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炎鎖のアシェイラ ~剣の輪舞  作者: なりちかてる
幕の章
21/21

沈黙の大地

 アシェイラはひとり、洞窟のなかを歩いていた。

 洞窟の床や壁はもう、熱くはなかった。

 全身にかいていた汗は冷水のようで、指の先にはもう、感覚がなかった。

 時が飛び越えて、アシェイラを秋の日のただ中に放り込んだように、感じられた。

 アシェイラは頬に、手をやった。

 血はもう流れていなかったが、傷口がどうにかふさがっている、という程度だった。

 傷のなかでも一番ひどいのは頬だけど、それ以外にもからだのあちこちから、血は流れていた。

 ……めまいがした。壁に手をのばす。

 よりかかり、頭を振ってみるけど、めまいを払いのけることはできなかった。

 ため息をつく。

 さっきから、水音が聞こえていた。アシェイラの左手は開けていて、風が吹き込んで来ていた。天井の高さは変わら

ないのだけど、少し向こうは急な斜面になっていて、地下水が流れているようだった。天井からその地下水に柱のよ

うなものが垂れ下がっていて、アシェイラにはそれが橋の脚の部分のように見えた。地下水の向こう岸は流木を横に

したみたいで、いくつも穴がのぞいていた。

 アシェイラがもたれかかっている壁はまっすぐ続いていて、かなり高かった。壁と斜面の間には道がつくられていて、

時々、上や下に行く別の道とつながっていた。

 ――あたし、ここで死ぬのかな。

 深く呼吸をくり返しながら、アシェイラは声には出さずに、つぶやいた。

 あれだけのことを言ったのだから、アシェイラだって、生き続けなければならない。

 そうは思うのだけどもう、からだを動かすことができなかった。

 アシェイラは目を閉ざした。

 闇の向こうから、とてててて、という軽やかな足音が聞こえてきた。何かが走りよってくる気配がする。

 それでも目を開けないでいると、べちょりと顔をなめられた。舌だろうか、ざらざらとしたものを感じた。

「……グレイ」

 アシェイラは薄目を開けた。

 思った通りだ。彼女の顔をなめたのは、グレイだった。

 アシェイラは目を動かした。グレアードが、彼女を見下ろしていた。

「グレアード。あなたがここにいるってことは、やっぱりあたし、死んだのね」

 グレアードが頭をかいた。腕を組む。

「やめてよね。勝手におれを、殺すのは」

 いつものあの口調で、グレアードが言った。腰とわきの下に手を差し入れられると、背中にかつがれた。

「あ! ちょ、ちょっと! 何するのよ」

「いいから、いいから。今日はおれの言うことを、聞いてよ」

 グレイがそうだよ、と言いたげに、ひと声鳴いた。

「あー、もう!」

 アシェイラは大きく、息をついた。グレアードの肩に、手をまわした。

 ……あれは、いつのことだったのだろう。

 アシェイラは今みたいに、誰かの背中につかまり、運ばれて行ったのを、思い出した。

 アシェイラは歯を、食いしばった。

「――あれからさ」

 グレアードが言った。

「大変だったんだよ」

 グレアードは橋から落ちた時のことを、話してくれた。

 グレアードによると、橋の下には地下水が流れていたらしい。

「それが、流れが急でさ。何とか水から上がる場所を見つけたけど、もうどこをどう歩いているのか、さっぱり」

 アシェイラはグレアードの髪が濡れていることに、気づいた。

「あなた、臭うわよ」

「え? そうかな」

 グレアードは袖を鼻の前に持っていった。

 すぐに、顔をしかめた。

「本当だ」

 グレイが足もとでひと声、鳴いた。

「まぁ、地上に出るまで、がまんしてよ」

 ――地上。

 グレアードが言ったことばを、アシェイラは声に出さずにくり返した。

 ずっと長いこと――一日や二日ではなく、一週間や一ヵ月近く、地下にいるような気がした。長すぎて、地上の風景

や季節の色、日の光などを忘れてしまいそうなくらいだ。

「それで? どうしたのさ」

「え……。どうしたって、何か?」

「またまた、とぼけちゃって。だからぁ、このエラプト山の地下まで追いかけてきた理由、あったでしょ」

 アシェイラは大きく、息を吸った。

「――リースヴェルトのこと?」

 とぼけたのではなかった。

 ……あまり、リースヴェルトのことは、話題にしたくなかった。

「そうそう。どうなったのかな、と思って」

 黙っていると、グレアードが振り返った。「アシェイラ?」

 あわてて、アシェイラがグレアードの背中に顔を伏せた。

「……やっぱりね」

 しばらくしてから、グレアードが顔を正面に向けて、言った。

「え?」

「とどめ、刺さなかったんでしょう」

「どうして――」

 そこまで口にして、アシェイラは唇を噛んだ。「どうして、わかったの」

「態度から何となく、ね」

「お……怒ってないの?」

「怒る? どうしてさ?」

「だって――こんなに長いこと、つきあわせて来たし、死ぬような目にだって、合わせてきたのに……」

「おれが心配だったのはさ」

 グレアードが言った。

「――アシェイラが生きて戻ってくるか、どうかだったんだ」

「あたしが生きて戻ってくるかどうか? どうして?」

「アシェイラは気づいていなかったかもしれないけど、かなり思いつめた顔をしていたからね。その……リースヴェルト

といっしょに――」

 そこでグレアードは一度、ことばを切った。

「……それだけが、心配だったんだ」

 アシェイラはグレアードの背中から、下を見た。

 グレイと、目が合った。うれしそうに、しっぽを振った。

 アシェイラはこれまで、何度も死にそうになったし、ついさっきだって、死を覚悟した。

 でも、そのたびに誰かが彼女の前に現れ、手を差しのべてくれた。立ち上がらせてくれた。

 アシェイラはリースヴェルトに言った。あんたの命はもう、あんたのものではない。殺したすべての人間の罪を背負っ

て、苦しみながら生きろ、と。

 だけど――血で真紅の色に染まっているのは、リースヴェルトの手だけなのだろうか。

 どんな人間だって生きていれば、罪を重ねる。どうしたって、その手は血に染まってしまうのだ。それなら、おまえの

手はあたしの手よりずっと、たくさんの血に染まっているからと、責めることができるのだろうか。

 アシェイラはリースヴェルトに言ったことを、後悔していなかった。でもそれは、アシェイラ自身にも、当てはまること

だった。

「ずっと前――おれが若かった頃の話なんだけどさ」

「あなたが若かった頃?」

 アシェイラは噴き出した。

「若かったって、あなたまだ、十五じゃない」

 グレアードがせき払いをした。

 アシェイラの足を支えていた腕で、頭をかく。

「とにかく、昔のことだよ」

「それで?」

「剣を向けられた。戦場でなくて――町中でね。相手はおれよりずっと背の低い、やっと剣を握ることができるような

子供で、いきなり斬りかかって来たんだ。……復讐だと、親の仇だと、言ってたよ」

 グレアードのつぶやきのような声を、アシェイラは聞いた。

「その子供は、どうなったの」

「……死んだ。おれじゃなく、仲間が斬ったんだ」

「――そう」

「剣を手に戦っていれば、そんなこともある。それなのに、あの時のおれはまったく動けなかった。剣を抜くことすら、

できなかったんだ。でも……」

 グレアードは大きく、息を吸った。

「思うんだ。もちろん、殺されてやるつもりなんてないけど、あの時はせめて、おれが斬るべきだったんじゃないかなっ

てね」

「……ねぇ、グレア」

「うん?」

「あたしは――リースヴェルトを斬ることができなかった。斬らなかったんじゃなく、斬れなかったのよ」

 アシェイラは腕に、力を入れた。グレアードの肩に、顔をうずめる。

「どんなことがあっても絶対に復讐を果たすと、そう心に決めていたはずなのに……あたしが本当にしたかったのは、

リースヴェルトを殺すことなんかじゃなかった。彼に、あたしがこれからどうしたらいいのか決めて欲しかっただけ――

それだけだった」

 唇と声が震えた。

 ――そうだ。彼の前ではあたしはどうにもならないことをどうにかしてと、泣き叫ぶ子供だった。

 グレアードの手がアシェイラの手を優しく、叩いた。

「後悔、してるの?」

 アシェイラは首を横に振った。

 頬に流れる涙をぬぐう。

「ううん。後悔は……してない」

「だったら、それでいいんじゃない。考えて考えて、出した答えなんだからさ」

 涙声になりそうで、アシェイラは口をぎゅっと結んだ。

 グレアードのことばに泣いてしまっただなて、思われたくなかった。

「……ね、グレア」

 しばらくして、ようやく息が落ち着いてから、アシェイラは言った。

「あたしのしたことって、正しかったのかな」

 グレアードは、答えなかった。

「もし――もしもよ、リースヴェルトがまた、多くの人を手にかけたら……その時はあたしは、どうしたらいいの?」

「アシェイラ――」

「なに?」

「リースヴェルトを殺さなかった理由は、おれにはわからないけどさ」

 グレアードがアシェイラを、背負いなおした。

「アシェイラがそれを選んだってことは、あの男を信じることにしたんでしょ」

「……信じる?」

 グレアードが、うなづいた。

「許すことより、信じることのほうがもっと難しい。そうじゃない?」

 ――信じる。

 グレアードに言われるまで、アシェイラがそんなこと、考えもしなかった。

「ずーっと前のことなんだけど」

「また、昔話?」

「ん――まぁね」

 グレアードはちょっと、考え込むような顔をした。

「ソール戦士領からこっちに来る時、神官といっしょになったことがあって」

「神官?」

「あ、神官と言っても大陸を北に行った場所で信じられている、名前も聞いたこともない神々の神官なんだけどさ」

 グレアードが、話を続けた。

「とにかく、神官なのに平気で盗みをするし、口先で人をだましたり、金もないのにぐてんぐてんに酔っぱらうまで酒を

飲んだりと、とんでもないやつだったんだけどさ、そいつが言ってたんだ」

「――うん」

「本当に正しいことは、人間にはわからないって」

 ――本当に正しいことは、人間にはわからない。

 アシェイラはグレアードが口にしたことばを、声に出さずにくり返した。

「だって、そうじゃない? もし、本当に正しいかどうかがわかっていれば、こんな戦いなんか起こらなかったはずだし

ね。そして、正しいかどうかは今、生きている人間ではなく、後に続く人間たちが判断すべきことなんだよ」

 そこでグレアードは一度、ことばを切った。

「だけど、くやしいね。結果だけを見て悪く言われる心構えは、できてるつもりだけど、おれたちのこの苦しみも伝われ

ば、同じ間違いをくり返すことも、なくなるかもしれないのにね」

「それは――仕方ないわよ」

「……そうだね」

 ふたりはしばらくの間、黙り込んだ。

 グレアードの足音が洞窟のなかに、響く。アシェイラは、目を閉ざした。

 祭壇の間でのことを、思い出した。

 ――あの時、あたしはリースヴェルトに言った。

 苦しみながら生きて生きて、生きのびれ、と。

 そしてそれは、たぶんアシェイラ自身にも当てはまることなのだろう。

 アシェイラは深く、息を吸った。

 ……リースヴェルトと対決することで、エルカがいなくなった喪失感は消えるものと、アシェイラは思ってきた。

 が――そんなことはなかった。

 それどころか、以前よりもずっと、強まってきたくらいだ。

 ――でも、この気持ちに負けちゃ、いけないんだ。

 そしてこれが、生きている証というものなのだろう。

 ……愚かな――本当に愚かな、リースヴェルト。

 あの男はただ、この苦しみから逃れたかっただけだ。

 神々が人間に苦難を与え、それを眺めているだけの存在だとしても――その苦難をひとつひとつ、乗り越えること

でまた一歩、先に進むことができる。

 ――だから、あたしは苦難に負けない。負けてやらない。

 苦難に負けてしまうことは、無慈悲な神々をよろこばせてしまうことになる。

 ――負けないことで、あたしは神々を見下してやるんだ。

 アシェイラはくしゃみをした。寒気が背中から、忍び寄ってきたみたいだった。全身が小刻みに震える。

「大丈夫、アシェイラ?」

「ちょっと……寒いわ」

「がまんして。もうすぐ……って、根拠はないんだけど、地上に出られるからさ」

「わかってるわ」

 その時、アシェイラは思った。リースヴェルトにも、グレアードのような存在がいたのだろうか、と。

 ……いや、たぶんいなかったから、今回のようなことを、起こしたのだろう。

 注意を引くように、グレイが鳴き声をあげた。闇のなかできらきらと輝く金色の瞳で、こちらを見上げている。

 アシェイラはグレアードの背中から、微笑みかけた。

「グレイ、あなたのことも忘れてないわよ」

 アシェイラは彼女たちが歩いている道の正面に、顔を向けた。

 ――もうすぐね……もうすぐ。

 グレアードの楽天的な気分が、うつってしまったのだろうか。

 彼女たちが歩いている道が確かに、地上に続いているように思えた。

 その時のことを想像しながら、アシェイラはグレアードの背中に、からだをあずけた。

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