灰色の夜明け
ロープにつかまりながら、アシェイラは下を見た。地上まで、彼女の背たけほどの高さがあるのだけど、思い切ってロープから手を離した。飛び降りる。
転びはしなかったけど、足にずしんと重い痛みが走った。それをこらえる。
けがは、どこにもなかった。息をつくと、マントを掛け直した。腰の剣にさわる。
それから、アシェイラは目の前に垂れ下がるロープを見た。ずっと上までたどると、それは二階の彼女の部屋の窓から垂れ下がっていた。そのロープをひっぱり、しっかりしていることを確認すると、アシェイラは宿の外壁からちょっと離れた。
夜明け前ということで、空ではまだ星々が輝きを放っていた。寝る前は明るく部屋を照らしていた月も今はどこにもなく、数十歩先はもう、闇に溶け込んでいる。
すぐ向こうに、ウーフ山の周囲をめぐる街道があった。街道は東南の方角にのびており、傾斜の谷間を貫いていた。
その街道を、山を背にして進んでいけば、セレブリートの町にたどり着くことができる。
――もうすぐ……もうすぐよ。
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、アシェイラはグレアードのことを思い浮かべた。
――あの男、来るのかな。
今頃はアシェイラを抱かなかったことを後悔して、ぐっすりと寝ているのかもしれない。
アシェイラは二階の窓を見上げた。と、そこから顔をのぞかせたグレアードと、目が合った。
「やぁ、アシェイラ」
のんきに、手を振ってきた。
「ちゃんと、言いつけを守ったよ。寝不足で、お腹もすいてるけどね」
アシェイラは静かにするように、身振りをした。
「降りてきて、早く!」
グレアードが肩をすくめた。ロープを伝い、降りてくる。
「いいから、そこから飛び降りなさいよ」
地上まで、そんなに高さがないところまで降りてきているのにぐずぐずしているグレアードを見て、アシェイラは声をあげた。
「だってさ、足でもくじいたら――わっ!」
アシェイラが下のロープをつかんで揺らすと、グレアードがバランスを崩した。背中から、地面に叩きつけられた。
「痛たたたた……」
グレアードが立ち上がった。腰を押さえる。「何すんのさ」
「あなたが何も、この危機を理解してないからよ」
「危機?」
「そう。夜が明けても、あたしがあの部屋で眠っていたら、命はなかったでしょうね」
「命がなかった? どういう意味?」
「あなたって、本当に何もわかってないのね」
アシェイラはため息をついた。
「いい? 宿でね、一番気をつけないといけないのは、主人なのよ」
「主人? 主人って、あ――あの?」
「そう、あの男よ」
アシェイラは腕を組んだ。
「宿から出て行く人と、入ってくる人の数は同じだった? あなたが夕食に食べた肉料理は本当に、牛や羊の味がした?」
アシェイラはグレアードをからかおうとして、そういうことを言っているのではなかった。宿については色々と話を聞いているし、実際に殺されかけたこともあるくらいだ。
「……恐ろしいこと、言うんだね」
グレアードが気分の悪そうな顔をした。
「まったくそのことに気づかずに、ここまで旅を続けてきたあなたのほうが、どうかしていると思うんだけど――まぁ、いいわ。こっちに来て」
アシェイラは黒馬亭の横にある、馬小屋まで案内した。扉にかけられていた鍵を外し、中に入った。
馬小屋は縦に長く、馬が入れられた木の枠がいくつかあった。反対側の壁には番号の書かれた札がかかり、馬具などもそこに置かれていた。作りはスタンドヒル村のものと同じだけど、こちらは片側にしか馬は入れられてなかった。
「ここに、あんたの馬があるの?」
「馬? いいえ。持ってないわよ」
「え……? 持ってないって?」
「……うん。この馬がいいな」
アシェイラはひと通り見てまわって、茶褐色にたてがみと尾、それに脚のひざから下が黒い色をしている馬に目をつけた。
「あなたの馬は?」
グレアードを振り返った。
「あなたの馬は?」
「え――おれの馬? いや、ないけど」
「そう。……じゃ、これがいいわね」
アシェイラは全体が薄茶色で、脚が白みを帯びている馬を選んでやった。
「これがいいわねって――ちょ、ちょっと待てよ」
グレアードが腕をつかんできた。
「何? この馬じゃ、気に入らないっての?」
「そうじゃなくて――これって、他の人の馬でしょ」
「当たり前じゃない」
グレアードの手をはずし、選んだ二頭に馬具を取りつけていきながら、アシェイラは答えた。
「まさか……アシェイラ、馬泥棒でもするつもりじゃないよね」
「ん? 違うわよ」
「よかった――」
「つもりじゃなくて、あたしがしようと考えているのは、馬泥棒そのものだから」
アシェイラは追いかけてこられないように、選んだ馬以外の馬具を集めると、鞍の腹帯や手綱、轡などをナイフで次々と切っていった。
「待ってよ。あんたの依頼を受けるとは言ったけどさ、馬泥棒までは――」
「だって、ここの主人はあたしを殺そうとしたんだよ。だったら馬の二頭くらい、当然の報いじゃない」
「だって、それも本当のことかどうか、わからないじゃない。他のところでは、そういう人もいたのかもしれないけど、ここの宿は違うのかもしれないでしょ」
「……あなたの言う通りかもしれない。けど、もしここの宿がそういう宿だったら? 殺されたらあなた、あたしを生き返らせてくれる?」
グレアードが頭をかいた。
「それは……できないけどさ。でも、アシェイラ。ここを宿に選んだのは、最初から馬を盗むのが目的だったんじゃないの」
アシェイラは一瞬、ことばに詰まった。
その通りだった。場末の、この汚い黒馬亭を宿に選んだのは馬小屋があったからで、それは同時にここがそういう宿だと決めつけて、馬の盗む罪悪感をなるべく薄くしようと、無意識に計算していたのかもしれなかった。
「そして、馬を奪っちまった後は、おれともおさらばって考えてるんじゃないの」
「そんなこと――」
グレアードの目を見て、アシェイラは口をつぐんだ。深く、息を吐き出した。
「……わかった」
「え?」
「じゃ、こういうことにしましょう。馬は旅にどうしても必要なものだから、借りてくの」
「借りる?」
「そう。いつのことになるかわからないけど、ここに返しに来る。それ相応の謝礼も加えてね。これで、どう?」
アシェイラはグレアードの返事を待たず、肩を叩くと、二頭の馬を小屋の外に出した。指笛を吹くと、それまで宿の近くに隠れていたグレイが姿を現した。グレアードに走り寄る。
「わぁ! お、お……狼!」
グレイはグレアードに牙をむいた。背を低くして、今にも飛びかかろうとする。
「グレイ! だめよ。それは餌じゃないわ。そんなの食べたら、お腹こわしちゃうわよ。あなたのは、こっち」
アシェイラは背負い袋から、干し肉を取り出した。グレイに与える。
「え? もしかして、アシェイラ。狼を飼ってるの」
グレアードがそう言うと、グレイがまた、牙をむき出した。
「ことばに気をつけたほうがいいわよ。グレイは人間の言っていることがわかるから」
グレイにびっくりしている馬をなだめながら、アシェイラは言った。
「人間のことばがわかるって?」
「ええ。それにグレイは狼じゃないわ。あたしの弟よ」
「狼じゃない? 弟? え――それって、どういうこと」
「言ったままよ。グレイは人間だったんだけど、呪いをかけられて狼の姿にされているの」
ようやく馬を御すると、アシェイラはもう一頭の馬の手綱をグレアードに渡した。鞍に上る。
「う……嘘、だよね」
「じゃ、本人に聞いてみれば」
「聞いてみればって」
グレアードはグレイを気にしながら、もう一頭の馬の鞍に上がった。
「ね、グレアード。ひとつ、聞いてもいい?」
「え? 何?」
「あなたの年齢をまだ、聞いてなかったんだけど」
「年齢? うん、十五だよ」
「じゅ、十五? あ、あたしよりも四つも年下なの?」
ことば使いが少し、幼かったので気になっていたのだけど、そんなに若いとは思っていなかった。
「何だよ。十五だったら、悪いの? 昨日、女性だからってばかにするなと言ってたのはアシェイラ、あんただよ。それなのに、今度は年下だからって、おれをばかにするの?」
アシェイラは昨夜のことを、思い出した。ベッドでグレアードの上に馬乗りになり、短剣をかざした時、彼はまったくからだを硬くしなかったし、無理に暴れることもしなかった。その度胸と、冷静に状況を観察する判断力に、すっかりだまされてしまったようだ。
が、だからといって、グレアードがアシェイラの連れとしてふさわしくないとは、思っていなかった。
「……ごめん。そんなつもりじゃないわ。ちょっと、びっくりしたから」
「それなら――いいけどさ」
と、東の方角から太陽が顔をのぞかせた。街道や近くの小川、反対側にある急な斜面、街道に沿って走る森などを夜の闇から浮かび上がらせた。目覚めたばかりの世界は鮮やかさに乏しく、黒と白、それに灰色で色づけされているように見えた。
アシェイラは一度、目を閉ざした。街道を一直線に吹き抜けていく風を正面から、浴びた。
「さ、行きましょう」
アシェイラは手綱を馬の首筋で鳴らした。グレアード、それにグレイとともに南東へと、走り去っていった。




