく、息を吸った。
「思うんだ。もちろん、殺されてやるつもりなんてないけど、あの時はせめて、おれが斬るべきだったんじゃないかなっ
てね」
「……ねぇ、グレア」
「うん?」
「あたしは――リースヴェルトを斬ることができなかった。斬らなかったんじゃなく、斬れなかったのよ」
アシェイラは腕に、力を入れた。グレアードの肩に、顔をうずめる。
「どんなことがあっても絶対に復讐を果たすと、そう心に決めていたはずなのに……あたしが本当にしたかったのは、
リースヴェルトを殺すことなんかじゃなかった。彼に、あたしがこれからどうしたらいいのか決めて欲しかっただけ――
それだけだった」
唇と声が震えた。
――そうだ。彼の前ではあたしはどうにもならないことをどうにかしてと、泣き叫ぶ子供だった。
グレアードの手がアシェイラの手を優しく、叩いた。
「後悔、してるの?」
アシェイラは首を横に振った。
頬に流れる涙をぬぐう。
「ううん。後悔は……してない」
「だったら、それでいいんじゃない。考えて考えて、出した答えなんだからさ」
涙声になりそうで、アシェイラは口をぎゅっと結んだ。
グレアードのことばに泣いてしまっただなて、思われたくなかった。
「……ね、グレア」
しばらくして、ようやく息が落ち着いてから、アシェイラは言った。
「あたしのしたことって、正しかったのかな」
グレアードは、答えなかった。
「もし――もしもよ、リースヴェルトがまた、多くの人を手にかけたら……その時はあたしは、どうしたらいいの?」
「アシェイラ――」
「なに?」
「リースヴェルトを殺さなかった理由は、おれにはわからないけどさ」
グレアードがアシェイラを、背負いなおした。
「アシェイラがそれを選んだってことは、あの男を信じることにしたんでしょ」
「……信じる?」
グレアードが、うなづいた。
「許すことより、信じることのほうがもっと難しい。そうじゃない?」
――信じる。
グレアードに言われるまで、アシェイラがそんなこと、考えもしなかった。
「ずーっと前のことなんだけど」
「また、昔話?」
「ん――まぁね」
グレアードはちょっと、考え込むような顔をした。
「ソール戦士領からこっちに来る時、神官といっしょになったことがあって」
「神官?」
「あ、神官と言っても大陸を北に行った場所で信じられている、名前も聞いたこともない神々の神官なんだけどさ」
グレアードが、話を続けた。
「とにかく、神官なのに平気で盗みをするし、口先で人をだましたり、金もないのにぐてんぐてんに酔っぱらうまで酒を
飲んだりと、とんでもないやつだったんだけどさ、そいつが言ってたんだ」
「――うん」
「本当に正しいことは、人間にはわからないって」
――本当に正しいことは、人間にはわからない。
アシェイラはグレアードが口にしたことばを、声に出さずにくり返した。
「だって、そうじゃない? もし、本当に正しいかどうかがわかっていれば、こんな戦いなんか起こらなかったはずだし
ね。そして、正しいかどうかは今、生きている人間ではなく、後に続く人間たちが判断すべきことなんだよ」
そこでグレアードは一度、ことばを切った。
「だけど、くやしいね。結果だけを見て悪く言われる心構えは、できてるつもりだけど、おれたちのこの苦しみも伝われ
ば、同じ間違いをくり返すことも、なくなるかもしれないのにね」
「それは――仕方ないわよ」
「……そうだね」
ふたりはしばらくの間、黙り込んだ。
グレアードの足音が洞窟のなかに、響く。アシェイラは、目を閉ざした。
祭壇の間でのことを、思い出した。
――あの時、あたしはリースヴェルトに言った。
苦しみながら生きて生きて、生きのびれ、と。
そしてそれは、たぶんアシェイラ自身にも当てはまることなのだろう。
アシェイラは深く、息を吸った。
……リースヴェルトと対決することで、エルカがいなくなった喪失感は消えるものと、アシェイラは思ってきた。
が――そんなことはなかった。
それどころか、以前よりもずっと、強まってきたくらいだ。
――でも、この気持ちに負けちゃ、いけないんだ。
そしてこれが、生きている証というものなのだろう。
……愚かな――本当に愚かな、リースヴェルト。
あの男はただ、この苦しみから逃れたかっただけだ。
神々が人間に苦難を与え、それを眺めているだけの存在だとしても――その苦難をひとつひとつ、乗り越えること
でまた一歩、先に進むことができる。
――だから、あたしは苦難に負けない。負けてやらない。
苦難に負けてしまうことは、無慈悲な神々をよろこばせてしまうことになる。
――負けないことで、あたしは神々を見下してやるんだ。
アシェイラはくしゃみをした。寒気が背中から、忍び寄ってきたみたいだった。全身が小刻みに震える。
「大丈夫、アシェイラ?」
「ちょっと……寒いわ」
「がまんして。もうすぐ……って、根拠はないんだけど、地上に出られるからさ」
「わかってるわ」
その時、アシェイラは思った。リースヴェルトにも、グレアードのような存在がいたのだろうか、と。
……いや、たぶんいなかったから、今回のようなことを、起こしたのだろう。
注意を引くように、グレイが鳴き声をあげた。闇のなかできらきらと輝く金色の瞳で、こちらを見上げている。
アシェイラはグレアードの背中から、微笑みかけた。
「グレイ、あなたのことも忘れてないわよ」
アシェイラは彼女たちが歩いている道の正面に、顔を向けた。
――もうすぐね……もうすぐ。
グレアードの楽天的な気分が、うつってしまったのだろうか。
彼女たちが歩いている道が確かに、地上に続いているように思えた。
その時のことを想像しながら、アシェイラはグレアードの背中に、からだをあずけた。




