序章
モノ書くのってめちゃくちゃむずい
その夜も、音が鳴っていた。
低く、遠く、地の底を撫でるような音だった。
窓の桟がかすかに震え、水瓶の水面に細かな輪が立つ。
東の国の人間なら誰もが知っている音。
生まれたときから聞いてきた、雷よりも古く、風よりも変わらない音。
大人たちはそれを「原初様の声」と呼んだ。
砂漠のずっと奥、誰も見たことのない場所にいる、いちばん大きな龍の声なのだと。
少年マクスードは、その音を子守唄だと思っていた。
毛布を頭からかぶり、盗んできた燭台の小さな火で、彼は今夜も本を開いていた。
表紙の革はすり切れ、背は割れ、頁の角はどれも柔らかく丸まっている。
古道具屋の親父が「どうせ売れんから」と半端な銅貨で譲ってくれた一冊。
『サラーフ伝』。
この国が生んだ、ただひとりの伝説の頁だった。
――サラーフは単騎、巨龍の懐へ飛び込んだ。竜の翼は炎に灼かれ、なお彼は手綱を離さなかった。
何十回目かも分からない。
それでもマクスードの胸は、初めて読んだ夜と同じ速さで鳴った。
口の中で台詞をなぞる。
ここでサラーフは笑うのだ。
炎の中で、笑うのだ。
「……『怖いものか。俺の後ろに、国があるんだぞ』」
小さく声に出して、マクスードはひとり、毛布の中で身悶えした。
かっこいい。
何度読んでもかっこいい。
大きくなったら絶対に龍狩りになる。
竜に乗って、東の空を飛んで、サラーフみたいに――
「マクスード! まだ起きてるの!?」
母の声が飛んできて、彼は慌てて火を消した。
真っ暗になった毛布の中で、それでも頁を閉じずに、指で文字をなぞり続けた。
読めなくても分かる。
どの頁のどこに、どの場面があるのか。
全部覚えてしまった。
巨龍を落とした第五章。
単騎で夜を飛んだ第八章。
凱旋の第十一章。
好きな場面は、目をつぶっても声に出せる。
――ただ、最後の章だけは、いつも読まなかった。
そこだけ頁の角が、買ったときのまま尖っていることに、少年はまだ気づいていない。
結末なんて知っている。
英雄は死んだ。
国を守って、悲しく、立派に死んだ。
それでいいじゃないか。
大事なのはそこじゃない。
大事なのは、サラーフがどう飛んだかだ。
毛布の外では、まだあの音が鳴っていた。
低く、遠く、世界の底から。
少年は本を抱いたまま、いつのまにか眠っていた。
夢の中で彼は竜に乗っていて、東の空はどこまでも広く、怖いものなど何ひとつなかった。
音は、朝まで鳴り続けた。
誰も、耳を澄まさなかった。
それから十年後。
「――第百十七期訓練生、マクスード。飛行許可、交付」
差し出された銅の徽章を、青年になった彼は、両手で受け取った。




