戦い前夜
テントのなかはひどく、不快だった。風もさっきから吹きこむことはなく、湿気で満ちていた。ランプもテント全体を照らすには充分なだけの数はなく、アシェイラにまわりは暗がりに沈んでいた。
アシェイラはため息をついた。
彼女の席はちょっと遠ざけられているのだけど、テントの真ん中にはテーブルが置かれていた。その上には羊皮紙をいくつもつなげて作った、大きな地図があった。その地図には今度の戦場となるマイアの周辺の地形が描かれていた。
サードレード市軍はトライステープルの町を取り戻し、南に軍を進めていた。現在、ファザード市軍はマイアの砦に陣を張り、サードレード市軍もそのまわりに戦士を集結させていた。
マイアは農地にはむいていないのだけど、良質の泥炭がとれるところとしては有名だった。古い時代にはこの一帯には泥炭で作られた家屋が並んでいたと聞くし、暖をとるためのものとしてマイアの泥炭はネスキアの各地で、取り引きされているみたいだった。
泥炭はとても柔らかくて加工しやすく、しかもマイアの広大な地域を覆っていて、百年以上の時をかけても取り切れない、とされていた。
泥炭はマイアの名産なのだが、同時に通行の障害にもなっていた。柔らかい泥炭は馬車ならゆっくりと進ませることができるのだけど、特に雨が降っている時はぬかるんで、地面が乾くのを待つしかなかった。
丘の上に築かれた砦のまわりと、それを貫く狭い街道だけが、マイアで雨が降っても、ぬかるみにならない場所になっていた。そしてその砦を突破すれば、ファザード市まではすぐだった。馬を飛ばせば、二日もかからない。このマイアの戦いがファザード市との抗争で、重要な意味を持つことは明白だった。
が、マイアを打ち破れば、この戦いが終わる、ということでもなかった。一番やっかいなのが軍がファザード市を捨てて、ファイブ・スプリングス湖の南にあるエラプト山のなかに逃げ込まれることだった。
ユーリスは戦いが長期化するのを、望んでいないようだった。
もうすぐ夏も終わり、収穫の秋がはじまる。そうすれば、軍のなかにいる多くの戦士たちを村に帰さないと、いけなくなる。戦いが終わった後のことを考えると、この二ヵ月が勝負となるのだろう。
もちろん、それはファザード市も同じなのだけど、軍が解体してしまえば食うのに困った戦士たちが、盗賊になってしまうかもしれない。そして、もしそうなれば害はファイブ・スプリングス湖周辺だけでなく、サードレード市や他の都市国家に及ぶことも考えられた。
マイアも数ヵ月の間、完全に包囲した上で攻撃すれば容易に勝利することができるのだけど、そういった理由があるので、のんびりとはできないようだった。
「……拠点はここと、ここ。この六つの場所に置こう」
「攻撃は?」
「今から四時間後、夜明けと同時に行う」
サードレード市軍の族長たちは地図のあちこちを指さし、作戦について説明をしていた。
「さっきから、話を聞いていたけど——」
アシェイラが言った。いすに座り直す。
「包囲して、攻撃。ただ、それだけってこと?」
族長たちがアシェイラを見た。いくつもの視線が突き刺さるのを、アシェイラは感じた。「それは、どういう意味かね」
テントの一番奥にいる、アンドラーシュが言った。
マイアの戦いに参加している戦士たちのなかでも、アンドラーシュは最も大きい部族の族長で当然、軍のなかでも強い影響力を持っていた。そして、アンドラーシュの部族はドレドノールとつながりがあることでも有名だった。
「少し、単純すぎないかな、と思って」
「単純? だが、兵力ではこちらのほうがずっと多い。正面からぶつかればファザード市軍など、簡単に討つことができる」
「でも、数だけでは——」
「それでは、アシェイラ殿はどのような考えをお持ちなのかな。ぜひとも、お考えをお聞かせ願いたいものですな」
テントにいる、別の族長が言った。
「……ファザード市軍が砦のなかにいるのでは、包囲攻撃を行っても、効果は薄いんじゃないかってことよ」
「ほう?」
「ここが平地なら、数で押すのも有効な戦い方かもしれないわ」
——とても、頭の悪い戦い方だと思うけどね。
アシェイラは頭のなかで、ことばをつけ加えた。
「だけど、ここが泥炭地というのを忘れていないかしら。ファザード市軍が砦のなかにいて、あたしたちが泥炭地にいるのでは、立場は同じとはいえないわ。たとえ、こちらのほうの数が多くてもね」
「それなら、どうしろと?」
「おびき出すのよ」
「おびき出す?」
「砦から誘い出した上で、ファザード市軍と戦うのよ」
「砦から誘い出す。ハッ! それができたら、苦労しませんな」
アシェイラはそう言った中年の族長を、にらみつけた。
「砦から戦士を出すくらい、いくらでも方法があるわ」
「そのような小細工をする必要はない」
アンドラーシュが言った。
「泥炭地で戦おうと、数の上での優位は変わらない。相手が砦にいるからといって、サードレード市の戦士たちはひるむことはない」
アシェイラはため息をついた。
「……そうね」
アシェイラはいすから、立ち上がった。
「あたしはもう、口出しする必要はないようね。だから、先に休ませてもらうわ」
アシェイラがそう言っても、族長たちは誰ひとり、こちらを見ようともしなかった。最初からこの場にアシェイラがいなかったような顔をして、話をしはじめた。
肩をすくめると、槍を構えた戦士の間を抜けて、テントの外に出た。
グレイが走りよってきた。夜空の下を、アシェイラたちは歩いていった。
しばらく行くと、木の柵が見えてきた。それがずっと、続いている。
——この柵を超えた向こうがマイア、か。
アシェイラは声に出さずに、つぶやいた。
じっと目をこらしてみたけど、何も見ることはできなかった。ただ、夜の闇が横たわっているだけだった。
グレイが足もとでひと声、鳴いた。まとわりついてくる。
アシェイラはグレイの首すじをなでてやると、柵に沿って歩いていった。
やがて、アシェイラの前に一軒の家屋が見えてきた。
そんなに大きな家ではない。二階建てで、長方形の母屋に部屋が三つ、突き出した形をしていた。
その家はもともと、泥炭を運び出している職人のものなのだけど、マイアを包囲するに当たって、利用させてもらっているのだった。
アシェイラは玄関と反対側の庭にまわった。馬屋のなかに、入っていった。
まず、悪臭を感じた。強い糞尿の臭いだ。
アシェイラは茶褐色の馬の前で、足を止めた。水桶と飼い葉を置くと、馬が近づいてきた。鼻面をのぞかせる。
「ごめんね、こんなところに閉じ込めて。でも、水と飼い葉は新鮮なものだから。ゆっくり、味わって」
その馬は黒馬亭からずっと、行動をともにしてきており、グレイにも慣れてしまっているようだった。近くにいてもそれほど、おびえることはなかった。
馬は戦闘用には調教されていないのだけど、足が速い上に体力があり、アシェイラとしては結構、気に入っていた。
馬屋の角に転がっていた、壊れかけのいすを手に取ると、それに座った。馬が飼い葉を食べているのをじっと、ながめていた。
と、アシェイラは気配を感じた。馬屋の入り口に、ひとりの人影が立っていた。
アシェイラはいすを蹴飛ばした。人影が近づいてくるのと同時に、剣に手をのばした。「アシェイラ——」
アシェイラは大きく、息を吸い込んだ。剣の柄から、手を放した。
「なんだ、グレアか」
「なんだって……じゃ、いったい誰だって思ったのさ」
一瞬、グレアードがアシェイラを殺しに来た暗殺者に見えたのだけど、そのことは口にはしなかった。
トライステープルの町を取り戻せたのは、アシェイラが行動をおこしたのがきっかけになっているのだけど、そのことはサードレード市軍ではあまり、評価されていないようだった。特に族長たちの間には、アシェイラを敵視している者もいた。
それはファザード市軍にリースヴェルトがいるからだけでなく、アシェイラがユーリスを言いなりに動かしていると、思われているからのようだった。
族長のすべてが、ドレドノールに従っているのではない。氏族が違っていても、ユーリス個人に忠誠を誓っている族長もいる。
が、どの氏族にも属さない、まだ十七歳にしか過ぎないアシェイラがユーリスに一番信頼されているのが、面白くないようだった。
でも、だからと言って命が狙われるだなんて、ちょっと考えすぎだろう。
アシェイラはグレアードに、手をのばした。無理やり、顔を横に向けさせた。
「痛っ。アシェイラ、痛いよ」
グレアードの右の頬に、すりむいたような跡があった。
「これ、どうしたの」
アシェイラから離れると、グレアードはそのすりむいた跡を手の甲でさすった。
「ちょっと、戦士たちとね」
「けんか、したの?」
グレアードは肩をすくめた。
「そんな、大げさなものじゃないよ。いつも、アシェイラのそばにいるからさ。恨まれちゃって」
「恨まれた? あなたが?」
「そ。でもさ、荒っぽいところもあるけど、気のいい奴らだよ。おれの剣の腕を、認めてくれたからね」
「あなたの剣の腕を、ねぇ」
「何だよ」
「別にぃ」
アシェイラは笑い声をあげながら、馬の手綱を引いた。馬を夜空の下に出した。
さっきまでは腹立たしい気持ちでいっぱいだったのだけど、グレアードと話をすると、そのいらいらとした気持ちがいつのまにか、消えてしまったようだった。背筋をのばして、歩くことができる。
柵まで歩くと、アシェイラは手綱を離した。自由に、運動をさせてやることにした。
「どうしたの?」
「え?」
アシェイラはグレアードの顔を見た。聞き返す。
「どうしたって——な、何が?」
「最近のアシェイラって、考え事をしているのが、多いみたいだから」
「考え事? あたしが?」
「そうだよ」
グレアードがアシェイラに背中を向けた。柵の上に腕を置いた。
「言いたくなかったらさ、無理には聞こうとは思わないけどね」
アシェイラは下を見た。グレイの頭を、なでてやる。
「トライステープルの町のこと、覚えている?」
「え? あ——うん」
「あの戦いで一体、何人の人間が亡くなったのかしら」
「え——何人の人間が死んだかって?」
「う……ん」
アシェイラはひざをつき、グレイの前脚を取った。遊んでやる。
目を閉ざすといつでも、がれきの下敷きになった人や剣に切り裂かれた戦士、首にロープをかけられ、市内を引きずられた男、子供の遺体を抱えたまま眠るように横たわっている母親などの死体がまぶたの裏に、浮かんできそうだった。
「あたしがサードレード市軍の戦士のひとりとして、トライステープルの町を攻撃したのなら、こんなこと考えたりしないわ。でも——今回のは違う。あたしの個人的な復讐のために、あたしはあの町を攻撃し、そして……」
アシェイラはそこで、息を止めた。首から下げた鍵を取り出し、手の平に乗せた。
『王妃陛下には、私も直接お会いしたわ。——貴殿によく、似ていらっしゃった』
ユーリスの声が耳に、よみがえった。
もうこの鍵を握っても、心安らかな気分にはなれないようだった。アシェイラは鍵をチュニックのなかに、しまいこんだ。
『どんな結果になろうと、それを選んだのが自分なら、そして間違っていないと思うのなら——恥じることはない。胸を張って、生きていればいいのさ』
今度はエルカの声が、聞こえてきた。
——それはそうだけど、でも自分のやったことが間違いだと、気づいた時は?
その時は、どうしたらいいの?
闇の向こうに呼びかけてみるけど、返事はなかった。
『それは、自分で考えるんだね』
エルカがもし生きていたら、そんなことを言うんじゃないだろうか。
「おれはさ、難しいことはあまり、考えたことはないんだけど」
グレアードが頭をかいた。
「人ってのは必ず、死ぬものなんだと思うよ」
アシェイラはグレアードの顔を見上げた。
「だって、そうでしょ? 明日の戦いでおれは死んでしまうかもしれないし、アシェイラだって……」
もちろん、これまでアシェイラはそのことを頭に入れて、戦ってきた。今まで親しくしていた人がある日、戦場で死体となっているのを目にしたことがあるし、アシェイラ自身もひどいけがをして、死を覚悟したこともあった。
「でも、あたしが人を殺したってことは変わらないわ。あの町で殺されたのは、ファザード市の戦士だけじゃない……もともと、町に住んでいた人たちもいたはずだわ。だけど——あたしが」
アシェイラは拳をぎゅっと握った。
「あたしが怒りにまかせて行動したせいで、あの人たちの未来を奪ってしまったのよ」
アシェイラは立ち上がった。グレアードと肩を並べて、柵にもたれかかった。
「でもね、グレアード。ここであたしは立ち止まることはできない。もう、行動してしまったからには、やり遂げるしかないのよ。後悔して、反省の日々を送るのはまだ、先のこと。あたしは生きて、ここにいる。なら、前を向いて歩くしかない。そうでしょ?」
「……アシェイラらしく、なってきたね」
「そりゃ、そうよ。いつまでも、落ち込んでいられないもの」
「じゃ、大丈夫だね」
「誰が、心配して欲しいって言った?」
口ではそう言ったけど、アシェイラはグレアードに感謝していた。グレアードに話したことで、ちょっと気持ちが軽くなってみたいだった。
アシェイラは口笛を吹いた。と、馬が戻って来た。手綱を取る。
「グレア。あなたもそろそろ、寝たほうがいいわよ。明日は夜明け前に、作戦がはじまるのだからね」
グレアードがため息をついた。
「そのグレアって、もう直してくれないんだよね」
「え? いいじゃない。あたしはこの呼び名が、気に入っているんだから。あきらめなさい」
アシェイラはグレアードの肩を叩いた。
「はいはい、わかりましたよ」




