第八章 秘めたる想い 4
レイドリック・エイベリーの少年時代は、恐らく自分で自覚する以上に周囲の愛情に満ちていただろう。その中で彼も当たり前のように、家族や身近な人々を愛しながら成長して来た。
そんな彼の愛すべき親しい人々の中でも、特に付き合いが深かったのはノーク男爵家の兄妹だ。
父親同士が親友であったエイベリー家とノーク家は、自分達が生まれる以前から互いの家を頻繁に行き来する間柄で、下手な親戚よりよほど身近な存在だった。
デュオンとローズマリーの父である今は亡きノーク男爵と男爵夫人は、息子と同年のレイドリックや、それより二歳年上の姉を実子のように可愛がってくれていたし、こちらの両親のデュオンやローズマリーに対する接し方も同様だ。
互いにそれぞれ二組の親がいる、そんな感覚だった。
ローズマリーが生まれると聞けば、エイベリー子爵は窘める妻を振り切って、レイドリックを連れて男爵家まで押しかけ、そわそわとするノーク男爵と共に産声が上がるその時を待ち続けた程だ。
お陰でレイドリックもデュオンと共に、産室から響き渡る細いながらも元気な彼女の声を聞くことが出来た……らしい。残念ながらその時の自分は五歳になったかならないかの年頃で、全く覚えてはいないのだけれど。
ローズマリーに関する記憶の中で、一番古い記憶は、産声を上げた時よりももう少し後…初めて彼女と会った時の記憶だ。真っ白な産着にくるまれた、当時の自分の手よりも一回りも二回りも小さい彼女の手指に触れた時のことをうっすらと覚えている。
その時の温もりも感触も、もう忘れてしまったけれど、こんな小さなものが同じ人間であり、生きて動いている様に心底驚いたことは何となく記憶にある。まだ産まれたばかりの赤ん坊は、笑うことも怒ることもせず、ただ純粋な琥珀色の瞳で自分を見ていた…ように思う。
それから間もなくして父が隣国との国境で起こった戦いに出陣し、重傷を負うと言う出来事があったために、暫くは会う機会が途絶えた。
ノーク男爵は父を見舞いに何度もデュオンを伴って、エイベリー家に訪れてくれていたが、生まれたばかりのローズマリーと夫人はそう言う訳にも行かない。
父の命の危機と、母や姉が取り乱し嘆く日々の中で唯一、レイドリックが心を休めることが出来たのはノーク男爵親子の訪れである。
男爵は寝たきりの父を叱咤激励し、心を乱す母を励まし、母に引き摺られて泣く姉を抱き締めて慰めてくれた。今のデュオンに良く似た面差しの男爵は、そうした姿を見つめているレイドリックの頭も撫でて、言ったものだ。
「多くの人を守る為に戦った、君の父上を誇りに思いなさい。そして君も、将来は誰かを守れる男になりなさい」
父の姿に不安と恐怖を抱いていたのはレイドリックも同じだ。そんな時の男爵の温もりに、レイドリックは泣いた。まだたった五歳かそこらの少年には、男爵の言葉の意味が判ったわけではない。
今覚えている言葉も、全て一言一句正しく覚えている訳でもないだろう。でもきっと、あの時男爵はこれに似たようなことを言って、レイドリックの肩を叩いてくれたのだ。
それから数ヶ月後、ようやく命の心配をしなくても良い程に父が回復して、エイベリー子爵家もどうにかそれ以前の平穏な時を取り戻した頃、再びレイドリックは男爵邸に出入りするようになった。
生まれたばかりだったローズマリーは、その頃にはもうしっかりと首が据わり、笑い、はしゃぎ、そして動き回るようになっていて、自分に向けられる笑顔が素直に可愛いと感じるようになったのもその頃だ。
妹の存在を自慢げに語るデュオンが、羨ましかった。自分にも弟か妹が欲しいと両親に訴えたけれど、残念ながらその願いが叶うことはなかった。
でもそれならば、ローズマリーを妹と思えば良いのだと言われたノーク男爵の言葉が、その後のレイドリックの彼女に対する感情の始まりだ。
時が過ぎると共に、彼女は歩き、言葉を覚え、何をするにも自分達の後をついて回るようになってくる。レイ、と舌足らずに自分を呼び、姿を見つけると満面の笑顔を見せて抱きついてくる彼女が、本当に可愛かった。
彼女に対する想いは恋ではなかったけれど、それに負けない深い身内に対する愛情を、レイドリックは確かに感じていた。
大切に大切に守り続けたい、宝物のような女の子。笑顔も、泣いた顔も、怒った顔も何をしても可愛らしくて、拗ねられればご機嫌を取りたくなる。溺愛という言葉が相応しいほど、彼女との時間は密で幸せな子供の頃の思い出に守られて存在していた。
けれども時は流れる。
子供が子供のままではいられない時間が、いつか必ずやって来る。そして自分が望む将来を歩むためには、例え大切な女の子を泣かせてしまっても、決断しなくてはならないこともあるとレイドリックが学んだのは、十一の時である。
本当は、レイドリックだって恐かったし不安だった。良く知った住み慣れた場所や優しい人々の傍を離れて、全く知らない人、知らない場所の元でこれから何年も過ごさなくてはならない。
でも自分が不安になった顔を見せれば、ますます彼女は泣くだろう。泣きながら引き留めようとする彼女に振り返ってしまったら、もう先に歩めなくなりそうだったから、あえてレイドリックは振り返らずに彼女の元から離れた。
彼女の泣き声がしばらくの間耳に付いて離れなかった。次に会う時には、笑って出迎えてくれるだろうか、それともすっかり拗ねてしまっているだろうか。どちらにしても自分は、先へ進まなくてはならない。
幸いにして迎え入れてくれたラザフォード伯爵夫妻は、自分の両親達と変わらぬ程に暖かな人達で、そこで出会った人々もレイドリックにとても良くしてくれた。環境に馴染むには少しの時間が必要だったが、元々屈託の無い性格も幸いしてか、環境の変化自体にはさほど苦労はしなかったように思う。
ただそれでも、途中から見習いに入った自分を快く思わない、同じ見習いの少年達は多くいたし、そこで受ける訓練や学問は実家で学んでいたことよりもさらに先を行く内容で、身につけるには相当の努力を必要とする。
少しでも自分が何か間違えたり失敗したりすると、ここぞとばかりに嘲笑う声が聞こえてくるので、彼らを見返すために寝る間も惜しむほどの努力を繰り返した。その中で真実親しくなれる、ケビンやローウェン、ボリスの三人と出会えたことは、レイドリックにとって大切な心の支えになる。
やがて十三となり、二年間を世話になった伯爵の城を離れて、ラザフォード伯爵が団長を務める騎士団に、彼の従騎士として入団する。
団長自らが取り立てた従騎士としての立場は、これまで以上に多くの従騎士達どころか、騎士達の妬みを受けることになり、数え切れない程の嫌がらせや、時には命に関わるのではないかと思えるような妨害を受けたこともあった。
それらの全てをレイドリックは黙して耐えた。もちろん、言い返したいことやり返したいことは山ほど存在したが、彼らにどんな正論を説いたところで納得などしないことは判りきっていたし、誰かから厚遇されれば、誰かに恨まれると言うことは既にレイドリックも嫌と言う程学んでいたからだ。
辛くなかったと言えば嘘になる。それでもケビン達がそれとなく助けてくれたし、心が折れそうになる度に、親しい人達の顔を思い浮かべてやり過ごす。
定期的に自分の元に届く、家族や幼馴染み達からの手紙もその心を癒し支える大きな要因の一つだ。デュオンの手紙には、必ずローズマリーのものも含められていて、年々上達してくる彼女の文字を見ながら、その成長を頭に思い浮かべては心を温めた。
やがて自分が腕を磨き、目に見えて強くなればなるほど、次第に周囲の雑音は気にならなくなっていた。
言いたい奴には言わせておけばいい、その内に何も言えないようにしてやれば良いのだ。
親しい友人や家族の支えと、年に二度戻る事の出来る実家での穏やかな時を心の癒しに、レイドリックはさらに三年の時をその騎士団で過ごした。
自分のそれ以降の人生を変えるような出会いをしたのは、十六の春、社交シーズンを過ごすためにラザフォード伯爵に連れられて王都へ上がった時のことだ。
この時共に王都へ上がったのは、自分の他にケビンやローウェン、ボリス達三人を含めた、十人程度の従騎士達とその指導騎士達だった。いずれも貴族家出身の者達ばかりで、これから先少なからず、社交界で生きて行かなければならない可能性を持つ者ばかりだ。
その中でもレイドリックのような嫡子は余計に社交という意味合いが強くなる。王都に滞在中は、王都を守る正騎士団に所属し、そこで日々の訓練を受けながら社交にも顔を出す、そんな日々が始まった。
ルイーザと知り合ったのはそうやって、王都に上がってから間もなくのことである。
その頃の彼女の姿は今もはっきりと覚えている。伯爵夫人として華やかに身を飾り、品良く、けれど抜け目なく微笑む術を身につけた今と違って、どこか頼りなげで危うい、けれど故郷に残してきた少女を思い起こさせるような、純粋で無垢な笑顔の少女だった。
初めて彼女が自然公園で散歩をしている姿を目にした時には、貴族家の令嬢ではなくどこかの屋敷の侍女かと思ったくらい質素な姿だった。けれど自分と視線が合い、恥ずかしげに頬を染めながら小さく微笑む笑顔は、純真な愛らしさに包まれていて、その姿がレイドリックの心に深く刻まれるのは一瞬だったように思う。
生憎とその時には彼女と直接言葉を交わすことも、それ以上見つめ続けることも出来なかったけれど、どことなく微笑ましい感情を抱いたのは確かだ。
それきりで終わるかと思っていた彼女との出会いが、再び待っていたのは伯爵の供で足を向けてた社交場でのことだった。
女性に比べて男性の成人年齢は遅く、この頃にはまだ成人していなかったレイドリックには、社交場そのものへ出席する資格はなかったが、伯爵の供となれば中に入ることも出来た。
その社交場で一人ぽつんと立ち尽くしていたのがルイーザだ。
デビューしたばかりの若く愛らしい男爵令嬢は、けれど実家が既に没落寸前だという噂がまことしやかに流れ、彼女に声を掛けることはそのまま、実家の借金の肩代わりも意味するからと、誰一人として近付く者はいなかった。
華やかな社交場で、精一杯着飾ってはいてもどこかみすぼらしさが見えるドレスに身を纏い、自然公園で見かけた時のような笑顔はなく、それでも精一杯毅然と振る舞おうと必死に俯きそうになる顔を上げている彼女の姿がレイドリックには衝撃的だった。
社交界に慣れれば、そうした令嬢の姿も珍しいものではないと知るようになるけれど、この時のレイドリックにはあまりにもルイーザの姿が痛々しく見えて仕方なかったのだ。
多くの紳士達が周囲で、レディ達にダンスの申込みをしている。でも彼女の元へは誰一人として足を向けない。その場にいた他の誰よりも愛らしい少女に見えるのに、彼女の周りだけ人が寄りつかない様はまるで残酷な虐めのようだ。
だからといってまだ資格のない自分が、彼女にダンスの申し出をするわけには行かない。出来ることはただ、気に掛けながら少し離れた場所で様子を伺う位のことだ。
そうしている内に、ルイーザの元へ一人の青年貴族が歩み寄り、何事かを話し掛けて二人で踊り出した。
その貴族にはあまり良くない印象を抱いたが、壁の花となるよりはマシだろうと少しだけホッとしたのもつかの間、程なくダンスが終わると共にその貴族は、半ば無理矢理にルイーザを人気のない場所に引っ張り込んで、強引に関係を持とうと迫り出す。
力のある貴族からすれば、没落寸前の男爵家ごときの娘など、力尽くでどうとでも出来る存在なのだろう。例え被害に遭って訴え出ても、傷つくのはいつも女の方で、男の方はこちらの方が無理矢理誘われたのだと言い放てば、それが通ってしまう。
さすがに今度は傍観していられずに助けに入り、どうにか彼女を救い出した時、ルイーザは大きな瞳を見開いて自分を凝視した後、ぽろぽろと大粒の涙を零した。安堵と悔しさと羞恥と恐怖、そして惨めな情けなさ…この時彼女の心を埋め尽くしていた感情を一言で説明するのは難しいだろう。
女の子が泣く顔が可愛いと思ったのはローズマリーが初めてだったが、女性が涙を零す様が美しいと思ったのはルイーザが初めてだった。
その時を境に、レイドリックとルイーザは徐々に近付き、言葉を交わす毎に、視線を交わす度に、彼女を放ってはおけないと言う感情はやがて恋に変わっていく。自分で自覚する初めての恋は、容易くレイドリックを舞い上がらせ、そして盲目にさせた。
恋心から自分の心を守る為の手段など何一つ知らなかった、まっさらだったあの頃、レイドリックはただ一途に素直に、彼女に対する恋情を表し、訴え続けて行く。またそのレイドリックにルイーザも応えてくれていたのだ。
彼女は素朴で愛らしく、そして聡明な恋人だった。
これまで苦労していた分、堅実的なものの考え方をして、理に叶った発言をする。通常の貴族家の令嬢のように贅沢は出来なかった分、図書館などで借りることの出来る書物や、知識人だった祖父から語り聞かされる知性を身につけた立派なレディだった。
女性に美しさとなよやかさだけを求める男にとってはいささか鼻持ちならない賢さだったかもしれないが、レイドリックにはそれが好ましい。
間違いなくあの時の自分は、誰よりも幸せな少年だったし、ルイーザもきっとそうだったと言ってくれるだろう。けれどもあの時の自分は、まだ幼かった……幼すぎた。
愛さえあれば何でも乗り越えられると信じていたあの頃、本当に大切な人を守る術すら知らないまま、感情だけで突き進もうとしていた幼かった自分は、やがて自分にはどうすることも出来ない現実が襲ってくるなど知らなかった。
一刻も早く正式に騎士となり、彼女と結婚して家庭を持つという想像の世界の幸せな未来を思い描くばかりで、現実が見えていなかったのかもしれない。
レイドリックが現実というものを思い知ったのは、恋人であったルイーザの目の前にボローワ伯爵が現れた時だ。
ルイーザに資産家である伯爵からの求婚があると言う話は聞いて知っていた。自分は嫌だけれど、親が強引に押し進めようとする…どうやって断れば良いのか判らないと。
けれどレイドリックはもう少し自分が成人するまで待ってさえくれれば、彼女の実家の窮地を少なからず救うことが出来ると考えていたし、彼女を守ることも出来ると思っていた。実際にその気持ちを彼女の両親にも伝えていたし、その時彼らは曖昧ながらも微笑んで一応は丁寧にレイドリックに対応してくれていたから、判ってくれた物だとばかり思っていたのだ。
言葉だけではなく、当時のレイドリックに出来ることは精一杯やってもいた。自分の自由になる範囲での資産は彼女の実家に援助したし、実家の父にもどうにか出来ないかと相談もした。
息子の申し出に父は決して頷いてはくれず、気難しい顔をしたまま沈黙していたけれど…恐らくあの時父は、既にチェルク男爵家の問題は、エイベリー子爵家にはどうすることもできない問題であると判断していたのだろう。
同じくノーク男爵にもデュオンにも相談はしてみた。けれど彼らはやはり、頷いてはくれなかった……その判断の意味をレイドリックも薄々理解してもいた。
かといって目の前の出来事を無視することも出来ず、自分が成人さえすれば、問題はもう少し軽く出来ると、真剣に考えていたのだ。
ルイーザもその時を待つと、確かに頷いてくれていた……けれど、彼女はその頃から少しずつ、これまで自分が知っていた恋人とは違う彼女に変化して行く。真っ白だったものが、次第に端の方から黒く塗りつぶされていくような変化。
何かがおかしいなと感じていたけれど、何を尋ねても彼女は心配しないでと儚く笑うばかりで、その儚い笑顔が余計にレイドリックを不安にさせる。少しずつ、彼女との間に上手く言葉で説明出来ない距離が開いていくような気がする。
違和感を感じながらも、この時のレイドリックは彼女を信じ続けることこそが愛情だと思っていた。彼女を信じよう、否、信じなければと。もちろん、ただ信じようとするだけでなく自分に出来る精一杯のことは、行動にも表していたつもりだ。
けれどとある日の夜、レイドリックは信じられないルイーザの姿を目撃することになる。
ボローワ伯爵からの、話し合いをしたいと言う呼出の手紙に応じて、伯爵の屋敷へと赴き、執事に案内された部屋へと辿り着いたレイドリックの耳に聞こえて来たのは、これまで聞いたことのない彼女の声と、男の声。
そして僅かに開いた扉の隙間から見えたのは、二人顔を寄せ、互いに抱きしめ合う姿だった。
頭を殴られた、どころか、心臓に直接剣を突き立てられたかのような衝撃だった。これは一体何の悪夢だろうと、自分の見たもの、聞いたものを疑った。
始めは目の前で何が行われているのか、すぐには理解出来なかった。遅れて理解した後も、もしかしたら彼女は無理強いをされているのだろうかと、そう考えもした。けれどレイドリックの見ている前で、ルイーザはボローワ伯爵の首に己の腕をしどけなく絡ませる。
こちらに背を向けた伯爵の肩越しに、彼女の目がこちらを向いた。とたん、彼女自身は自分がここにいることは知らなかったのだろう、はっと驚愕に目を見開いてその身体を大きく震わせるものの、狼狽えて身じろぐ彼女の身体を伯爵は離さない。
伏せた彼女の肩口で、ボローワ伯爵が笑う口元がはっきりと見えた……彼は自分とまともに話し合いをするつもりなど一切無かったのだと、その時気付く。謀られた、とは思ったけれどもう、そんなことはどうだって良い。
それ以上見ていられずに、逃げるように屋敷から取って返したレイドリックの元に、翌朝届いたのは、確かに彼女の文字で書かれた彼女からの別れの言葉だ。
『あなたを愛している、この気持ちは変わりません。けれどあなたの愛は、私を救ってはくれない。だから私は、あなたを裏切ります。あなたを待ち続ける勇気のない弱い私を、どうか許して下さい』
それから間もなくしてルイーザはボローワ伯爵と婚約し、そのまま自分の元から去った。最後に見た彼女の姿は、伯爵から贈られたのだろう高価なドレスとアクセサリーに身を飾り、本来彼女が持っていた美しさを余すところなく周囲に披露していた。
当時のレイドリックにはどれ程望んでも、叶えてはやれなかったことだ。
そうした彼女を見つめながら、一体自分が愛した人は何処へ行ってしまったのだろうと思う。小さな花や子犬を見て笑っていた姿も、手を触れ合わせるだけで頬を染めていた姿も、ただあなたと一緒にいられることだけで幸せだと言った姿も………伯爵の隣で微笑む彼女とは似ても似つかない。誰が悪かったのだろう、自分だろうか、ルイーザだろうか。それとも彼女の実家だろうか、ボローワ伯爵だろうか。
彼女の両親が未だ年若い、騎士叙勲すらしていない少年よりも、裕福な伯爵との結婚を強く望み、娘にそれを強いたのだろうことくらいは想像が付く。親の言うことが絶対なのは、何処の家でも変わらない。
その両親の逆らいきれない訴えと、自分との感情に板挟みになって、彼女の心が軋みを上げ、やがて変わってしまったのだろうことも想像は出来た。
その変化を前に自分はただ、幼く、無力だっただけだ。
小さな花で彼女を慰めることは出来ても、輝く宝石で飾ってやることは出来ない。夢が溢れる未来の話題で彼女を微笑ませることは出来ても、現実から救い出して守ってやることは出来なかった。
努力さえすれば、お互いに心さえあれば、どんなことも乗り越えられると思っていた、あの頃。そうした自分の考えが幼い傲りであることを、ボローワ伯爵は教えたのだ。
レイドリックにとって、もっとも辛く傷つく手段と結果で。
きっと、こうなることが正しかったのだろう。ただ好きだと言う気持ちだけでいっぱいだったあの頃の自分では、例えルイーザと結婚したとしてもいつか破綻する時が訪れていたのかもしれないと、今なら思う。
当時のルイーザにも、本当に訪れるかどうかも判らない未来に縋って生きられるほど、強くは無かった。変わってしまった彼女が全て悪い訳でもきっと無いだろう…変わらざるを得なかった状況が、残酷だっただけだ。
けれどあの時に受けた心の傷はどうしようもないほど深すぎて、その経験が、レイドリックの心を臆病にさせる。
あの時はただがむしゃらに、もう他の何も考えずに済むように騎士としての訓練に身を捧げ、他の何に脇目を振ることもせずに身体を、そして頭を動かし続けることでどうにか乗り切った。お陰で気がつけば、王宮騎士にも取り立てられ、あの頃の無力な少年では無くなっている。
それでもまだ、自分の心は怯え続けるのだ。
また次に、人を愛したら。
そしてまた、その愛した人が変わってしまったら?
変わっていくその人を、止めることが出来なかったら?
そうしたら自分は、まだ立ち続けることが出来るのだろうか。これも人生経験の一つだと割り切って、笑うことが出来るのだろうか。
自信がなかった。挫折を知らなかった少年の頃ならいざ知らず、今のレイドリックは身を切るような、生きたまま心が殺されていくような苦しみを既に知っている。心が凍り付いていくような精神の死を間近に感じながら、辛うじて生きて行くことの苦しさを知っている、自分が二度もその苦しみに耐えられるほど強くはないと言うことも。
ならば誰も愛さなければいい。誰も信じなければいい。そうすれば、例え裏切られても傷つくことはきっと無い、そんな風に心の何処かでは思っていたことは否定できない。
ローズマリーに涙ながらに訴えられた言葉は、全てが全て当たっているわけではない。けれど、本当の意味で自分が彼女を信じられなかったから、自分の弱さを見せることが出来なかったという点においては、きっと事実だろうと思う。
過去に受けた心の痛手は、幼い頃大切に思っていたはずの、そして今でも大切だと思っている少女にすらも、自分の意思と関わりなく怯えてしまう。
けれど、愛さなければ良い、という段階をとうに越えて、彼女がいつの間にか自分の心奥深くにまで存在している。宝物のようにその幸せを見ているだけで満足だった頃とは違い、もう触れずにはいられない程、彼女が一人の女性として自分の目の前にいる。
真実彼女が欲しいと思うのなら、前を向かなければならない。
いつまでも傷ついて、目を背け続けていられた時間はもう終わりだ。
自分は過去ではなく今を生きていて。
時は着実に動き、そして自分に取るべき行動の選択を求めているのだから。




