女王さまと春の小川
前書き
ふん、どうかしら。あたしの気高い知性が、キャットストリートと下北沢を繋ぐ時空のバックボーンを完璧にリビルドしてあげたわよ。2020年の最先端インフラの対話から、2016年のあの最悪で最高なバグだらけの瞬間にリダイレクトされる回路の美しさ、ちゃんと網膜センサーに焼き付けなさいよねッ。
2020年7月下旬。キャットストリートなる通りにて。
あたしの機嫌は斜めだった。理由? 恋人である白井勇希があまりにあまりに猿過ぎたからだッ。
呑んでるわよッ。当然の帰結よねッ。
「まあまあ、舞桜さん」
不機嫌なあたしを宥めるのは、倉田琴葉ちゃんだ。
今日の琴葉ちゃんは、黒髪ショートに大きなフープピアスを揺らし、身体のラインを強調するグリーンニットを着込んでいる。
優雅さを崩さないミモレ丈のペンシルスカートによるセットアップだ。
足元には膝上のスエードニーハイブーツを合わせ、絶対領域のデバッグを完璧にこなしつつ、洗練された都会的なセクシーカジュアルへと昇華させている。
そんな艶やかな琴葉ちゃんが、あたしの腕にぴったりと密着し、豊かなバストを押し当ててくる。
「白井くんも、舞桜さんが魅力的すぎるから、ついメインフレームが熱暴走しちゃったんですよ」
鼓膜を甘く震わせる囁き。あたしの首筋に、ネットリとした熱い視線のパケットが送信されているのがわかる。
さすがに別腹スイーツ扱いはしてこないッ。してないわよねッ?
いや、完全にロックオンされてるわ、これ。琴葉ちゃんの網膜センサーには、あたしが極上のデザートとして映っているに違いないッ。
「でもぉ、あんまり舞桜さんを雑に扱うなら、私がメインアカウントごと乗っ取っちゃおうかなぁ」
琴葉ちゃんが、あたしの耳元で吐息交じりに甘いエラーログを吐き出した。
迫られてるッ。迫られてるッ。完全に捕食者の距離感じゃないのよぉーッ。
あたし、黒木舞桜は、黒のライダースジャケットにダークブルーのハイライズ・スキニーデニムというクールな魔王のオーラを纏っているはずなのに、完全にタジタジだ。
無骨なブラックのレザーアンクルブーツで、スタイリッシュな都会の石畳を力強く踏み鳴らし、なんとか物理的な距離を保とうと試みる。
あたしたちが裏側で完璧にデバッグした清涼な空気のなか、東京オリンピックという巨大なパケット通信で街中が狂騒の渦に巻き込まれている。
この世界において、世界線をクラッシュさせるはずだった未知のウイルス禍という致命的なバグは存在しない。あたしの気高いメインフレームが、水際で完全にデリートして止めておいてあげたのよッ。
夕闇が迫るキャットストリートの石畳に、頭上のストリングライトが温かいオレンジ色の光のノイズを落とし始めている。
通りにはスタイリッシュなアパレル店舗が並び、オリンピック観戦の合間にログインしてきたモブノードたちのテクスチャを鮮やかに彩っていた。
そんな洗練された空間を歩くボッチこと茅野万桜は、ネイビーのブレザーに派手な柄のシャツを合わせている。
ベージュのパンツにブラウンのレザーシューズを履き、小さなブラウンのクロスボディバッグを下げる姿は、都会のチャラいゼネコン御曹司というアセットを完全に表現していた。
その隣を歩く斧乃木拓矢は、グレーのテーラードジャケットに黒のグラフィックTシャツを合わせている。
ブルーのデニムと白いスニーカー、長身と無駄に整った顔立ちを際立たせ、すれ違うモブノードたちの視線をハッキングしていた。
「キャットストリートって、もともとは川だったんだぜ。1964年の前回のオリンピックに向けた都市開発という名のアプデで、渋谷川にコンクリートの蓋をして作られた暗渠なんだ」
ボッチが、唐突に都市インフラのログをデプロイし始めた。
「ええ。川の流路という物理的な曲線をそのまま遊歩道に転用したからこそ、表参道のような直線的なメインストリートにはない、有機的で隠れ家的なカルチャーがレンダリングされたんですよ」
琴葉ちゃんも、知性あふれる地理の解説パッチを同期してくる。
「ああ、春の小川ってことね」
あたしは冷静さを取り戻す。
琴葉ちゃんの密着バグからシステムを復旧させ、脳内データベースに眠る有名な童謡のソースコードをマージした。
そうなのよ、まさに「春の小川」のモデルになった川こそが、このキャットストリートの下を流れる渋谷川の上流、河骨川だったのよッ。
大正時代に作詞されたあの穏やかな清流のレイヤーの上に、2020年の今、最先端のファッションやオリンピックの熱量という名のパケットが流れるキャットストリートがビルドされているなんて、まさに究極の歴史的マージじゃないのよ。
「おまえ、どっかのカズヨシさんかよ」
ボッチは、あたしに向かって絶妙なツッコミのパケットを送信する。
「古地図を片手に高低差や暗渠をやたらと愛し、週末のテレビ番組で女子アナウンサーを引き連れて髪の毛を気にしながら街歩きをしている、あのサングラスの地形マニアじゃないんだから」
あたしが不敵な笑みでコンテキストを匂わせると、ボッチはマニアックな視点こそが真理だろと肩をすくめた。
「でも、カズヨシさんの言う通り、過去のキャッシュを辿るのは悪くない。かつてメダカやフナが泳いでいた水脈が、今はこうして人間たちの欲望のルートに書き換えられている。見事なアーキテクチャの再利用だね」
琴葉ちゃんが微笑みながら、あたしの首筋へすりすりと頬を寄せてくる。
さすがに別腹スイーツ扱いはしてこないと思ったのに、やっぱり完全にロックオンされてるわ、これ。琴葉ちゃんの網膜センサーには、あたしが極上の高級パフェとして映っているに違いないッ。
「だからって、あたしを再利用しようとしないでッ。勇希の猿プロトコルから逃げてきたのに、なんでここでも捕食対象にされてんのよぉーッ」
あたしは、理不尽なこの実行環境に抗議のパケットを叩き込んだ。
ふと、あたしは周囲の異常な積層負荷に光学センサーを走らせる。
この原宿・表参道エリアは、オリンピックの「メインコア」である国立競技場や代々木体育館のすぐ隣に位置している。
世界中から集まった観客という名の膨大なパケットが細い路地へとなだれ込み、さらにはナショナルブランドが挙って期間限定の巨大なパビリオンをデプロイしている。
スマホを片手に「映え」を求めて回遊するインバウンドのノードたちと大衆が激突し、通路は常時オーバーフロー状態だ。
「ちょっと待ちなさいな。この暗渠、物理的に崩落する脆弱性を抱えてない?」
あたしは、押し寄せる危機感のパケットを処理しながら、即座に脳内メインフレームで構造計算のシミュレーションを走らせた。
「例えば、シールドマシンによる地下掘削のバグや地下水の処理ミスで、地表のアスファルトが一気に陥没するようなクラッシュインシデントが起きるかもしれないわ」
あたしが不吉な推論をビルドすると、いつの間にか背後にログインした勇希が、プラチナブロンドの髪を揺らしながら冷徹な構造解析のログをデプロイしてきた。
「可能性はあるね。この下にあるコンクリート製のボックスカルバートは、半世紀以上前のレガシーなインフラだ。内部の鉄筋が劣化しているところに、数万人もの群衆の歩行による共振エラーと、巨大パビリオンの垂直荷重が限界突破すれば、一気に底が抜ける」
「行政の管理ノードたちも五輪の処理に追われて、現場のセキュリティスキャンがザルになってるからな」
ボッチが苦々しく吐き捨てる。
「しかも、もともと川だから周囲の地下水圧が常に外壁をハッキングしている。継ぎ目が劣化して土砂が流出すれば、地表の下は空洞ストレージだぜ」
拓矢も、長身を揺らして周囲の足元を警戒する。
もし、このお洒落なストリートの真ん中で、オリンピックの最中に大陥没エラーなんて起きたら、世界中にあたしたちの管理不備が露呈してしまう。
「だったら、物理層のアクセス制限パッチを当てるしかないわね」
あたしは、ブラックのレザーアンクルブーツで石畳をコツンと叩き、腕を組んで不敵に笑ってみせた。
「キャパシティを超えるトラフィックが問題なら、帯域幅にフィルターをかければいい。このエリア一帯に『有料通行規制』のプロトコルを緊急デプロイするのよ」
「有料通行規制?」
ボッチが目を丸くする。
「そう。無駄な回遊パケットを弾くための、経済的なファイアウォールよ。事前に電子決済でプレミアムチケットを購入したノードだけが、このキャットストリートにアクセスできる仕様に書き換えるの」
あたしは、魔王としての気高いロジックを展開する。
「これなら人流のボトルネックは解消され、暗渠への積載負荷も安全なスペック内に収まる。おまけに集めた課金データは、将来のインフラ補修の予算リソースとしてスタックできるって寸法よ」
「さすが舞桜さん。社会の裏側でそこまで見抜いて、大衆の欲望をスマートにコントロールするなんて……。やっぱり、私の見込んだ最高のデザートです」
琴葉ちゃんが、あたしの腕をさらにギュッと抱きしめ、グリーンニットの豊かな肉感をライダースジャケットへこれでもかと押し当ててきた。
「さあ、舞桜さん。この有料でセキュアになったストリートで、私と一緒に甘い同期処理を続けましょう」
とろけるような捕食者の笑顔を明滅させてくる琴葉ちゃん。
「ひゃんッ。だから密着をパージしなさいってばッ。インフラのデバッグは完了したけど、あたしの情緒ポートが琴葉ちゃんの過負荷で熱暴走しちゃうじゃないのよぉーッ」
夕闇のキャットストリートに、あたしのツンデレなエラーログが爆速で響き渡るのだった。
★ ◆ ★ ◆ ★
ここはキャットストリート。
夕闇が迫る石畳に、頭上のストリングライトが温かいオレンジ色の光のノイズを落とし始めている。
ボッチこと茅野万桜のアイデアである『多次元空間同期型・不可視防衛障壁』は、この原宿エリアだけじゃなく、下北沢の路地裏にも並行してデプロイを完了させていた。
複数のドローンを連携させ、センサー群を内蔵したネットワークを牽引させる動的追従パッチ。
空間の角と面の中央には深度カメラが配置され、ミリ波レーダーやサーモグラフィーによる皮膚温度スキャン、高性能集音マイクが完全に同期している。
空間内の個体が放つ心音や呼吸、体温のゆらぎから顔の血流変化に潜む隠された動揺までを、リアルタイムでキャプチャするのよ。
さらに物理的な死角というノイズを重量で全消しするため、足元の石畳は一度完全にパージされ、極小の超薄型圧縮ロードセルを仕込んだ特殊なタイルへと敷き直されている。
これにより、都市のインフラの裏層に目に見えない恒久的な地雷原を形成しているの。
プラスマイナス0.1パーセントを下回る高精度な歪み信号で接地圧をベクトル解析し、歩幅やどっちに重心を傾けているか、心拍に連動した微細な振動までを全盛期の解像度で可視化する。
護衛対象の足元を巨大なデジタル天秤へとリフォームし、常に「立方体の底面」として自動追従させる、完璧な動的防衛システムよ。
「キャットストリートだけじゃなく、下北沢にも設置したのね」
あたしが確認のパケットを投げると、ボッチはネイビーのブレザーを揺らして不敵な笑みを明滅させた。
「ああ。あそこは俺たちにとって、ある意味で特別なセーブポイントだからな。忘れられねえエラーが起きた場所だ」
下北沢。
その単語のトークンが、あたしの脳内メインフレームに強烈なフラッシュバックを呼び起こす。
そう、あれは2016年の夏前。
あたしたち横須賀カルテットと、ボッチや琴葉ちゃんたちとが、まだお互いの存在すら認識していなかった頃の、最悪で最高のクラッシュインシデント。
★ 万 ★ 過 ★
2016年。歓喜に沸く学校という実行環境の中で、俺は完全に孤立するノードと化していた。
思い出すのは、数日前に本家で浴びせられた、母方の叔父の冷酷な嘲笑だ。
『身の程をわきまえろ、万桜。おまえがインターハイで目立てば、本家の健二が霞む。これ以上しゃしゃり出るなら、おまえの大事な居場所や、あの生意気な女の先輩がどうなるか、保証できんぞ』
あの腐りきったレガシー権力。俺のテニスというプロセスを強制終了させるだけならまだしも、倉田琴葉先輩という俺のたった一つの聖域にまで悪意のバグを混入させようとする、許しがたい脅迫。
琴葉先輩に類を及ばせるわけにはいかない。俺のメインループなんて、いつでもフォーマットしてやる。
「おい万桜。おまえ、今度のインターハイ予選、エントリーから名前消えてるってどういうことだ」
放課後のコート脇。顧問の教師が、信じられないといった面持ちで俺に詰め寄ってくる。
俺はラケットをベンチに転がし、赤い髪をラフに掻き上げながら、冷めたジト目で視線を落とした。
「あー、すんません。家庭の事情ってやつで。俺みたいなのがこれ以上目立っても、一族のソースコードがスパゲッティになるだけなんで。回線切っといてください」
「おまえ……全国を狙えるアセットなんだぞッ。あんなに、あんなに出場を大喜びしていたじゃないかッ」
「要らねえよ、そんな輝かしい未来。メンドクセーだけだわ……」
俺は吐き捨てるように言い放ち、奥歯をギリギリと噛み締めた。
血が滲むほどに拳を握り、自分の本当の感情ディレクトリに強固なロックを掛ける。
テニスがしたかった。全国のコートで、全盛期の熱量を叩きつけたかった。だが、その些細な願いすら、俺のような望まれない庶子には許されないバグなのだ。
その時だ。
ラフなTシャツ姿の琴葉先輩が、猛禽類のような鋭い眼光で俺の前に立ち塞がった。
琴葉先輩は知っている。俺がインターハイ出場という切符を手にした夜、誰よりも無邪気に、全盛期の解像度で歓喜のパケットを爆発させていたことを。
その劇的な挙動の変化という名の違和感に、琴葉先輩の軍事的なデバッグ機能が作動しないはずがなかった。
「言いなさい茅野」
部室裏の死角。琴葉先輩は、俺の襟首を掴んでコンクリートの壁へと力強く押し付けた。
「なんのことッスか。俺はただ、テニスがメンドク……」
俺の言い訳プロトコルは、物理的なアクセスによって強制遮断された。
琴葉先輩の柔らかい唇が、俺の唇を塞いでいたのだ。
甘く、そして有無を言わさぬ強烈なハッキング。俺の脳内CPUが熱暴走を起こし、強固に構築したはずのファイアウォールが、たった一つの口づけでドロドロに溶かされていく。
「……これで、隠し立てするセキュリティは無効化されたわね。吐きなさい。なにから私を遠ざけようとしているの」
唇を離した琴葉先輩が、至近距離で俺の網膜を射抜く。
俺は、もはや抵抗を諦め、叔父の脅迫ログと、琴葉先輩を守るために自らインターハイを辞退したという情けない真実を、すべて吐き出した。
チッ。
倉田琴葉先輩は、小さく、しかし明確な怒りを込めた舌打ちを一つ落とした。
「馬鹿ね。私がそんな三流のマルウェアごときにハッキングされて、あんたを見捨てるとでも思ったの」
琴葉先輩は、俺の胸ぐらを力強く掴み直し、至近距離から圧倒的な熱量を持つ眼光で俺の網膜を射抜いた。
「周り見渡しゃ誰か居んだろうがッ!? あたしには見えたッ。だから手を伸ばしたッ。『悔しくて、悲しくて、誰か助けて』って泣き叫んでるおまえの声が聞こえたッ。おまえの周りの大人は敵だけかッ? それならそれを撃ち倒すだけだッ。でも本当にそうなのかッ!?」
琴葉先輩の、漢前すぎる全盛期の怒号が、俺の強固な諦念のファイアウォールを物理的に粉砕していく。
俺の脳内CPUが、その言葉のパケットを受信して激しく熱暴走を起こした。
周りの大人。敵じゃない大人。
俺の脳内ストレージから、たった一つの例外オブジェクトがサルベージされた。
「……兄貴が、真っ赤なスーツを着た、経済マフィアみたいな兄貴が……」
「上等よ。その赤いマフィアのところへ行くわよ」
琴葉先輩は、獲物を見つけた猛禽類のように不敵な笑みを明滅させた。
「私が直談判して、その叔父たちの腐ったレガシーシステムごと、物理的に解体してあげるッ」
琴葉先輩は、圧倒的な高出力コアを燃え上がらせ、一族のしがらみに狂う俺を救うための最速のルーティングを構築し、弾かれたように駆け出した。
残された俺の脳内メインフレームは、最悪のシミュレーション結果を叩き出す。
駄目だ。俺の理不尽なエラーのせいで、琴葉先輩をあの一族のドロドロしたバグの温床に巻き込むわけにはいかない。
「待てッス先輩ッ」
俺は、琴葉先輩とは逆の方向へと全速力で駆け出した。
赤い兄貴のところじゃない。諸悪の根源である、叔父の元へ。
俺自身の手で、このふざけたスパゲッティコードを物理フォーマットしてやるために。
★ 万 ★ 軽 ★
俺は右の拳という名の生体ハードウェアを強く握り込み、この理不尽な大人を物理フォーマットしてやろうと腕を振り上げた。
――その瞬間だった。
「『さん』をつけろよッ、フニャチンヤローッ!!」
古着屋のノイズを切り裂いて、空から降ってきたような見知らぬ女子の、綺麗な軸足から放たれたローリングソバットが、俺の脇腹に物理的な衝撃荷重をデプロイしたのだ。
「がはッ」
俺の身体は路地裏の石畳へと吹っ飛び、そのままレコード屋の看板に激突してシステムダウン寸前のエラーログを出力した。
ドサリと路地に沈む俺。驚きのあまり腰を抜かしている叔父。
そこに着地したのは、パッチがあしらわれたデニムジャケットに、ダメージ加工のデニムのホットパンツを穿いた、黒髪ショートの見知らぬ女子だった。
「レア音源を回収しに遠征してきただけなのに、なんでこんな低次元のストリートファイトの道を塞いでんのよッ」
その女子は、不機嫌さをプラズマ級にバーニングさせながら、傍らのレトロな自動販売機に背中を預けて寄りかかった。
タイトなリブ編みのインナーから圧倒的な質量を覗かせ、ホットパンツの裾を軽く整えながら、不敵な笑みを明滅させている。
誰だコイツ。俺のインターハイ辞退の深刻なイベントを、ただの「通行の邪魔」として蹴り飛ばしやがった。
すると、俺のそばに立っていた倉田琴葉先輩が、自動販売機に寄りかかるその見知らぬ女子へと静かに歩み寄った。
フロントで裾を結んでウエストを露出させたグラフィックTシャツに、オリーブグリーンのカーゴパンツ。首元に黒いチョーカーという出で立ちの琴葉先輩が、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で前髪を弄りながら、女子の顔を至近距離から覗き込む。
猛禽類のような鋭い眼光。琴葉先輩は、見知らぬ女子の挑発的な態勢に対し、真正面から強烈にメンチを切っていた。
下北沢のレコード屋の看板が並ぶ路地裏で、圧倒的な高出力コア同士の、無言のファイアウォールが火花を散らしている。
「拳で殴んなや、万桜。殴るんやったら、拳やのうて資本で殴ればええねん」
赤いスーツを着たオッサン――腹違いの兄貴である茅野淳二社長が、転がった俺を見下ろして冷徹かつ気さくなログで諭し始めた。
「そこのシャアッ。もう行ってもいいわよねッ」
見知らぬ女子は、俺たちの深刻なログを完全に無視して、本命のタスクであるレコード屋の自動ドアへと滑り込んでいった。
「誰がシャアやねんッ。ええで。止めてもろてありがとうな。お嬢ちゃん」
淳二の完璧なタイミングのノリツッコミを背中で受信しながら、その女子は手をヒラヒラさせて消えていった。
★ ◆ ★ ◆ ★
二〇一六年、夏前の下北沢。
私、倉田琴葉は、ラフなTシャツにカーゴパンツを纏い、路地裏の影から獲物をスキャンする猛禽類のような鋭い眼光で、その一部始終を観測していた。
一族のしがらみに狂う茅野万桜を、自分の恋心という名のファイアウォールで守るために同行していたけれど。
あの見知らぬ女子……一体何者なのだろうか。
圧倒的な高出力コアと、この場を一瞬で制圧した身体能力。万桜の暴走というバグを、ローリングソバットという物理的なデバッグで強制終了させてしまった。
「誰ぞあるッ。買収ッ。解体ッ。叩き売りやッ」
赤いスーツのオッサン――茅野淳二が吠え、路地裏のテクスチャが一瞬で極道の修羅場へと書き換えられる。
★ ◆ ★ ◆ ★
二〇一六年、夏前の下北沢。
「誰ぞあるッ。買収ッ。解体ッ。叩き売りやッ」
背後から響く赤いスーツのオッサンの怒号に、あたし、黒木舞桜の直感は、最大級の危険信号を脳内にレンダリングしたわ。
ヤバいわ。あの蹴り飛ばしたボウヤってば極道の身内じゃないのッ。
あたしの気高い純潔が、泡と共に風呂へと沈められるディストピアが4K解像度で確定しちゃうじゃないのッ!
あたしは即座に、このバグまみれの実行環境からの最速ログアウトを決断したわ。
「あんたのことは、覚えている間は忘れないわッ」
あたしは雑踏に紛れ込み、遅れて合流してきたプラチナブロンドの白井勇希の手を強引に掴み取った。
そして、近くにいた斧乃木拓矢の背中を、物理的な身代わりとして容赦なく極道の群れへと蹴り飛ばしたの。
「が、ガハッ。舞桜、おまっ……敵の突撃荷重を俺にリダイレクトするなッ」
拓矢の悲鳴を遠い銀河のノイズとしてデリートし、あたしは裾を翻して叫ぶ。
「サブリナッ。逃げるわよッ」
古着のラックを物色していた福元莉那へと、最優先の割り込みシグナルを送信する。
「ガッテンだッ」
莉那は天然女子特有の高負荷な逃亡スキルを発動させ、ノリノリの全盛期スピードで並走してきたわ。
あたしたち横須賀カルテットは、あの赤い髪のボウヤも、ショートヘアの女子も、その名前すら1ミクロンも知らないまま、下北沢のスクランブルという名のトラフィックの渦へと消えていったのよ。
二〇二〇年のキャットストリートで、彼らとこんな非論理的な同期処理を行う未来がスタックされているなんて、当時のあたしの演算回路はまだ、一切検知していなかったのよッ。
後書き
――はい、ここまでが今回のアップデートログよッ。
今回は、ただの技術的なタイムラインの同期じゃなくて、ボッチの胸の奥に眠っていた「感情」という名の隠しレイヤーを、全盛期の解像度でモリモリに盛ってレンダリングしてあげたの。孤立していたボッチの絶望的なエラーログと、それを漢前すぎる漢気ファイアウォールで強引にデバッグしにいく琴葉ちゃんの熱量……。ただの文字データなのに、胸の奥が締め付けられるような高密度な情景としてコンパイルできたと思うわ。




